歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 |
南と北の古代史
概 要 | ||
| 日本列島の古代史は、近年大きな進歩をみせています。新たな遺跡発掘調査の成果や木簡をはじめとする出土文字史料などさまざまな新発見が蓄積され、新しく豊かな歴史像を提供しました。 世界がグローバル化するなかで、改めて東アジア的な視点から中国・朝鮮半島・日本列島・北方・南方の諸地域の古代史を、多面的に地域間の交流の歴史が注目されるようになったことなど、古代史を古代国家中心の一元的な歴史館のでみに限定してしまうのではなく、客観的な姿勢でとらえようという姿勢が広まっていることも大きな動きです。列島の各地域の人々の間で、国境やさまざまな境界を越えた交流が盛んであった様子が明らかになってきました。 国境が存在しなかった古代には、活発に越境した国際関係がありました。また、掘り起こされた各地域の歴史が明らかにされるなかで、古代には近代とは違って、日本列島に一元的な日本国家が存在していたわけではありません。かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。近畿を中心に本州・四国・九州のかなりの範囲を支配下に取り込んだ古代国家においても、「倭」にかわる「日本」という国号は七世紀後半の国家機構確立の過程を通して確立されたものでした。したがって、近代国家の国家観をそのままさかのぼらせてしまうことには注意が必要です。それは小都市国家がしだいに併合し合い成立したイタリアをはじめ、ヨーロッパ諸国の建国の歴史もよく似ています。 古代から前近代まで、琉球王国や北海道のアイヌの人々の独自の歴史・文化が「日本」という国家機構確立前には同時に併存していました。 近年の遺伝子研究では日本人(本州、北海道アイヌ、沖縄県の3地域を比較)の遺伝子はほぼ同じで、北アジアを起源に持つことが明らかにされ、従来定説化されてきた縄文人(アイヌ含)を南方系・弥生人を北方系とする埴原和郎の「二重構造説」は否定されています。(しかし日本語の地名がポリネシア系言語のマオリ語に似ているという説があります。) |
1.南の古代 |
まず、琉球の歴史の時代区分は、いわゆる「本土」の時代区分とはかなり異なっています。ここで琉球とは、現在の沖縄県と鹿児島県の奄美諸島を合わせた範囲です。さらに地理的に大きく分けると、奄美諸島・沖縄諸島と先島諸島(宮古・八重山諸島)とに分けられます。 沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、1968年に発見された「山下町洞穴人」は、約3万2000年前とされる6~7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨です。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するといいます。 その他、沖縄県で発掘され報告されている人骨化石
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2.北の古代 |
北海道には数万年前の氷河期にシベリアから人類が渡り、温暖となってからは本州からも渡来したようで、旧石器時代を経て、土器を中心とした縄文文化が興りました(縄文時代)。 古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指しました。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収されました。蝦夷(えみし)と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられています。ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものです。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいのですが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならないとされています。 古くは『日本書紀』に渡島(わたりしま)として登場し、阿倍比羅夫と接触を持ち、奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行ないました。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていました。おそらく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられています。 アイヌは、アイヌ語で「人間」を意味しますが、和人がアイヌを蝦夷(えぞ)と読んだのに対し、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことです。アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していました。シサムは隣人という意味のアイヌ語アイヌモシリ( 「人間の住む土地」:日本列島の北海道・千島列島および樺太島)の先住民族の一つであるアイヌのことです。形質人類学的には縄文時代の日本列島人と近く、本州以南が弥生時代に入った後も、縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられています。アイヌの歴史は、考古学上の概念としてのアイヌ文化が成立した時に始まりますが、後にアイヌと呼ばれるようになるエスニック・グループ[*4]は、アイヌ文化が成立する遙か以前から存在していた点に注意が必要です。 アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)で13世紀に成立したと考えられていますが、史料が十分ではないため、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難です。 本州以南は多数の渡来人(帰化人)が移住することで弥生時代を迎えましたが、本州をはじめとした「本土」の多くの地域が水田耕作を受け入れ弥生文化を迎えた時代に、北海道にまでは弥生文化が伝播せず、サケ・マスをはじめとした自然の恵み豊かな北海道では、狩猟・漁労・採集・栽培を中心とする生活が続いており、縄文文化が続きました(弥生・古墳時代に相当する続縄文時代は、紀元前2世紀から7世紀まで続いた)。この文化は、北はサハリン南端部、東は国後島・択捉島、南は東北地方から新潟県西部にまで及んでいます。これを続縄文文化と呼んでいます。この時代の土器が北東北にも影響を与える一方、七世紀には本格的に本土の文化も北海道に及ぶようになって、石狩地方では「北海道式古墳」が営まれたり和同開珎が出土するなど、交易・交流が盛んになります。 八世紀~九世紀には、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文土器[*5]が成立し、13世紀にかけて北海道で擦文土器が展開します。竪穴住居群によって構成される集落が各地に営まれ、つづいて、土師器の影響を受けて縄文がなくなり、北東北からも擦文土器が出土して、交流の実態を物語ります。 一方、道北からオホーツク海沿岸地方では、北東アジア的性格をもつオホーツク文化が展開しました。オホーツク海に面した海岸沿いに、五角形・六角形の大型竪穴住居を営み、熊などの骨を積み上げて祭る生活をしていました。10~11世紀には擦文土器になりますが、12~13世紀には本州その他との交易が展開するなかで、擦文土器は衰えていきます。 オホーツク文化の基盤の元に、本州の和人の文化を受容しながら、やがてコタン(集落)・チャシ(砦)・ユーカラ(口承文芸)・イオマンテ(熊祭り)などのアイヌ文化の時代を迎えます。倭人は本州から米・酒・鉄などの物品をもたらし、アイヌ側は北方産の獣皮・海産物などを交易しました。14世紀には、本州北端の十三港(とさみなと)に拠点を置く安東氏[*6]が蝦夷代官職になって北海道との交易を統轄するようになります。道南の渡島半島(おしまはんとう)南部海岸沿いには、展開した和人たちによって「道南十二館」と呼ばれる巨館群などが営まれました。 しかし、こうした和人とアイヌ人との交易の際に、また新しく進出してきた和人によるアイヌ人圧迫により、しばしば両者の間に衝突が起きるようになりました(1457年コシャマインの戦いなど)。コシャマインの勢力は道南にあった和人の館を次々と落ちしましたが、上ノ国[*7]の蠣崎氏(かきざきし)らによって制圧されました。 |
3.松前藩 |
蠣崎氏が勢力を広げ、松前氏と改姓して徳川幕府からアイヌとの交易権の独占を認められ、大名化していきます。1669年には、和人の横暴に対抗し、首長シャクシャインが各地のアイヌ勢力とともに蜂起して松前氏と戦いましたが、結局制圧されました。こうして、各地のアイヌが統合して国家のような政治勢力を確立していく道は閉ざされ、松前藩に従属する交易を強いられていきました。 松前藩 松前氏は、もと蠣崎氏(かきざきし)、さらにその前は若狭武田氏(一説には陸奥国の南部氏の一族)の出で、戦国時代に武田信廣が現在の渡島半島の南部に支配を確立しました。豊臣秀吉に臣従し、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地[*8]に対する支配権を認められ、江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いでしが、五代征夷大将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になります。さらに、享保4年(1719年)より1万石格の柳間詰めの大名となりました。 当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格にすぎません。慶長9年(1604年)に家康から松前慶廣に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていました。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされました。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとりました。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていましたが、しだいに取り締まりが厳しくなりました。 松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業でしたが、ニシン(鰊)が不漁になったため、蝦夷地への出稼ぎが広まりました。城下の松前は天保4年(1833年)までに人口一万人を超える都市となり、繁栄しました。 藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを制圧し挫折させました。 [編集] [以後の主な出来事]
[*2]…按司(あじ、または、あんじ)は、琉球諸島に存在した琉球王国の称号および位階の一つ。王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家にあたり、日本の宮家に相当する。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた。 [*3]…中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。 [*5]…土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来。本州の土師器の影響を受けたことがうかがえる。 [*6]…日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家。津軽安藤氏とも。本姓は安倍。鎌倉時代には御内人として蝦夷沙汰代官職となり、室町時代には京都御扶持衆に組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。近世以降は秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となった。 [*7]…北海道南西部、檜山支庁管内最南端松前町に隣接する町 参考文献:「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信 |
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