室町-5 山名氏と赤松氏

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山名氏と赤松氏

目 次
  1. 山名持豊(山名宗全)
  2. 赤松氏と万人恐怖
  3. 嘉吉の乱(かきつのらん)
  4. 乱の経過
  5. 黒田城と長谷部休範

1.山名持豊(山名宗全)

山名持豊(山名宗全)は、応永11年5月29日(1404年7月6日)~文明5年3月18日(1473年4月15日)は、山名時熙の三男で、母は山名師義の娘。子に山名教豊、山名是豊、山名勝豊、山名政豊、山名時豊、細川勝元室、斯波義廉室、六角高頼室。諱(いみな)は持豊で、宗全は出家名。通称は小次郎(こじろう)。山名氏の祖、山名三郎義範から10代目にあたります。

文明四年(1432)に家督を相続。1435年には父の時熙が死去し、1437年には兄弟の山名持熙が持豊の家督相続に不満を持ち備後で挙兵し、これを鎮圧します。但馬・安芸・備後・伊賀の守護職を与えられました。時熙には嫡男持熙(もちひろ)があり、はじめ後継者に立てられいましたが、将軍義教の勘気にふれて、持豊が家督に立てられたのです。永享七年(1435)、時熙が死去すると、持豊が山名一族の惣領となったのですが、備後において兄持熙が反乱の兵をあげました。ただちに軍を起した持豊は備後に進攻すると、たちまち持熙を国府城に討ち取りました。

将軍権力の強化と幕府政治の引き締めを狙う足利義教は、恐怖政治を行っていました。多くの守護、公家、武家が粛正の波にさらされ没落、つぎは自分の番と思いつめた満祐が義教を殺害するという暴挙を行ったのです。この前代未聞の事変に際して幕府は動揺をきたしましたが、赤松討伐軍を編成すると播磨に向けて進攻させました。その主力となったのは侍所頭人の地位にあり、赤松氏の本国播磨の隣国にあたる但馬守護職でもある山名持豊でした。

一族の反乱を平定した持豊は領国支配を固め、幕府の侍所頭人に任じられ、時熙につづいて幕府内で重きなしました。そして、持豊が侍所頭人在任中の嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が自邸に招いた将軍足利義教を暗殺するという一大事件が起こりました。

2.赤松氏と万人恐怖

赤松氏は播磨国の地頭でしが、鎌倉時代末の赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄(げき)に応じて挙兵し、鎌倉幕府打倒に大きく尽力した功績により守護に任じられました。南北朝の争乱では足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨国の他に備前国、美作国を領し、幕府の四職のひとつとなっていた家柄です。

義持は応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去しました。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟たちの中から「籤引き(くじびき)」で後継者が選ばれることになりました。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任しました。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれています。義教は、当初は「三管四職」の有力守護大名による衆議によって政治を行っていましたが、長老格の三宝院満済、山名時煕(ときひろ)の死後から次第に指導力を発揮するようになりました。

義教は、将軍の権力強化をねらって、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者をそれぞれの家督に据えさせました。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた関東公方足利持氏を滅ぼしました。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶たちが根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなってしましました。

足利将軍の中では三代義満に比肩する権力を振るった義教でしたが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられました。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者たちの名が書き連ねられてあります。中には遠島にされたり、殺された者もいました。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記しています。

3.嘉吉の乱(かきつのらん)

このころ幕府の最長老格となっていた赤松満祐は、足利義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨国、美作国の所領を没収されるとの噂が流れています。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津国の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまいました。

永享九年(1437)五月、大和国出陣中の一色義貫と土岐持頼が義教の命により誅殺されました。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居してしましました。
嘉吉元年(1441年)4月、足利持氏の遺児を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落(結城合戦)しました。捕えられた春王、安王は、護送途中の美濃国垂井宿で斬首されます。これより先の3月、出奔して大和国で挙兵し、敗れて遠く日向国へ逃れていた弟の大覚寺義昭も島津氏に殺害されており、足利義教の当面の敵はみな消えたことになっってしましました。

嘉吉元年(1441年)、将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺(嘉吉の乱)されると、同年、赤松氏討伐の総大将として山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定し挙兵し大功を挙げました。

同年6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招きました。『嘉吉記』などによると、「鴨の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」と招いたといいます。この宴に相伴した大名は細川持之、畠山持永、山名持豊、一色持親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熈貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちでした。他に公家の三条実雅(義教の正室三条尹子の兄)らも随行しています。

一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたちました。臆病な義教は「何事であるか」と叫びますが、傍らに座していた三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えました。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまったのでした。
酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名たちの多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑います。山名熈貴は抵抗しましたがその場で斬り殺されました。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負ってしましました。公家の三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向いましたが、切られて卒倒します。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化しました。

赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名たちは退出しました。

貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残しています。

嘉吉元年(1441年)に播磨国、備前国、美作国守護の赤松満祐が、六代将軍足利義教を暗殺し、領国播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱です。嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれています。

管領・細川持之を始め諸大名たちは、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまいました。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は、必ず同調する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極めていたのです。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいました。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去しました。これを妨害する大名は誰もいなかったのでした。翌25日、ようやく管領・細川持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定しました。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されませんでした。本拠地の播磨国坂本城に帰った満祐は、足利直冬(足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとしました。

その後、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津国から、山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定しました。大手軍は7月11日に発向しましたが、事実上の総大将であった侍所頭人・山名持豊はなかなか京を動きませんでした。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉・質屋を襲撃して財物を強奪しました。これには管領・細川持之も怒り、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件がを起こっています。

8月中旬、山名持豊はようやく4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防がありました。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍しました。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦しますが力尽き敗走しました。

赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨国の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまいましりました。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹しました。

この功績によって山名氏は、赤松氏の領国を加えて、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨など8ヶ国の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げました。京都室町に屋敷を構え在京しました。

山名持豊(宗全)は、満祐を討ち果たしたことによって播磨国の守護職を与えられ、備前国は山名教之、美作国は山名教清に与えられました。足利義満時代の明徳の乱で敗れて勢力を低下させた山名家は大きく回復し、管領細川家と力を競うようになります。
1443年には山名熙貴の娘を猶子に迎え、大内教弘に嫁がせ、1447年には同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結びます。

赤松氏はこの乱によって全ての守護職を奪われ没落しました。しかし、長禄元年(1457年)に赤松氏の遺臣が禁闕の変で後南朝に奪われた三種の神器のうちの神璽を奪還した事で、足利義政時代の赤松政則(義雅の孫)のときに再興を果たしています(長禄の変)。

播磨に兵を進めた持豊は赤松勢が拠る城山城を猛攻、観念した満祐は自害、赤松氏宗家は没落した。乱後、山名氏の功に対して幕府は、播磨・美作・備前の守護職を与えました。持豊はただちに垣屋越前守熙続を守護代に任じて播磨に派遣すると、赤松氏残党を掃討するとともに、領国支配を推進しました。しかし、播磨は赤松氏発祥の地であり、東三郡は幕府に味方した赤松満政が分郡守護に任じられるなど、領国支配の前途は多難でした。
播磨一国の守護職を望む持豊は幕府に働きかけ、ついに東三郡の守護職にも任じられました。この処置に怒った満政が挙兵すると、ただちにこれを討ち、満政を播磨から追い払いました。その後も赤松氏一族の挙兵が繰り返されましたが、そのことごとくが持豊によって征圧されました。

1450年(宝徳2)に出家し、家督を子の教豊に譲ります。1454年には赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立し、政務を引退して但馬へ下国しました。赤松則尚が播磨で宗全の孫に当たる山名政豊を攻めると、但馬から出兵してこれを駆逐します。1458年には赦免されて再び上洛。幕政を巡り、娘婿である細川勝元と対立するようになりました。三管領の畠山氏の家督争いでは、勝元は畠山政長を支持するのに対して畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持しました。

その後まもなく、持豊(宗全)が守護を兼ねていた播磨国で赤松氏再興の問題が起こり、将軍がこれを許したので怒った、持豊(宗全)は二万の大軍を率いて但馬から播磨に出陣し、康正元年(1455)六月には、赤松教祐(のりすけ)・則尚(のりなお)を討って自殺させ、将軍の命にそむいて八月には京都に侵入しました。このように、持豊(宗全)の勢力は将軍をしのぎ天下に並ぶ者のない勢いでした。
山名持豊の傲慢と勢力拡大を嫌った幕府の謀略で、享禄三年(1454)、持豊は討伐を受けて隠居、家督を嫡男教豊に譲りました。このとき、持豊は出家して宗全と号し、備後守護職には是豊が補任されました。長禄元年(1458)、赦免された宗全はふたたび幕府内で権力を振るうようになります。

黒田城と長谷部休範

和田山町東河(とが)の黒田城は、上道秀重(かんだちひでしげ)という武将が築いたものだといわれています。

上道秀重は小さいときから文武に優れ、嘉吉元年(1441)、竹田城を築いた名将山名持豊(宗全)の家来として播州の赤松満祐と戦い、たちまちこれをうち破り、さらに敵を追って進み、備前国上道郡(岡山県)に追いつめてこれを討ち滅ぼしました。その手柄によって、山名宗全からその地名をとり、上道(かんだち)の姓を与えられました。

その後、応仁二年(1468)三月二十日、夜久野ヶ原の合戦が起こりました。これは山名宗全と勢力争いをしていた細川勝元の家来で丹波国八上城(篠山町)の内藤孫四郎が、家来の長谷部四郎休範らとともに但馬国へ攻め込んで起こった合戦です。この戦いに、山名宗全の家来である竹田城主二代目・太田垣土佐守景近の三男、新兵衛尉宗朝(のちの三代城主)が多くの兵を引き連れて夜久野ヶ原に迎え撃ったわけですが、この時、黒田城の城主上道秀重は、長谷部四郎休範と戦いこの首を討ち取りました。大将を失った長谷部勢は総崩れとなり、夜久野ヶ原の合戦も山名軍の大勝となりました。山名宗全は大変喜び、御賀丸の太刀一振りと着替えの具足一揃いを新兵衛尉に贈ったと伝えられています。

しかし、その後東河村には悪い病気が流行し、村人たちは大へんな苦しみを受けました。それはきっと長谷部四郎休範のたたりであると噂が広まり、村人たちは相談して村の氏神さんに、休範の霊を祭ってその冥福を祈りました。それからは悪病も流行せず、村の平和は続いたということです。
その後、黒田城の城主も何代か続き、とくに秀重から四代あとの上道左京之進は、武芸に優れた人だったといわれ、天正八年(1580)九月、中国征伐中の羽柴秀吉に召し抱えられて鳥取城攻めなどに加わって手柄を立て、さらに山崎の合戦や賤ヶ岳の合戦にも参加したということですが、天正十二年(1584)の春、病に倒れ三月十八日に死んだといわれています。どうやら黒田城もそのころから、廃城となり子孫も絶えて、現在では跡形もなくなり、ただ伝説として物語が伝えられているだけとなりました。

出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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