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但馬には式内社が『延喜式』神名帳では、大社18座10社(いずれも名神大社)・小社113座106社の計131座116社を記載と5番目と大変多い。都の置かれた大和286座や神道のメッカ伊勢253座、出雲187座、都が置かれ交通の重要拠点である近江155座はわかるが、その次に丹波71、丹後65に比べてみても但馬が多いのは不思議であり異様である。
結論から先に言えば、都(大和)から朝鮮半島へ通じる最短地点であったからだと考えている。式内社や重要な神社は、歴史(郷土史)のランドマークだと益々感じる。よく地元の方々のご尽力により残ってきたと思う。
朝鮮渡来人を祀った神社ではなく、韓国を警戒した職務を任ぜられ結論を先に述べれば、韓国神社は『国司文書 但馬但馬神社系譜伝』には物部神社とあり、城崎郡司物部韓国連 (真鳥)
半島と関わりのありそうな名前の神社が、豊岡市
なぜそう考える人が但馬内にも多い理由にまず挙げられるのが初代多遅麻国造となった天日槍(あめのひぼこ)の関係性であろう。新羅の王子・天日槍とともに、旧出石郡の
日本海を挟み日本海側と朝鮮半島や渤海といわれた今のロシア東南端などが交流があったのは確かだ。しかし、縄文から弥生にかけて、まだ日本や大陸沿岸部も統一した国家だったわけではないので、今日の国家の概念で同一視するのはよくない。縄文時代から海流民族でもあった縄文人はモンゴロイド系の一グループで、自由に海流を利用して、太平洋の島々、オーストラリア、ニュージーランド、また日本列島や北方諸島、遠くはアラスカからアメリカ大陸に住み着いていった。そのなかに魏志で倭人といわれた人たちは、九州北部や半島南部に文化圏を形成していた。天日槍については記紀には、新羅の王子で帰化したとあり、その他の貴重な史料は『但馬故事記』だ。
「天日槍は稲飯命の五世孫なり。小舟に乗り、漂流し新羅に上り、国王となった」と書かれていること、つまり天日槍は天皇家であり倭人であり、もともと倭国成立当時には半島南部にクニはまだなく、倭人が任那から新羅という集合国家成立に関わっていたことはすでに別記したので、そちらを参照いただき、この韓国神社の謎についてもいろいろ調べてきた結果を記したいと思う。
結論を先に述べれば、韓国神社は『国司文書 但馬但馬神社系譜伝』には物部神社とあり、城崎郡司物部
城崎郡司・榛麿は飯谷(古名は墾谷、針谷、榛谷)を住処とし、父物部韓国連名を祀り、物部神社とした(韓国神社とも)。連(むらじ)はヤマト王権で使われていた姓(かばね)の一つで、家臣の中では最高位に位置していた姓の一つである。
榛麿以降、しばらく世襲で城崎郡司となった。榛麿の子が神津主(畑上の重浪神社)。その子が久々比(鵠)(久々比神社)。同じく榛麿の子で多遅麻の校尉に格麿がいる。その子が三原麿で城崎郡の大領(城崎郡の軍団大将)を務めた。(鏡神社・豊岡市三原)
神津主の弟、格麿は大石宿祢を賜り、以後大石とする。物部韓国連三原麿は大石宿祢と称し、その子大石宿祢
【城崎郡司系譜】
1代 2代 3代 4代
大売布命…物部
物部韓国連の足跡
大売布命(前102-176)
- 景行天皇三十二年、摂津の川奈辺(川辺郡*1)・気多・
黄沼前 の三県を賜う 味饒田命 の弟 彦湯支命の五世孫伊香色男命の子- 多遅麻物部氏の祖
物部多遅麻連公武
- 大売布の子
- 神功皇后二年、多遅麻国造
- 府を気立県高田邑に置く
- 四十五年、新羅朝貢せず。将軍荒田別命・鹿我別命は往きてこれを破る。
物部多遅麻毘古
- 公武の子
- 仁徳天皇元年、多遅麻国造
- 府を日置郷に遷す
物部連多遅麻公(-499)
多遅麻毘古の子
反正天皇三年、多遅麻国造
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城崎郡
物部韓国連命(真鳥)
物部韓国連榛麿(564-)
欽明天皇25年 城崎郡司となす。
大売布命の末裔・物部韓国連命の子・城崎郡司
針谷を開き住処となす(今の飯谷)父物部韓国連命を榛谷に祀り、物部神社と云う(また韓国神社とも云う)
式内 物部韓国神社 祭神:物部韓国連命(物部韓国連の祖)
神津主命
推古天皇35年(617) 城崎郡司となす。
榛麿の子
物部韓国連榛麿を榛谷丘に葬る。
久々比命
天武天皇白凰3年 城崎郡司となす。
神津主の子
神津主命を敷浪丘に葬る。
式内 重浪神社 祭神:物部韓国連神津主命 神人 物部韓国連正世 豊岡市畑上843
文武天皇大宝元年 物部韓国連久々比卒す。
三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称しまつる。(久々比は鵠の和名)
式内 久々比神社 祭神:久々遅命(久々比命の別命) 豊岡市下宮318-2
※鵠とは「くぐい」と読み、ハクチョウの古称。
格麿
校尉物部韓国連格麿 奉行
聖武天皇は、金銅の盧舎那仏を鋳造せんがため、金工・泥工(左官)・石工を諸国に募り、かつ大力の者を集め、その工事を助けしめ給う。(東大寺大仏)当国の校尉物部韓国連格麿もまた募に応じ、皇都に上り、而してよく大石を運び、工速やかに成る。天皇これを喜び、天平17年、姓大石宿祢を給う。
榛麿の子
三原麿
城崎郡大領 正八位下 格麿の子
孝謙天皇勝宝元年、物部韓国連三原麿は、姓を大石宿祢と称す。
大石宿祢正躬
城崎郡司。三原麿を葬り、祠をその傍らに建てこれを祀り、これを三原神社と申し祀る。
豊岡市三原 今の鏡神社
また主帳に命じ、神社の格例を定め、式典を挙げ、左社を以て式典の例に入る。
大石宿祢正名
(大石宿祢
*1 摂津国川辺郡 今の川西市の全域・伊丹市・尼崎市・宝塚市の大部分(武庫川以北)・三田市と大阪府豊能町の一部
式内売布神社 宝塚市売布山手町1-1 今の祭神は下照姫神
式内 〃 豊岡市日高町国分寺797 大売布命
式内 女代神社 豊岡市九日市上町460-1 今の祭神は天御中主神 神産巣日神 高皇産霊神
『但馬故事記』 祭神 大売布命(亦名大売代命 物部連の祖、気多・黄沼前県主)