但馬・丹後は、方言も山陰や若狭に近いが、兵庫県・京都府であり、関西(近畿)でもある。瀬戸内の山陽地方と中国山地を隔てて北にあるので山陰という。かといって、日本海側は交通も不便であり、過疎化が進み人口も減少傾向にある。
しかしである。結果的に自然や寺社などが残っていることは財産でもあるのだ。そもそも三丹が国として誕生したはるか昔から江戸末期に黒船が来航するまでの日本誕生から長い間、日本海側が表日本だったのであるのに比べれば、日本列島の太平洋側が表玄関になったのは、幕末からわずか200年に過ぎない。
とくに但馬・丹後は、なかでも近い豊岡市と京丹後市などの地域は、文化・方言等がよく似た地域で、府県の違いはあるにも関わらず、共通の生活圏でもある。
『国司文書 但馬故事記』にそのヒントが隠されている。
郡ごとに八巻に分けられれるが、ほとんどの冒頭はこれにはじまる。
天照國照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖、高皇産霊神より、十種瑞宝を授かり、妃の天道姫命とともに、坂戸天物部命等十数名を率い、天磐船に乗り、田庭の真名井原に降り、豊受姫命より五穀養桑の種子を獲て、射狭那子嶽に就き、真名井を掘り、稲の水種や五穀の陸種をつくるべく植え、その秋、稲の穂が一面に充ちた。(中略)故にこの処を田庭と云う。丹波の号、ここに始まる。その後、天火明命は谿間(但馬)を開く。(中略)
のち、人皇10代崇神天皇の御世、先帝の皇子、彦坐命が丹波・多遅麻・二方の三国を賜い、大国主となる。
伴とし子さんは著書「ヤマト政権誕生と大丹波王国」で、
国宝『海部氏系図』(元伊勢籠神社)の中で、地名に限り言及すると、「孫 健振根宿祢たけふりねのすくね」のところに、「若狭木津高向宮わかさこづたかむくのみや」という地名が記されている。このことから、古代の地域国家を名づけて大丹波王国(=丹後王国)としたが、若狭国もその勢力範囲であったと考えられる。(中略)
そして、『古事記』『日本書紀』の神話伝承や、考古学的見地から、また、国宝『海部氏系図』等の研究から、古代第丹波王国は、古代日本の各地域にあった王国の中でも、特別に大きな力をもっていたのではないだろうかと考える。
その中心勢力があった丹後の名称を使い丹後王国といわれた。しかし、丹後の名称は八世紀に生まれたものであり、また、古代においては大縣主がいた丹波国であるということをふまえ、「大丹波王国」とするのが適していると考える。
『丹波史年表』によれば、684年丹波から但馬が分かれる。ぞから、713年に丹波から丹後が分かれる。
大丹波王国(=丹後王国)という名称は、まだ最近になって言われ始めた名称で、BCの当時は何といったか分からないが、今の丹後・但馬・丹波に分けられる以前の田庭であり丹波だ。現在も三丹とか北近畿と呼ばれるエリアである。分国されるまでこの3つのエリアを“丹波”と呼んでいた。
『日本書紀』に、四道将軍のひとりで、彦坐王ひこいますのみこの子・
なお、崇神天皇は実在したとしても3世紀から4世紀の人物とされている。『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。
四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。
丹波道主の丹波道とは地域区分ではないかという説がある。前田晴人氏は、四道将軍の神話自体は史実とは認めないものの、ここに描かれた「四道」を五畿七道成立以前のヤマト王権の地域区分であったとし、四道将軍はその成立を説明するために創作された説話であるとする説を唱えている。
北陸、東海、丹波は、それぞれ北陸道、東海道、西道は山陽道であろう。中央と地方を結ぶ幹線道の名称であり、またその地域をさすから、のちに七道のひとつの山陰道ではなく丹波道とあるのは、まだ但馬以西の因幡、伯耆、出雲、石見が、ヤマト政権下に平定されていなかったとされる。丹波とはのちに丹波・但馬・丹後に分けられる全域を意味し、若狭も含むものであり、丹波道と言われていたと考えられる。
また丹波は、『古事記』開化天皇の条に「旦波之大懸主たにはのおおあがたぬし」、また崇神すじん記には、「旦波たには国」、『日本書紀』垂仁天皇の条には、「丹波たには國に五婦人あり」とあるように、かつては、「旦波たには」(『古事記』の一部)、「但波たんば」(『正倉院文書』)の表記も見られる。
(第四章 彦座王と大丹波編に続く)