北朝鮮は1954年、戦後復旧三カ年計画を開始し、ソ連、東欧、中国など社会主義諸国の経済・技術援助を得て、工場再建と都市復興をおきないました。同時に、農業生産力を回復するために農業の協同化がはかられ、58年8月までに完了しました。社会主義への移行の基礎を整備した北朝鮮は、56年12月、「自力更生」をかかげて生産と労働を奨励する「千里馬(チョンリマ)運動」を開始しました。これは、戦争の犠牲や住民の日本や韓国への「越南」による人手不足を労働者の超過労働により克服しようとするものでした。続いて57年から第一次五カ年計画が推進され、予定より早く60年に完了しました。これによって北朝鮮は「工業国」に変身したとされ、農業における「青山里(チョンサルリ)方法」や工業における「大安の事業体系」など、朝鮮労働党の指導下に大衆の自発性を引き出す生産管理運営方式が確立されました。
政治的には戦争中に弱体化した朝鮮労働党を再建する過程で、戦争の指導責任として朴憲永[*1]ら旧南朝鮮労働党系幹部に転嫁され、「米国のスパイ」として処刑されました。他方、戦後復興の方針をめぐり党内が対立し、56年8月、延安派、ソ連派の幹部が金日成の個人崇拝を批判する意見を表明しました。しかし、金日成の反撃により反対勢力は粛正され、権力集中が一段と進みました。
韓国の復興は米国の援助に依存しました。経済協力局(ECA)や国際協力局(ICA)などから総額31億ドルの無償援助がなされ、忠州(チョンジュ)肥料工場などが建設されました。また、米国の余剰農産物援助によって三白工業(製粉・製糖・紡織)が発達しましたが、これは消費財中心で国内農業を抑圧した結果となり、韓国の経済自立にそれほど寄与しませんでした。むしろ農地改革により誕生した零細自作農を没落に導きました。加えて、戦争勃発前後から旧日本人財産の払い下げが本格化し、政権と結託し特恵を獲得した資本家が初期独占財閥として成長しました。さらに、1953年10月、韓米相互防衛条約が締結され、米軍が駐屯することとなりました。1957年に米国の援助が削減され、無償援助が有償援助に変わると、韓国経済は不況に陥りました。
四月革命と軍事クーデター
憲法の改定や政敵であったソウ奉岩の処刑など、長期政権のための工作を進めた李承晩は、1960年3月の第四代大統領選で四選を果たしました。しかし、行政府主導の不正に対して、馬山からはじまった抗議運動は全国に波及し、4月19日、ソウルの学生、市民が決起して大統領官邸を包囲しました。知識人、マスコミの退陣要求に加え、米国や軍部も支持を撤回したため、4月27日、李承晩は退陣し、ハワイに亡命しました(四月革命)。1960年6月、議院内閣制にもとづく新憲法が公布され(第二共和国)、民主党の張勉政権が成立しました。張勉政権下では言論と集会の自由など民主化が進みましたが、与党の内紛で政権は弱体であり、街頭デモが慢性的に発生するなど、社会が混乱しました。新政権の発足に合わせて北朝鮮が南北連邦制を提議すると、民間でも統一論議が高まり、1961年5月20日、板門店で南北学生会談を開催することが決定しました。
1961年5月16日、陸軍少将 朴正煕らの陸軍将校(後に大統領になる全斗煥、盧泰愚が含まれている)による軍事クーデターが勃発し、軍事革命委員会(のち国家再建最高会議)が実権を掌握しました。張勉政権は無力であったことから米国も事実上黙認しました。「反共」を国是に自立経済建設を標榜する軍事政権は、経済開発計画を策定したほか、国家再建非常処置法、反共法の制定や中央情報部(KCIA)の設立など、権力強化のための処置を講じました。また、軍部、政界、財界の粛正を図る社会浄化運動を展開し、南北統一運動を推進してきた労働組合、学生団体の幹部の多くも逮捕されました。さらに、1963年10月、第五代大統領選挙で当選、12月、新憲法が発効して大統領に就任しました(第三共和国)。他方、韓国の軍事政権が対決姿勢を明確にしたのに対して、北朝鮮は、61年7月、ソ連、中国とそれぞれ友好協力相互援助条約を締結しました。
日韓国交正常化とベトナム派兵
1952年2月、国交樹立のために日韓会議が開始されましたが、植民地支配をめぐる日本側代表の発言などが韓国側の反発を招き、交渉は難航しました。しかし、軍政が発足すると、極東の安保体制確立を臨む米国、外資導入を切望する韓国、経済進出をねらう日本の思惑が一致し、交渉が急速に進展しました。1962年11月、金鍾泌KCIA部長と大平正芳外相との会談で、植民地支配にともなう損害の賠償や不利益の弁済に関する対日請求権問題が決着しました。1964年3月以後、韓国では「対日屈辱外交」反対運動が全国に拡大しましたが、政府は非常戒厳令を発して弾圧し、1965年6月、日韓基本条約が締結されました。日本は、韓国を「朝鮮半島唯一の合法政府」として承認し、無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル、民間商業借款3億ドル以上を供与することを約束しました。植民地支配に関しては、合法的支配を唱える日本の解釈の違いは放置されました。
また、韓国政府は米国の要請を受け、1964年10月、南ベトナム政府と韓国軍のベトナム派遣に関する協定に調印しました。その結果、1965年1月から73年1月まで、延べ30万人以上の兵士と要員が派遣されました。派兵の見返りとして、米国は駐韓米軍の維持、対韓軍事援助の増額などを約束しました。一方、韓国からの軍需物資の調達、派遣兵士の本国への送金などは、経済開発に必要な外貨の獲得に貢献しました。それにもとづき、67年から外資導入と輸出指向による工業化をかかげる第二次五カ年計画が実施されました。馬山や裡里に設けられた輸出自由地域には日本企業が進出し、低資金に支えられた労働集約型の繊維産業を中心とする軽工業部門が急激に成長しました。
日本への影響
朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカやイギリス、フランスなどを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治、経済、防衛にも大きな影響を与えました。
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に日米安保条約と共に締結されました。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活しました。これらの事象をまとめて讀賣新聞は「逆コース」と呼んだ。もっとも、日本の再軍備自体は、アメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが1948年に答申書を提出しており、朝鮮戦争勃発前からほぼ確定していました。
経済的には、国連軍の中心を担っていたアメリカ軍が武器の修理や弾薬の補給、製造などを依頼したことから、工業生産が急速に伸び好景気となり、戦後の経済復興に弾みがつきました。日本では以後、このような状態をさして特需と呼ぶようになります。また、戦火を逃れるために朝鮮半島から様々な方法で日本に流入した難民は20万から40万人とも言われています。その一部は現在も日本に在留しているとみられています。
出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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※[*1]朴憲永…(パク・ホニョン・1900~55)。革命運動家。三・一運動後、火曜派社会主義者として活動。解放直後共産党を再建し、南朝鮮の革命運動を指導したが、46年北朝鮮に移り副首相兼外相となった。
※[*2]朴正煕…(パク・チョンヒ・1917~79)。慶尚北道出身。大邱師範学校を卒業し、慶北聞慶国民学校で教員後、満州国軍の新京軍官学校を主席で卒業で学び特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学。3位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった。解放後、韓国の陸軍士官学校に再入学。卒業後、大尉に任官。一方で南朝鮮労働党(共産党)に入党し、軍内党細胞の指導者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告される。しかし、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることが米軍当局に評価されて釈放された。朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、さらに戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。
休戦後の1953年には、アメリカの陸軍砲兵学校に留学した。
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