韓国政府樹立後も、南部では左派の遊撃闘争が継続しましたが、1950年春にはほぼ壊滅しました。他方、米国は西太平洋の防衛線内に韓国が入らないことを言明しました。米軍は、1949年6月までに軍事顧問団500名を残して撤兵しました。中華人民共和国の樹立により社会主義の優勢を確信した北朝鮮は南進を決意し、中国とソ連の同意を得ました。さらに、1950年5月、韓国総選挙での李承晩派の大敗は、北朝鮮に「祖国解放」を楽観視させる根拠となりました。
1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を突破し、戦争が勃発しました。北朝鮮軍は28日ソウルを占領し、南下を続けました。これに対して、韓国政府は釜山に遷都し徹底交戦の姿勢を示しました。また、「内戦不介入」という北朝鮮の予測に反して、米国は国連安保理事会を招集、北朝鮮を「侵略者」と非難し、韓国を支援するため米軍を主力とする国連軍を派遣することを決議しました。
南部を占領した北朝鮮軍は、北部と同様の「民主改革」を実施しましたが、期待した民衆蜂起は起きず、性急な改革に対して反発が強まりました。1950年9月、国連軍が仁川に上陸すると、北朝鮮軍は退却を強いられました。国連軍は、ソウル奪回後、北朝鮮を解体することを決意し、10月、38度線を突破、平壌を占領して、一部は中朝国境にまで達しました。国連軍の北朝鮮進撃が自国の存亡にかかわると判断した中国は、「抗米援朝運動」を展開し、同月、中国人民志願軍(実態は正規軍)を派兵しました。中国軍の参戦で戦況は逆転し、平壌奪回に続いて、1951年1月、ソウルが再占領されました。これに対して国連軍も反撃、3月ソウルを再奪還しました。その後戦況は膠着し、国連軍司令官マッカーサーは中ソ各地への原爆投下を企てましたが、英国などの反対で阻止されました。
1951年7月、ソ連の提案を請け、国連軍と中国軍、北朝鮮軍の間で休戦会談が開始されました。交渉は軍事境界線設定や捕虜交換をめぐり紛糾しましたが、1953年7月、「単独北進」を唱える韓国を除く三者が、休戦協定に調印しました。戦闘は停止し、軍事境界線の南北に非武装地帯が設定されました。
戦争の人的被害は、韓国軍、国連軍側の死傷者や行方不明捕虜が115万人、中国軍側の死者142万人以上、非戦闘員の犠牲者と行方不明者も200万人以上と推定されています。物的被害も著しく、韓国の被害額は、総国民所得の二倍に当たる30億2000万ドルに達しました。また、北朝鮮も国土の大半が荒廃し、戦前に比べて製造業の36%、農業の24%が減退しました。加えて、戦争は南北の分断を固定化し、相互に憎悪し合う異質化を徹底しました。
出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男