9 朝鮮の開国と開化政策

大院君の攘夷政策

19世紀の中ごろ、東アジアの中国・日本・朝鮮は、相ついで欧米諸国との開国を迫られました。
19世紀の朝鮮では、世道政治の弊害によって混乱をきたし、それに加えて、自然災害や疫病の流行、天主教の流入などによって、社会的な不安が高まりました。そのため各地で民乱が続発しました。こうした社会不安を背景に、崔済愚が1860年に東学という宗教を創建しました。東学とは、西学である天主教に対抗するという意味をもっており、その点で民族主義的な性格をもっていました。また、人間平等を説いて「地上天国」の到来を予言しました。そのため圧政に苦しむ多くの人々を惹きつけました。1894年2月、全羅道で、東学異端派に属する全ほう準を指導者に、不正を働く地方官に対する民乱が起こりました。さらに閔氏政権を倒し外国人を排斥するために農民軍を組織して、漢城めざして北上していきました。5月末には全羅道の中心地の全州(チョンジュ)に入り、政府軍と戦闘を繰り広げました(第一次甲午農民戦争)。政府軍と戦闘が拡大すると、政府が清国には兵を要請し、日本も出兵してくるとの情報が伝わってくると、農民軍は政府との間に和約を結んで、一次撤退しました(全州和約)。

「夷をもって夷を征す(欧米の力を取り入れ殖民地になるのを防ぐ」という方針を国家づくりの基礎として、盛んに欧州の技術や文化を取り入れ近代化を推し進めていました。同時に東アジアにおけるロシアをはじめとする欧米列強による植民地化の流れを防ぐことで自国の安全と安定を図ろうと考えた日本政府は、朝鮮半島に対し、西洋に対抗するには、東洋の近代化と貿易が重要であることを訴え、朝鮮との交渉を始めた。しかし、当時の朝鮮は鎖国状態で、周辺の社会情勢について詳しくなく、日本で起きた革命の意図もあまり理解していませんでした。当時、政治の実権を握っていた国王高宗の父である大院君は対外政策では欧米諸国の侵入に対し激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交の樹立に反対し、交渉は一向に進みませんでした。

1864年、幼くして即位した国王高宗に代わって実権を掌握した興宣大院君は、相ついで来航し開国・通商を要求する欧米諸国に対して、強硬な攘夷政策をもって臨みました。66年、アメリカ商船シャーマン号が平壌に侵入すると官民らはこれを焼き払いました。同じ年、大院君が天主教(カトリック)に弾圧を加えたことを理由に、フランス艦隊が江華島に侵入すると、大院君はこれも打ち払いました。また、71年には、通商条約を求めて江華島に来航したアメリカ艦隊を撤退させ攘夷を強めました。

また、大院君の攘夷政策を背景に、小中華思想にもとづき、天主教邪学としてしりぞけ、朱子学を正学として守るという衛生斥邪(えいせいせきじゃ)思想が高揚しました。しかし内政については、衛生斥邪派と大院君は対立しました。自らの権力を強化しようとする大院君は、景福宮の再建など大規模な土木工事を行い、さらに両班の勢力に規制を加えるため書院を撤去したり、両班には免除されていた軍布を徴収するようにしたからでした。

※軍布…形骸化した徴兵に代わり、年間綿布を徴収するもの。農民にはかなり重い負担だった。

日朝の対立

そのころ、日本との間にも外向的な問題が発生しました。1869(明治2)年、明治政府は、政権樹立後、対馬藩を通じて朝鮮に王政復古を通知し国交を結ぼうとしました。ところが、朝鮮側は日本の用意した書契(外交文書)に、中国皇帝しか使用できない「皇」という文字が使われているという理由で、受け取りを拒絶しました。

その後、日本政府は対馬から朝鮮に冠する外交権を接収し、朝鮮との条約締結を試みましたが、大院君政権によって拒否されました。

こうした状況下の1873(明治6)年、明治政府は日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして、氏族の間に、武力を背景に朝鮮を開国を迫る「征韓論」がわき起こってきました。明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中に、武力で朝鮮を開国しようとする主張でした。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われています。

衛生斥邪派の崔益玄(金へん)が内政問題について大院君を攻撃すると、大院君と対立する王妃閔氏の一族らは大院君を政権から追放しました。そして、国王高宗の親政がはじまり、閔氏政権が成立しました。翌74年、閔氏政権は、日本の台湾出兵事件と朝鮮出兵の可能性に関する情報を清国から得ました。また、政権内でも、開国派が日本からの書契を受け取るべきだと主張しました。こうして、閔氏政権は日本との交渉を行うことになりましたが、交渉は難航しました。

江華島事件と朝鮮の開国政策

1875年、江華島事件(雲楊号事件)が起きました。日本政府が示威で江華島沖に送った軍艦雲揚から出た小船に江華島の砲台から発砲、雲揚が「応戦」した事件です。雲揚が許可なく朝鮮の領海を侵犯したので、これを排除しようとしたものでした。しかし日本政府はこれを口実として砲艦外交を押し出し、1876(明治9)年、江華島条約(日朝修好条規)が結ばれます。釜山・元山・仁川の3港を開港、ソウルに日本公使館を開設しました。これは中国がイギリスと結んだ南京条約(1842年)、日本がアメリカと結んだ日米修好通商条約(1858年)と同様、治外法権の認定など、結ばされた側にとっての不平等条約でした。

これによって朝鮮は、帝国主義が渦巻く世界へ開国していくことになりました。日朝修好条規はれまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が開国する契機となった条約ですが、その第一条で、「朝鮮国は自主の国」であるとうたいました。これは、朝鮮が清朝の冊封から自立した国家であることを明記しすることで、清朝の影響から朝鮮を切り離すねらいがありました。従来もっていた華夷秩序との葛藤が起こっていきます。

1880年、朝鮮政府は金弘集を修信使として日本に派遣しました。金は日本を視察するとともに、東京の清国公使館に立ち寄り『朝鮮策略』を受け取りました。それには、ロシアの侵略を防ぐために、朝鮮は清国との関係を深め日本と連携するとともに、アメリカと関係を結ぶこと、国内改革を進めるべきことが述べられていました。これを直接の契機として、閔氏(びんし)政権は、対欧米開国や開化政策を進めていきます。閔氏政権は、新たな外交関係に対応する機関として統理機務衙門を設置し、日本から教官を迎えて様式軍隊を編成したり、近代的な政治制度や技術習得のために日本に朝士視察団、清国に領選使を派遣したりしました。朝鮮国内では『朝鮮策略』に対して反対運動が起こりましたが、開国・開化路線を固めた閔氏政権はこれを押さえつけました。

清国の李鴻章は、朝鮮国王から交渉に仲介を依頼されたという形をとって、アメリカ側と条約締結交渉を進め、1882年5月、米朝修好通商条約が調印されました。さらにイギリス・ドイツ・ロシア・フランスとも同様の条約を結びました。

李鴻章は、伝統的な宗属関係を国際的に認めさせるため、朝鮮は清国の属国であり、その内政・外交は自主であるという内容の条文を設けようとしました。しかし、これはアメリカ側の反対にあい、李鴻章は同じ内容の書簡を朝鮮国王からアメリカ大統領に送らせることによってこれに代えました。朝米条約を契機に、これまでの清国との宗属関係と、日本や欧米列強国との条約関係が併存することになりました。

開化派と甲申政変

閔氏政権の開国・開化政策にともない、開化派が形成されました。朝鮮王朝後期の実学や清国からもたらされた書籍によって西洋の事情などを学び、外交使節や留学生として海外に渡航し近代西洋文明を吸収しました。
開化派は、清国の宗主権が強化されると二つの派に分かれました。一つは、閔氏政権の内部で清国との宗属関係を基軸に内政・外交の実務を担う穏健開化派で、もう一つが、清国との宗属関係を破棄し、さらに閔氏政権の打倒をめざす急進開化派で、日本の維新をモデルに朝鮮の富国強兵を試み、日本からの資金導入、日本への留学生派遣などをおこないました。

1884年12月、金玉均らは日本公使館守備隊の兵力を借りてクーデターをおこし、閔氏政権の要人を殺害して新政府を建て、清国との宗属関係を破棄、門閥によらない人材登用、税制・軍制の改革などを内容とする政策方針を作成しました(甲申政変)。ところが、閔氏政権の要請によって清国軍が出動すると、日本公使館守備隊は撤退し、新政府は間もなく倒れました。

清の宗主権強化と朝露密約

甲申政変によって朝鮮をめぐる日清の対立が深まると、日清は一時的妥協をはかって天津条約を結び、両国は朝鮮から軍隊を撤退することにしました。ところが、この条約の締結直前に、イギリスの極東艦隊が、ロシアの大平洋艦隊に対抗するため、巨文島(コムンド)を占領するという事件が起きました(巨文島事件)。朝鮮政府はイギリスに抗議しましたが、イギリスとロシアの調停を行ったのは、清国の李鴻章でした。

一方、朝鮮国王の高宗は、甲申政変の直後から、日本と清国を牽制するためにロシアへの接近を試みていました。高宗はドイツ人顧問のメレンドルフを通じて、ロシアから朝鮮への軍事顧問派遣の約束を取り付けました。しかし、この密約が露呈すると、李鴻章はメレンドルフを解任するとともに、高宗や王妃閔氏の一族を牽制するために大院君を帰国させました。そうして袁世凱を宗主国の代表として漢城に駐在させ、朝鮮国王・政府を指導させることにしました。

ところが、高宗は再びロシアと秘密交渉を進め、ロシアは朝鮮が独立国であることを認め、有事の際に朝鮮に軍隊を派遣することを求めました。ロシアへの接近を阻止された高宗は、さらに他の欧米諸国への接近によって、清国の宗主権強化に対抗しようとし、1887年、駐米全権公使とヨーロッパ五か国兼任の全権公使を任命しました。李鴻章は、はじめは全権公使の派遣に反対しましたが、結局朝鮮側の要請を容れ、清国公使の格下として行動することなどを条件に全権公使派遣を許可しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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