4 加耶諸国

[catlist id=8] 加耶諸国

百済の南には。三韓時代に弁韓とよばれた地域があり、百済や新羅の対等のはざまで、小国が分立するという状況が続いていました。半島東南の洛東江両岸には小国が散在し、この地域は、加耶(伽耶)あるいは加羅とよばれました。早くから鉄の生産や海上交易で栄え、これらのなかから、金官加耶(金海)、安羅(やすら・アンラ=咸安(かんあん[ハマン]))、大加耶(高霊[コリョン])といった国々が頭角を現し、しだいに国家統合の動きもみせはじめました。
加耶諸国には、高霊地方にその典型的な形式をもつ土器が一定の地域圏に分布していることが確認されており、その土器の中には「大王」銘が彫り込まれていたものがあります。小国の王を束ねる大王の実力をもつ者が加耶諸国に実在したことを示すものとして注目されています。479年に大加耶王が南斉に朝貢を果たしたのも加耶諸国における統合化への動きにかかわっていました。
こうした独自の動きがあったものの、百済や新羅の侵攻は激しさを増し、これに対して日本列島の倭国との連携をしのぐという抵抗もありましたが、それも限界にいたり、532年には金官加耶が、やがて安羅も新羅に降伏しました。最後まで抵抗し続けた大加耶も562年に新羅に滅ぼされました。

古墳と出土遺物

加耶諸国の有力国の一つに安羅国があって、高句麗に対抗する勢力の一員として「広開土王碑」にもその名がみえます。その王族たちを葬った末伊山古墳群は、加耶諸国のなかでも最大級の規模をほこり、当時の国力のほどが推察されます。
伽耶諸国の竪穴式石郭や横穴式石室を主流とする古墳からは、洗練された曲線美をもつ土器をはじめ、おびただしい数の副葬品が出土しており、当時の栄華を今日に伝えている。とりわけ注目されるのは、刀剣などの武具や馬具、装身具とともに、多数の鉄製品が副葬されていた。遺体が安置された石室の底部には、大量の鉄延が敷き詰められていることがあるが、伽耶の国々は、この豊富な鉄を近隣の諸国に供給し、独自の勢力基盤を有していたことが伺える。
一方、新羅の古墳は、木郭を組み、棺と副葬品を収めて、その周囲に石を積み上げ、さらに土を盛り上げた構造になっていた。これを積石木郭墳といい、4世紀から6世紀ごろまでさかんに造営された。金冠や華麗な金銀の装飾品、ガラス製品、馬具、土器などが埋葬されていた。高句麗も石をピラミッド状に積み上げた積石塚と、石室を土で覆った石室封土墳がある。新羅から鉄は産出しない。竪穴式石郭や横穴式石室はない。
まったくの『記紀』や風土記は創作かというと、そうは思えないのが出石や丹後に残る地名や遺跡の多さです。
・豊岡市加陽(カヤ)と大師山(だいしやま)古墳群と近くには出石町安良  新羅にはつくられない金官伽耶国に共通する竪穴系横口式石室という特殊な石室。竪穴系のものと横穴系のものとがある。
・丹後加悦町(与謝野町)と古墳群、加悦町明石(アケシ)・出石(イズシ)の韻が共通する?  入江から入った地理が似ている。
・敦賀気比神宮の伽耶王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と天日槍(アメノヒボコ)は同一視されている。 円山川河口にも気比神社がある。祭神は気比神宮と同じで敦賀から遷宮されたと伝わる。 気比神社の付近に畑上や飯谷と書いてハンダニ。畑上は秦(ハタ)?。韓国(からくに)神社など。
・日本海流は、半島南部を出ると自然に若狭湾にたどり着く(現在でも海岸にはハングル文字のゴミが多く漂着する)
・伊福部神社は出石町鍛冶屋(カジヤ)にあり、伊福とはふいごのことで、伊福部とは鍛冶職人に関係する。鍛冶屋は砂鉄がとれたらしい。
・出石入佐山古墳から砂鉄が納めれていた。

今に伝わる加耶文化

加耶のなかで大国であった大加耶では、独特の形態をもつ一二弦の琴がつくられていましたが、于勒は加耶琴の名手として知られ、于勒は新羅に亡命して加耶琴を新羅に伝えました。今日、朝鮮の代表的な楽器の一つに加耶琴がありますが、彼の亡命と新羅における活動に求めることができます。


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