九日晴、卯の刻頃に立ち出ず。
駅を離れて板橋を渡れば、上粟賀村。人家二百軒ばかり茶屋あり。出口に戸田川渡りて四十間余りの川あるを土橋より渡る。これより山道に入る。
入口はよし殿村。二十丁ばかりの間に一つの小農家まぶたにあり。その先は八百軒余りあるべし。中程に春日大明神の宮を参で、殿川という谷川あり。歩いて渡る。かくてまま十丁行けば一本杉。木の□という茶屋あり。これよりは大山村の内なり。二十余り丁の間に人家七、八十軒あまりにて折には茶屋もあり。出口に小川二つとも土橋より渡る。五、六丁行けば一枚の板を橋にした小川あり。川を渡るにてゆり坂という小坂を登ると猪笹村に至る。(粟賀駅よりこれまで二里)一名、追上という端宿なり。郷町にて人家三、四十軒あり。
ここより山の谷あいに田畑なく田地の跡あり。谷間ゆえに暑気なく冷ややかなり。かくて小坂を十丁ばかり登りて十四、五丁下れば真弓村なり。この間に谷川を渡れどもに歩いて渡る。真弓で宿。追上よりここまで一里)人家四十軒ばかり茶屋、宿屋なし。
一丁ばかり行けば川あり。土橋の長さ十間ばかり川を下れば森のひ町。町家三、四丁にたちつづいて里。ここは
(歌を詠んでいる。中略)
三、四丁登ると峠に至る。ここは播磨と但馬との国境なり。
また一丁ばかり下ればこたた村。人家十軒ばかり茶店多くして茶屋ごとに土用餅という砂糖餅を売る。人々と共に立ち入りて思いもよし土用の節物餅を食うを心得て旅中ながら祝儀を欠かさざるなり。これは今扇を拾いけるにやなどいいたく休むほどに。荷物を持たせる人足いと暑しやとて汗おおしごびつく。(中略)
ここを出て十四、五丁下れば圓山(円山)村。人家二十軒ばかり茶屋なし。十二、三丁行けば岩屋谷村。人家五、六十軒。村中小川あり。土橋より渡る。ここより岩屋の観音へ参る道あり。四、五丁行けば茶屋あり。岩屋谷村の内なり。家続くに上津村、子村。二村すべて人家ニ、三十軒。商家あり、茶屋なし。
二十丁行けば、但馬山口駅。(猪笹村よりここまで二里)御公領(天領)なり。人家四、五十軒、宿屋あり茶屋多し。ここらあたり鮎魚多きにや。この駅にはこの魚を売る家おおしゆ。十丁ばかり行けば濶。三十軒ばかりの川あり。
土橋より渡ってニ、三丁ゆけば荒井村(今の新井)。人家四、五十軒。皆農家なり。二十丁あまりゆけば帯刀村(今の立脇)。人家六、七十軒。茶屋宿屋あり。間の宿なし。ここらあたりは麻を多く種作(つく)るもまた蚕飼を家々に営むなり。五、六丁行けば桑市村。農家三十軒ばかりあり。十丁ばかり行けば物部村。間の宿なし。茶屋宿屋農家をへて五、六十軒。十丁ばかりこの間にあり。
かくてまた十丁余り行けば竹田宿。(山口駅よりここまで二里)御公領なり。瓦葺き板葺き、打雑つまびく町屋十丁あまりに立ち続けるけり。白糸を多く出し、また白絹をおおく織り出す。また竹田椀といって下品の椀を造るも出せリ。宿屋茶屋あり。宿屋は甚だ古くよりあり。西の方の山の上に赤松左兵衛広秀の城跡あり(竹田城)。櫓天守の
その川岸を行くなり。この川に鮎多しといえども、十五、六丁行けば、和田山の駅。(竹田よりここまで一里)
上組下組と分けるを合わせて五丁ばかりの町続きなり。茶屋宿屋あり。宿屋はいと良きあり。十丁ばかり行けば東谷村。農家ニ、三十軒あり。五、六丁ばかり行けば
*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
*変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
『筑紫紀行』巻1-10 巻9
吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより