生野本陣破陣
10月12日午後10時、
●多田弥太郎
南らを説得できず、諦めた多田弥太郎は黒田興一郎と共に沢卿のいる生野の陣営に戻り、沢卿に但馬脱出を勧めた。各部署巡視の名目で逃走した沢卿のために、「軍備を整え再挙を謀らねば大和と同じ運命を見る」との意見に一致し、断腸の思いで解散した。
逃走した沢卿が生野本陣の机上に残したのは、「頼みもし恨みもしつる宵の間のうつつは今朝の夢にてありぬる」との一首だけであった。
午後10時に沢卿以下4名の同志と本陣を後にしたが、山中で沢卿一行から遅れてしまい、途中で三田尻に向かうのを諦めて、大坂に逃れて行った。しばらくは京、大坂に潜んでいたが、文久4年(1864年)2月に因州(鳥取)に赴くことになった。
途中、城崎に立寄り旅籠三木屋に立寄って、出石に居る妻子を呼び出した。
夜に多田の妻子が城崎に向かうことを知った出石藩士は、妻子の後をつけて城崎に潜入する。
やがて、多田の潜伏先を嗅ぎつけた出石藩の捕り方は三木屋を包囲して、多田は捕らえられ出石に送られることになった。多田を護送したのは出石藩士の増田慎三、西川八十之進、西川富太郎の3人であったが、城崎から豊岡を越えて出石に向かわず迂回して養父町寄宮を通り、浅間峠に向かった。
浅間峠を越えると、出石の藩領である。駕篭を用いて多田を護送する3人の出石藩士は浅間峠にさしかかったところで、いきなり抜刀し、駕篭の中の多田を刺殺した。文久4年2月18日のことだった。多田暗殺の密命を果たした3人はその場で牢役人に多田の遺体を引き渡し、藩は公儀(幕府方)に対し、かねてから探索していた家来を召し捕り護送していたところを、途中に乱防に及び手に余ったので討ち果たしたと、藩の江戸留守居役は虚偽の報告をした。
後にこれを知った出石藩主、仙石久利は怒り事件に関与した者らを蟄居、役儀御免、減知などの処分を命じている。
●多田弥太郎顕彰碑(養父市八鹿町浅間峠)
翌十四日朝になって、生野本陣解散に驚いた農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。農兵達は掌を返すように志士達に鉄砲や竹槍を向け始め、そこへ出石藩の巧妙な宣伝と恫喝が加わったため、志士達は農兵と戦わねばならなくなってしまった。
午前2時、沢卿他6名が生野を後にし、解散状態となった本陣は、山口村妙見山にいる南八郎らを残して、他の志士たちの逃走が盛んになった。平野國臣、横田友次郎は八代(朝来市八代)から建屋(養父市建屋)の北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)宅へ向かい、美玉三平、中島太郎兵衛と弟の黒田興一郎、堀六郎は山口村から神子畑(朝来市佐嚢)へ抜けた。
●北垣国道
北垣晋太郎は、長州に逃走,同地で沢を迎えた。その後,鳥取に帰り切腹を図ったが,母に戒められ思いとどまった。戊辰戦争(1868~69)には鳥取藩士に列せられ参軍。維新後明治2(1869)年弾正少巡察に,さらに廃藩置県(1871)の際に郷里鳥取県の少参事に任じられた。
その後,高知・徳島両県令を経て,14年1月から25年7月まで11年余にわたって京都府知事を務めた。在任中,京都商工会議所設立を認可し,琵琶湖疏水事業を計画,着手するなど同地の殖産興業政策を進めた。選挙干渉で有名な第2回総選挙ののち白根専一の後任として内務次官になったが,3日後に北海道庁長官に転じる。品川弥二郎とは親しい関係にあった。29年男爵に叙せられた。晩年は拓殖務次官、貴族院議員,枢密顧問官と明治の官界で活躍した。<参考文献>井輪屋良二郎編『京都府知事北垣国道略伝』
●原六郎(進藤俊三郎)
進藤俊三郎。但馬国佐曩村(現・兵庫県朝来市)出身。
大地主の子として生まれる。幕末期は尊皇攘夷派に属す。生野の変に参戦するが敗れて鳥取に逃れ、名を原六郎と改める。その後は長州藩の軍に属し、討幕運動に関わる。明治維新後、アメリカ・イギリスに留学し、経済学や銀行論を学ぶ。1877年(明治10年)帰国後、第百国立銀行・東京貯蓄銀行を設立、頭取となる。1883年(明治16年)には第3代横浜正金銀行各頭取に就任する。この他日本、台湾勧業興業各銀行の創立委員を務め、富士製紙・横浜船渠各会社長、山陽・北越両鉄道、東洋汽船、帝国ホテル、汽車製造、猪苗代水田などの各重役を歴任する。
1896年(明治29年)4月、東武鉄道創立発起人に就任し、同年10月に東武鉄道取締役就任。1920年(大正9年)4月、東武鉄道取締役退任。
往時は渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古河市兵衛とともに五人男と並び称されるほどの経済界の大物であった。 旧邸跡は現在御殿山ガーデンとなっている。
午前6時、豊岡藩の一番手は高田村の蓮正寺に着陣、午前8時には姫路藩も出陣している。
午前10時、妙見山に籠城している南らのもとに伊藤龍太郎が訪れた。伊藤は生野本陣における沢卿以下、その他の同志たちの本陣脱出を伝え、ここで討死するのは犬死だと南らに再挙を促したが、南らはこのまま長州に帰る気は無く、一戦交える覚悟と言ってこれに応じなかった。しかし、中條右京と長曽我部太七郎は伊藤の説得に応じ、共に下山することになった。
生野義挙殉死者の碑 生野代官所跡(朝来市生野町口銀谷)
いっぽう、美玉、中島兄弟は三方(宍粟市三方町)あたりで堀六郎に軍用金を渡して先行させ、木の谷に来ていた。後ろからは百姓が500人近く押寄せて発砲してきた。怒った美玉は刀を振り回して百姓を追い払ったが、猟師の銃弾に胸板を射抜かれた。中島兄弟は側の民家に逃げ込み、中島太郎兵衛は自刃。兄の介錯をした黒田興一郎は自ら縛に就き、京都六角獄に送られた。平野國臣以下の生野義挙の同志、天誅組、池田屋事件に関与した者らは斬殺されたが、黒田は槍術家として奥州巡遊中に門人となった会津藩士二人が黒田の庇護をしたので、このときは一命を取りとめたが慶応2年(1866年)12月9日に牢内で病死した。
●黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑 (朝来市和田山町高田)昭和15年11月10日建立
先行していた堀は美玉らが木の谷に着く1時間前に通過し五十波(宍粟市山崎町)で関口らと合流し三田尻に逃れている。
現在、山伏岩の裏には土が盛られています。捨ててあった浪士たちの亡骸を土地の者が埋めたからである。また、猪篠村で死んだ中條右京、長曽我部太七郎、木の谷で死んだ美玉三平、中島太郎兵衛、山内村で自刃した小河吉三郎らの首級も代官所に届けられた。やがて、中島の首級は高田村の家族が引き取ることになり、17名の首級は山伏岩の後ろに埋めることになった。正義十七士の神霊と書かれた碑が岩より高くなっているのはそのためだそうである。
こうしてこの挙兵はわずか3日で破陣する。
●山口護国神社(殉節忠士の墓、山伏岩)
山口護国神社(朝来市山口)
この地で自決した生野義挙の志士たちの招魂碑を大正4年に建立し、祀られた。
明治元年(1868年)2月、戊辰戦争で山陰道鎮撫総督としてこの地に訪れた西園寺公望は殉節忠士之墓と題した碑を建立しています。
[catlist ID = 35]参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
幕末史蹟研究会
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