11 国臣の最後

平野次郎国臣の最後

沢卿一行は13日の夜から山中をさまよい続け、午前6時に白口(宍粟市一宮町)に辿り着き、地元民に銭を与えて間道を案内してもらい、峠を越えて美作路を使い三田尻に落ちた。

国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図る。

十月十四日午前二時、平野国臣は横田友次郎(鳥取藩士)と共に生野を脱出し、八代(朝来市)から長野村を越えて建屋(養父市)の北垣晋太郎を訪れ、広谷(養父市)の旅籠材木屋にて一泊。翌朝、10月15日午前10時ごろ、駕篭を使って湯島(城崎)へ行くために八鹿・上網場村にさしかかったところで豊岡藩勢と出くわしたため、円山川沿いの京屋という旅籠に着けさせて中に客を装って入っていった。しかし、奥の離れに案内されたときには豊岡藩兵に包囲されていた。豊岡藩兵に詰問された平野は、自分は因州の者と名乗り、これから湯島(城崎)に向かうもので怪しいものではないと言った。

しかし、因州から湯島に向かうのに上網場を通る筈はない。怪しいと思った豊岡藩兵は、ならば湯島に行かれるなら案内いたそうといい、京屋の裏手から舟に二人を別々に乗せて、円山川を下って豊岡へ向かった。

豊岡藩の獄に入れられた平野國臣はどれほどの人物か豊岡藩は知らなかったが、折りしも文久3年2月に京で起こった、足利三代木像晒首事件で捕縛され、豊岡で幽閉されていた三輪田綱一郎から平野の素性を知り、以降、彼に対する待遇が変わった。藩士の中には袴の中に徳利を忍ばせて、牢内に差し入れしたりするものもいたという。

しかし、翌年の1月5日には平野、横田は姫路に護送され、11日には京の六角獄へ移された。元治元年(1864年)7月20日、禁門の変がおこり、その騒動のなかで平野、横田は斬首された。平野國臣37歳、横田友次郎31歳であった。

●平野国臣捕縛地(養父市上網場)

また、その頃姫路街道を南下していた本多素行も新町(神崎郡福崎町)の樽屋という旅籠で姫路藩兵に捕縛されている。

午後3時に姫路藩は生野の入り口にあたる森垣村に布陣し、午後4時に森垣村延応寺に潜伏中の江上庄蔵を捕らえた。

午後4時、出石藩勢は生野町の6箇所の各寺に陣を張り、生野の警護を固めた。

生野の騒動はその後、百姓たちの矛先が庄屋の方に移り、暴動化し、山東町のあたりでは打ちこわしなどが多発したが、生野の市中も日増しに落ち着きを取り戻していった。

19日には避難していた代官婦人が生野代官所に戻り、倉敷に出張中であった川上代官も23日に帰町した。

11月16日に代官所の剣術指南であった伊藤龍太郎は、その後も生野に潜伏していたが出石勢に捕らえられ、出石藩の獄舎から京の六角獄へ搬送されている。

文久四(1864)年1月5日、出石藩・豊岡藩により但馬を逃れ、長州や因州に落ち延びたものは数名いたが、ほとんどの志士たちは討死、または自刃し、捕縛された義徒八名は姫路に護送され、十七日、京へ護送され六角獄舎につながれた。

元治元年(1864年)七月十九日、禁門の変(蛤御門の変)を端にして発生した火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。洛中の焼失家屋は二万八千個を越えた。

火事は翌日に及び六角の獄舎に火が及んだため、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。処分は未決状態ではあったが、獄中の30名以上の囚人は、平野国臣等、生野事変、池田屋事件の犯人は密かにとともに斬首されたとの説がある。享年37歳。 この処刑にたずさわったのは、近藤勇の率いる新選組の一隊であった。慶応3年11月15日(1867年12月10日)、満31歳の坂本龍馬が近江屋で暗殺される三年前のことであった。

禁門の変では、久坂玄瑞をはじめとする有力な長州武士が戦死し、真木和泉は負傷して自刃した。このとき、桂小五郎は長州藩の暴挙に反対し、直接関与していなかったが、長州を朝敵と見なした新選組など幕府方の追っ手の捜索はやまなかった。そして桂小五郎は京都からひとまず脱出し、但馬に潜伏するに至ったのだった。

平野国臣は、早くから独自の倒幕論を唱え、何ら後ろ盾を持たず、独力で駆けめぐった活動はわずか7年で幕を閉じるのだ。享年37歳。私は、平野次郎から「国臣」と大それた名に改名した思いは、平野の国を思う純粋な決意が今さら伺えるような気概に付いたように勝手ながらそう思うのだ。

●本多小太郎

逃亡中,姫路藩兵に捕らえられ京都六角の獄に送られた。翌年7月,長州藩尊攘派による禁門の変に際し,獄中に斬られる。

●北垣国道

因幡(鳥取)に逃れた北垣国道は、名前を変えて鳥取藩に仕官しました。戊辰(ぼしん)戦争の北越征討軍に参加し、新政府から認められたのが、官界に入る第一歩となりました。

その後、元老院少書記官、熊本県知事、内務少書記官、高知県知事を経て、明治14年(1881)京都府知事になりました。在任中、琵琶湖の水を京都市に引く疎水工事を完成させたことは有名で、その後の京都の開発に大きく貢献しました。

のち北海道庁長官、拓殖務次官、貴族員議員、枢密院顧問官を歴任し、明治の官界で活躍しました。

●原 六郎

文久3年(1863)生野義挙で因幡(鳥取)に逃げました。生野義挙に関係した者に対する捜索はきびしく、名前を原六郎と改め、以後本名を生涯使うことはありませんでした。
慶応元年(1865)、高杉晋作に会い、長州藩の守備隊に入り、翌2年には長州征伐の幕府軍と戦い、のち山口の陸軍兵学校明倫館で大村益次郎について、フランス式の練兵を学びました。王政復古ののち、長州を去り、以後、官軍にあってはなやかな軍人としての道を選びました。

金融・産業界の中枢的存在

明治4年(1871)、政府の推薦でアメリカに留学。6年(1873)春エール大学で経済学を学び、7年(1874)イギリスに渡りレオン・レヴィについて経済学・社会学を修め、10年(1877)5月に帰国しました。帰国した彼は金融業界へ入り、第百国立銀行の頭取として活躍し、その手腕は世間に高く評価されました。
当時、わが国の貿易関連の横浜正金銀行は、経済不況の影響を受けて倒産寸前に追い込まれていました。明治16年(1883)原六郎に、この大事を託すべく頭取となり、銀行改革の大事業を成功させました。その他の金融業にあっては帝国商業銀行、台湾銀行、日本興業銀行の創設にも関与しています。
原六郎の経済人としての仕事は金融業だけにとどまらず、山陽鉄道、播但鉄道、阪鶴鉄道、総武鉄道、東部鉄道、南和鉄道、九州鉄道、北陸鉄道など、関係した鉄道は多く、東京電燈、横浜ドック、富士製紙、富士紡績、横浜水道の設備などにも多くの貢献をしました。わが国の金融・産業界の中枢的存在として活躍しました。
朝来市の山口小学校には講堂兼体育館を兄丈右衛と二人で寄贈。青谿書院に対しては財団法人とするための基金や祠堂を、また生野義挙で13名が自刀した山口に、招魂社(護国神社)を建立するに際して基金を寄せると共に、祭典に列席するなど故郷への心配りを忘れませんでした。
昭和8年(1933)11月14日、92歳の天寿をまっとうしました。

進藤家(千年家)
住所:兵庫県朝来市佐中
明治・大正時代に日本財界で活躍した「原六郎(進藤俊三郎)」の生まれ育った住宅で、通称「千年家」と呼ばれています。足利時代の1460~1480年頃建てられたのではないかといわれ、柱や梁が太く、天井の低い造りとなっています。使い込まれた囲炉裏、すすで深みのある色合いに染まった天井や建具、家財道具などが、この家の歴史を物語っています。

さて、幕末の動乱の時代における凝縮された諸事件を通してみると、この動乱の時代における殉難・犠牲者たちの「義」の結末について、流動的な微妙な情勢の変化が付きまとっていることに誰しもが気づくだろう。即ち戦死、自刃、刑死、暗殺、と死に方はどんな形にせよ、志士たちに死をもたらした何か強大な上からの力が、「正義」の権力だったというのならば、その死は反逆者として成敗を受けたという性質のものとなる。他方、その上からの力自体が、「非正統」の権力だったというのならば、その志士たちの死は正統王権に忠誠を捧げた「義」を守り抜くための犠牲の死であったということになる。

黒船来航から戊辰戦争までの十五年間、徳川幕府は日本国の正統の政権と見なされる。少なくとも幕府を安んじてその見方に立っていた。だからこそ、和親条約の要求は幕府に対してつきつけたのだし、実際に交渉の相手として現れたのも幕府老中である。アメリカ合衆国政府の使節から見れば、老中・大老は国務長官に相当すると見えたことだろう。

徳川将軍に政党なる統治権が掌握され、かつそのことが一般に認知されている限り、幕府に成敗されたり、処刑されたりした者は、反逆者として成敗されたのである。その死が最も痛切に惜しまれる吉田松陰にせよ、彼らは罪人として死んだのであり、その死は不名誉なる死であることを免れない。

それが明治十二年以降、つまり別格官弊社靖国神社としての社格と社号が定着してから以降というもの、明治政府にとっては、かつて徳川幕府にとっての反逆者といえる人びとであっても、最初の着想通り、黒船以降の国事殉難者の調査・登録が徐々に進んでいった。時代の背景が明白歴然たる国事殉難者の合祀が続いていくのはよくわかる話である。

例えば、明治21年第十六回合祀の時の、明治維新における長州藩殉難者601名、明治22年第十八回合祀での筑波山挙兵事件に係わる水戸藩殉難者1390名という断然他藩を圧して大きい数字を見れば、維新の動乱期にこの両藩の藩士たちの果たした役割、払った犠牲がどれほど大きいものであったか、多分に想像がつくというものである。

さて、安政の大獄やさまざまな事変(事件)で刑死した志士たちを、反逆の罪を被せられて非命の最期を遂げた者、としたのは一種の巧妙な言いつくろいであり、政治的な妥協策だったと言えよう。

だがそこには見間違う事なき、伝統的な温情と和解の心が働いている。厳密な意味で合祀された中には、罪状がはっきりしない方も含まれるが、すべては「終われば水に流す」、という価値観は日本人として寛大なる精神として世界に誇れる英知であると思うのである。

辞世の句として残した歌は

「みよや人 嵐の庭のもみぢ葉は いずれ一葉も散らずやはある」

福岡市中央区の西公園に銅像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。同じく、京都霊山護国神社にも墓碑および石碑が建立されている。明治24年(1891年)、正四位を贈られた。


霊山 京都護国神社 霊山墓地(京都市東山区)

祭神の中には京都で暗殺された坂本龍馬をはじめとし、中岡慎太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣、久坂玄瑞ら幕末勤王の志士1,356柱、明治以降の日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などの戦死者を合わせ約73、000柱が祭神として祀られています。

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参考資料

【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
幕末史蹟研究会
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