国臣投獄される
平野は『尊攘英断録』をもとに『回天管見策(回天三策)』を著し朝廷に献上したところ、孝明天皇のお目にとまり、平野に対して、おぼえめでたくなった。
文久二(1862)年春、福岡藩主黒田公が明石に到着、本陣に宿泊されることがわかった。平野は久光公使者といつわり、黒田公に書状を提出する。それには、黒田公に勤王派へのご協力をお願いし、もしかなわぬ時は、道中に危険が生じた場合、お守りできぬやも知れず、とあった。黒田公はこの要求を断わり、急病ということにして福岡へ引き返すことになる。この時、意外にも平野は黒田公帰藩のお供を命ぜられる。
行列が下関に着くと、筑前の最新鋭「日華丸」が待っていた。平野は家老から黒田公乗船ゆえと下検分を依頼される。そして日華丸に移ったところで、まんまと盗賊改め方に逮捕されたのだった。そして福岡の獄につながれた。四月二十九日の事であった。
十月も末のころ、朝廷から直接黒田藩に対し、速やかに平野を釈放せよと、勅書が下ることとなった。朝廷が直接藩主に対し、刑事被告人を名指しで釈放を求めたのである。
しかし平野は釈放されず、この間にまとめたのが『神武必勝論』であった。上中下の三巻からなる尊王攘夷論である。
神武必勝論
十月も末のころ、朝廷から直接黒田藩に対し、速やかに平野を釈放せよと、勅書が下ることとなった。朝廷が直接藩主に対し、刑事被告人を名指しで釈放を求めたのである。
しかし平野は釈放されず、この間にまとめたのが『神武必勝論』であった。上中下の三巻からなる尊王攘夷論である。もとより筆墨はなく、獄中で使用される粗悪な紙によって文字の形を作り、飯つぶの糊でいちいち別の紙に貼り付けたもので、国臣の国を思う執念が伝わる労作だ。
「神武必勝論」抜粋
上巻
(前略)方今海外の諸蛮連合して、神州をうかがうは、之を囲み攻めんとする敵にして、蒼海は池の如く、海内は本城にして、清国は支城の如し。既に清国の仇をなすこと数十年、しばしば敗をとり、国境を蚕食せられ、或いは夷を雇いて夷を防がしむに至って、英仏の為に天津をとられ、北京に迫られ、終わりに王城を捨て満州に避くるに至りしは、英断のなき故なり。
今それ支城に等しき清国、この如く危急成るのみにならず、本城たる所の海内にも、敵兵すでにかん伏せるもの十年に及べり。(中略)海内よく一和し、器機全備し、兵練航熟し親兵をもって神国を守り、将軍精兵を統率して勝を期するものは、これ英断なり。(以下略)
中巻
(前略)皇国は元来義を貴び利を賤しむ。故に海外に出て商事を務めず、かつ異域を奪うことなし。故に巨艦への蓄えなし。今より必戦を予想し、紀州、日州(日向)あるいは北辺の如き、巨木多材の地を選び、天下の精工、良匠を召し集め、財貨だに費やしたらば、必ず整うべし。すでに水戸、薩摩、長州等にて、自製の巨艦は洋製に劣らずといへり。
西洋諸国は火器をもって勢利を助く。彼、長兵を用いなば、我また長兵をもって之を挫折せしむべし。これまた炭水銅鉄便せんの地に、水軍・大火床・たたら等を据え、鋳工・鍛工を招き砲銃を製せば、数年を経ずして備はらん。(以下略)
下巻
(前略)凡俗どもはとかく、人心の動かん事を恐れ、上部ばかりを押しつくろい巧言にこびいり、無事平穏をはかる。一時の間に合わせをしたり、安易な事のみを行う等、心身を労せずに必勝を求めんとする。
たとえ天地神に祈るとも、未だ人事を尽さざるに、天神いずくんぞ眞祐を下さんや。天朝を尊奉し、幕府を初め国主領主は王事を初め、幕臣はその主命に従いて、武を講じ兵を練り、庶民もまた家業を励みて、軍事を助け兵糧を償いなば、必勝の策は聖明の神武より輝き出でんことを疑うべからず。
文久三年上巳 平野次郎国臣
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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