第一次世界大戦のはじまり
日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策をあきらめ、再びヨーロッパへの進出を図りました。そのため、ヨーロッパの情勢は緊迫しました。
ドイツはすでに、オーストリア、イタリアと三国同盟を結んでいましたが、急速に海軍力を拡大して、海外進出に努めました。これを恐れたイギリスは、フランス、ロシアに接近し、1907年、三国協商が成立してドイツを包囲しました。ヨーロッパの各国は両陣営のどちらかと同盟関係を結び、緊張が高まっていきました。
このころ、バルカン半島では、民族の独立をめざす運動が高まりました。この地域に利害関係をもつ列強は、独立運動を利用して勢力を伸ばそうとしました。そのためバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれ、一触即発の緊張状態が続いていました。
1914年、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアのサラエボを訪問中に、ロシアに心を寄せるセルビアの一青年に暗殺された事件(サラエボ事件)をきっかけに、三国協商と三国同盟があいついで参戦し、第一次世界大戦が始まりました。
日本の参戦
日英同盟を結んでいた日本は、三国協商の側について参戦し、ドイツに宣戦布告しました。ドイツの租借地であった山東半島の青島や太平洋上の赤道以北の島々を占領しました。また、ドイツの潜水艦が敵国の協商側の商船を警告せず無制限に攻撃する作戦を開始すると、日本は駆逐艦の艦隊を地中海に派遣して、護衛に当たりました。
中国は、青島を占領した日本軍の撤退を求めました。日本は逆に中国に対して、1915(大正4)年、ドイツが山東省に持っていた権益を日本に譲ることなどを要求しました。中国側は、日本人顧問の受け入れなどの希望条項の内容を、列強の介入を期待して公表しました(二十一か条要求)。英米両国は日本に抗議しましたが、日本は希望条項を除く要求を強硬な姿勢で中国に受け入れさせたので、中国国内では反日世論が高まりました。
ロシア革命と大戦の終結
長引く戦争のさなか、1917年、ロシア革命が起きました。食糧難にあえぐ都市の市民の暴動に兵士が合流し、ロマノフ王朝が倒れました。マルクス主義の理論に基づき、国外に亡命して革命の機会を待っていたレーニンは、こうした情勢を直ちに利用しました。武装蜂起したレーニン一派は、労働者と兵士を中心に組織された代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府をつくりました。その後他の党派を武力で排除し、みずから率いる共産党の一党独裁体制を築きました。
ソビエト政府はドイツとの戦争をやめ、革命に反対する国内勢力との内戦に没頭しました。皇帝一族をはじめ、共産党が的とみなす貴族、地主、資本家、聖職者、知識人ら、数知れないほど処刑されました。
シベリア出兵
長年、南下するロシアの脅威にさらされていた日本は、共産主義の革命勢力に対しても、アメリカ以上に強い警戒心を抱きました。同様にヨーロッパ諸国も、軍を送って革命阻止の干渉戦争を行いました。
1918(大正7)年、日本はロシア領内で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と、シベリアへの影響力拡大を目的に、アメリカなどと共にシベリアへ共同出兵しました。やがてアメリカは撤兵しましたが、日本は1922年まで共産軍と戦い、兵を引きませんでした。
総力戦
第一次世界大戦は当初、人々は短期間で簡単に終わるものと思っていました。しかしロシア革命をはさんで戦争は4年ものあいだ続きました。そしてこの戦争は、過去の戦争と全く違った性格を持つようになりました。
第一次世界大戦では各国は持てる力のすべてを出し尽くし、国民生活はすべて戦争にまきこまれました。このような戦争を総力戦といいます。科学兵器の発達にともない、飛行機、飛行船、戦車、潜水艦、さらには毒ガスなどの新兵器が用いられ、参戦国の国民は空襲にさらされました。国民は軍需工場に動員され、生活必需品にも不足する状況があらわれました。
大戦の終結
第一次世界大戦は1918年、ドイツなど三国同盟の敗北に終わりました。最大の戦場となったヨーロッパは、人類史上初めて総力戦の悲惨な現実を経験しました。多数の国民が戦争に巻き込まれ、たがいに民間人まで殺し合ったことは、のちにさまざまな影響を及ぼしました。
その一方で、参戦した日本は、結果として少ない犠牲で戦勝国となることに成功しました。アメリカにとっても、この戦争は国力すべてを傾けた戦争ではありませんでした。第一次世界大戦を境に、太平洋をはさむ日本とアメリカの二つの国が、国際社会で発言力を高めるようになりました。
ベルサイユ条約と大戦後の世界
1919年、パリで講和会議が開かれ、日本は五大国(米・英・仏・日・伊)の一つとして出席しました。講和会議の結果、ベルサイユ条約が結ばれました。これによって、ドイツは戦争の責任を問われ、すべての植民地と領土の一部を失い、苛酷な賠償金の返済にあえぐようになりました。これはのちに、第二次世界大戦の原因の一つとなりました。
アメリカのウィルソン大統領は、講和のための14か条の原則を提唱し、パリ講和会議で、国家の利害を超えた世界平和と国際協調のための機関として、国際連盟の設立を提案しました。フランスなど他の戦勝国の中には政治の現実からかけ離れた空論であるとして反対する国がありましたが、戦勝国はアメリカの参戦で勝つことができたので、最後にはアメリカの提案を受け入れ、1920年、国際連盟が発足しました。ところが、提案国であるアメリカが議会の反対にあって参加できず、国際連盟は限られた力しか発揮できませんでした。
アジアの独立運動
大戦後、民族自決の気運の高まりの中で、アジアでも民族独立運動が起こりました。インドでは、非暴力主義の指導者ガンジーやネルーが、約束されていたインドの自治をイギリスに要求しました。イギリスはこれを弾圧しましたが、民族独立への動きはかえって大規模になりました。
日本の支配下の朝鮮では、1919年3月1日、旧国王の葬儀に集まった人々がソウルで独立を宣言し、「独立万歳」を叫んでデモ行進を行いました。この動きはたちまち朝鮮全土に広まりました(三・一運動)。朝鮮総督府は武力でこれを鎮圧しましたが、以後は統治の方針を文化統治政策に変更し、のちに日本との一体化を進めていくこととなりました。
中国では、パリ講和会議で日本が中国の旧ドイツ権益を引き継ぐことになると、1919年5月4日、北京の学生デモをきっかけに抗議運動が起こりました(五・四運動)。この運動はその後、中国の各地に広がっていきました。
日本の大戦景気
第一次世界大戦中、日本では軍需品の輸出が急増しました。アジア地域への輸出も大きな伸びをみせ、重工業も急速に発展して、日本は大戦景気とよばれる空前の好景気をむかえました。三井・三菱・住友などの財閥は、金融や貿易、造船といった多角経営で急速に力をのばしました。
このようにして日本は、第一次世界大戦によって日清・日露に続く第三の成功を収めました。その一方で大きな犠牲を払わずに成果を得たので、これからの戦争が総力戦になると言う世界の動向に充分な注意を向けることができませんでした。
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