歴史の両側(2) 『占領政策と戦後処理問題』 学校で教えてくれなかった近現代史(56)

占領政策と戦後処理問題

1952年(昭和27年)に締結されたサンフランシスコ講和条約により、GHQは廃止され、戦後処理は終了しました。ただし、この戦後処理はあくまで連合国側の戦後処理であって、日本国・日本人としての戦後処理は未だに決着していないとする見解があります。

これが、国家の基幹となる歴史認識問題や日の丸問題、自衛隊と自衛権の行使問題、日本国憲法改正論議など様々な歪みを生み出しているとされています。また、この情況は必然的に靖国問題や日本の歴史教科書問題などの国内問題に、諸外国が干渉しやすい情勢をつくりだしているだけでなく、東アジア各国に対する外交への弱腰批判を生み出す要因の一つにもなっているのです。

■邦人の引揚げと復員

連合国に降伏後の1945年(昭和20年)8月当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などの旧日本領「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていました。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、戦勝民の報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ソ連領地では、捕虜がシベリアに抑留されて、過酷な労働に従事させられる問題も発生しました(シベリア抑留)。

軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省、第二復員省が設置されました。民間人の引揚げ業務については、厚生省が所管しました。

政府は1945年9月28日にまず、舞鶴、横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保、鹿児島を引揚げ港として指定しました。10月7日に朝鮮半島釜山からの引揚げ第1船「雲仙丸(陸軍の復員軍人)」が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館、名古屋、唐津、大竹、田辺などでも、引揚げ者の受け入れが行われました。

■戦災国に対する賠償と戦後関係

日本は1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約により、日本は太平洋戦争に与えた被害について、日本経済が存立可能な範囲で国ごとに賠償をする責任を負いました。この賠償(無償援助)は、各国の協力に基づく日本の復興なくしては実現しませんでした。またこのことは同時に東南アジアへの経済進出への糸口となり、日本の成長を助長する転機となると共に殖民地支配をした国の中で唯一、植民地化された国に対し謝罪の意を示すこととなり、結果的にアジア諸国とのその後の外交関係に寄与することになりました。

サンフランシスコ平和条約14条に基づき、賠償を求める国が日本へ賠償希望の意思を示し、交渉後に長期分割で賠償金を支給したり、無償(日本製品の提供や、技術、・労働力などの経済協力)支援を行いました。他にも貸付方式による有償援助もありました。

戦争の評価

太平洋戦争の評価については、戦後以来、歴史家だけでなく知識人、作家、一般市民などを巻き込んだ議論の的となっています。

■加害者としての見方

加害者としての見方は、日本がアジアの近隣諸外国に対して行った軍事力を背景にした進出や併合などの行為を、誤った政策とし、太平洋戦争を否定的にとらえるものです。

この見地に立つ人々の一部には、日本が太平洋戦争の被害者の立場(長崎市・広島市の被った原子爆弾投下など)を強調し過ぎるとし、侵略者=加害者としての立場からの反省が足りないと、主張するものもあります。
これに関連して、戦争当時は国家として存在すらしていなかった中華人民共和国や韓国の日本に対する戦争責任の追及については、単なる反日教育によるアジテーションという見方は皮相的で、実際はアジア諸国に見られた閉鎖的で抑圧的な独裁体制の下にあって、権利を主張することができなかった当事国の民衆が、権利意識の高まりによって戦争の当事国である日本に国家、権力者の過ちによる戦争での被害の権利回復を求める運動の一環と主張する人もいました。

■解放者・自衛戦としての見方

解放者としての見方は、アジア諸国が第二次世界大戦後に独立を果たせたのは、アメリカやイギリスなどの植民地化政策を行った国々との間での戦争であることが要因の一つであるとし、太平洋戦争そのものを肯定的に評価する立場です。この見地にたてば、日本は加害者であるという戦争理解や、近隣アジア諸国に対する謝罪への要求といった事態は、自虐的過ぎるということになるのです。

また、自衛戦としての見方は、ABCD包囲網(日本が付けた名称で、アメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べた)によって日本が圧迫され、これを打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとするものである。また、アメリカが日本の大陸利権を否定することで圧力を加え、併せて人種的偏見による移民規制や、日系アメリカ人に対して人種差別的な政策を行ったことが、当時の新聞メディアに先導された日本人の反米感情を刺激し、対米戦へと踏み切らせたとの考えもあります。

■両方の面があるとする見方

この戦争には「2つの側面」があるという研究者がいました。きっかけは中華民国をはじめとする中国大陸への進出や勢力拡張を目的とした仏印への進出ですが、結果としてそれを理由にした米国の石油をはじめとする対日全面禁輸は、日本を予想だにしていなかった国家崩壊の危機に直面させました。すなわち、貿易全依存国である日本は石油がなければ船舶を動かすことはできず、船舶が動かなければ工業材料はおろか、食糧まで一切輸入することはできず、そうなれば産業崩壊はもちろんのこと餓死者さえ出かねないのです。また動かなくても排水の為に常に石油を消費する海軍は当然のことながら壊滅してしまい、もし日本が事態を放置して無抵抗状態になった時に、米西戦争の時のように、米国が何らかの口実で日本に宣戦布告をしてきた場合、日本は満足に戦闘さえできないことが懸念されました。

そのうえ、ハルノートには日本との交渉再開の条件として中国大陸からの撤退(原案では満州を除くという但し書きがあったが、米国側は手交前に敢えて削除した)というおよそ短期間には実現不可能な条件が記されており、しかもその見返りは「交渉を再開する」というだけであり、禁輸解除は記されていませんでした。したがって、ハルノート受諾を含む外交による事態打開を目指しても、日本が破滅的な状況に直面する公算は極めて高いと予想され、進退窮まった日本は強行策として欧米植民地の資源地帯の軍事力による強制奪取とその防衛を目的とした東南アジア・太平洋地域への戦争を開始しました。

このようにアヘン戦争やアロー戦争と似たような構造の侵略戦争である日中戦争と、米国や米国が指導した全面的な経済制裁に対する自衛が目的としての対米英蘭戦争という、目的・性質の異なった二つの戦争が併存していたのが太平洋戦争であるという見方です。

■戦争の評価(アジア)

中国大陸(現在は中華人民共和国)や、日本の一部であった朝鮮半島(現韓国・北朝鮮)においては、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強いです。しかし、かつての植民地・占領地以外のアジア諸国からは、日本を加害者とする評価だけではなく、それ以外の評価がなされることもあります。加害者とする以外の評価があるのは、アジアには多民族国家が多く、各集団によって世界観が大きく異なるためであるとも言われていました。そのうち、直接に被害を受けていない地域では日本を評価する声があるとも、実際のところは少数派であるとも言われていました。これには、当地の人々にしてみれば独立は主として自分たちの力で達成したものという意識が反映していることに加えて、すでにそれぞれが以前に比べて国民国家化していることも関係しています。

マレーシアやインドネシア、フィリピンなどの当時ヨーロッパやアメリカの植民地であった東南アジア諸国において、日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由については、純粋に日本の侵攻が独立に貢献したと評価されているケース、建国の功労者に日本の後押しで権力の座に就いた者がいるケース、戦後の独立戦争において旧日本軍人が指導・協力したケース、また単純に反米的なイデオロギーを持っていたケース、あるいは軍事政権の雛形として評価せざるを得ないケースなど様々であり、その理由を一概にまとめることは難しいようです。

これらの国々で日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由として、日本の支配が強圧的であれどもイギリスやオランダ、アメリカなどの旧宗主国のそれに比べれば相対的にマシなものであったからという説もあるからです。また、そもそも旧宗主国の植民地支配によって蒙った被害があまりに甚大であるが故に支配期間においては圧倒的に短い日本による被害が問題にされにくいという面もあります。これとは逆に、日本の支配ののちに侵入してきた支配者への反感から日本への責任を問う声が比較的厳しくないという地域もあります。

また、日本に協力する人々がいた一方、イギリスやアメリカなどの旧宗主国に協力して日本と敵対する人々もいました。この場合は、戦争が終わったのち、親日派も宗主国協力派も独立のために戦ったケースが多いのです。

■台湾島一帯における評価

当時は日本による統治下であった台湾島一体では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われませんでした。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではありませんでした。

第二次世界大戦後に中国大陸から入ってきて強権政治を行った中国国民党に対する批判により、相対的に日本の統治政策を評価する人もいます(「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」と言われている)。また、それらの大日本帝国を評価する勢力の一部には太平洋戦争についても「解放戦争」であったと位置付けている人もいました。

台湾島一帯を中華民国(ないし中華人民共和国)の一部であると主張する勢力の中には、日本の支配を「中華民国への侵略行為に過ぎない」と評し、太平洋戦争も侵略であったと評する人もいます(外省人=中国大陸出身である場合が多い)。

戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴きました。これについての評価も分かれていました。当時は日本国民であったのだから当然とする人もいれば、不当な強制連行であったと批判する人々もいました。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している人々もいました。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と差別的な取り扱いがなされたことに対する批判もあります。
また、中華民国にも大韓民国、フィリピン、オランダなどと同様従軍「慰安婦」になることを強いられた女性達がいるとして、日本政府を相手に損害賠償を求める動きも出ています(日本政府は個人資産で一部中間賠償をおこなったので個人賠償は行なっていない)。

[脚注]

* 「従軍慰安婦」という言葉自体、議論の対象になっていました。つまり自発的にそれになった人、もしくは怪しげな業者にだまされたりしたものであり、日本軍が強制連行したなどの資料は一切見つかっていない。一例として当時のいわゆる従軍慰安婦・娼婦は軍票の簿価の総計だけのみで換算して「当時の日本の総理大臣をはるかに上回る収入を得ていた」とする試算もある。台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点のひとつとなっていた。

* 台湾での戦争観を語る際に、本省人(台湾島出身)が親日であり日本支配肯定論、外省人(大陸からの移住者)が反日抗日的であるとの見方がありますが、実際はそれほど単純ではないのです。省籍矛盾については特定の政治家が選挙運動で煽ることによって起こる面も否定できず、そうした背景を理解しないで台湾の戦争観を論じると誤解が生じるおそれがあるとされます。本省人には、福建系と客家系がいること、また台湾人を語る際には台湾先住民の問題が欠けている傾向が見られること、省籍については近年外省人、福建系をはじめとした本省人の垣根が解消される傾向にあること、外省人はエリートと低所得層との格差が激しく多様であること、低所得層の外省人と台湾先住民との婚姻のケースが多いなど単純ではない、という意見もありますが、そのように詳細に見て行けばおよそ概説は不可能であり、つまるところ学問的考察は不可能になってしまいます。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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「歴史の両側(2) 『占領政策と戦後処理問題』 学校で教えてくれなかった近現代史(56)」への1件のフィードバック

  1. 対アジア戦争については、一方的な記述をしているブログをよく見かけますがこちらのブログでは様々な視点から記述をしていてとても良心的だなと思いました。色々な意見があります、と言って安易に結論を下していない点も良いなと思いました。

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