日米関係の推移
日露戦争後、日本は東アジアにおいて押しも押されもしない大国になりました。フィリピンを領有したアメリカの極東政策の競争相手は日本となりました。
他方、日米間では、日露戦争直後から人種差別問題がおこっていました。アメリカの西部諸州では、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事を奪うとして、日本人を排斥する運動が起こりました。アメリカ政府の指導者は建国理念のたてまえから日本人移民の立場を弁護しましたが、各州の自治重視もまた重要な原則であるため、こうした西部諸州の行動を抑えることはできませんでした。
第一次世界大戦のパリ講和会議で、日本は国際連盟規約に人種差別撤廃を盛り込む決議をしました。この提案は世界の有色人種から注目と期待を集めました。しかし、その目的の中には、移民への差別を撤廃することが含まれていたので、オーストラリアなど、有色人種の移民を制限していた国は強硬に反対しました。
投票の結果、11対5で日本の決議案への賛成が多数を占めましたが、議長役のアメリカ代表ウィルソンは、重要案件は全会一致を要するとして、決議の不採択を宣言しました。世界の有色人種が期待した決議は国際連盟ではついに採択されませんでした。このことにも多くの日本人は落胆しました。
アメリカでは、こののちも日本人の移民排斥の動きが続き、日本人はこれを人種差別と受け取りました。
ワシントン会議
1921(大正10)年から翌年に欠けて、海軍軍縮と中国問題を主要な課題とするワシントン会議がアメリカの提唱で開かれ、日本を含む9か国が集まりました。会議の目的は、東アジアにおける各国の利害を調整し、この地域の安定した秩序をつくり出すことでした。
米英日の海軍主力艦の保有率は、5:5:3とすることに決められ、また、中国の領土保全、門戸開放が9か国条約として文書化されました。同時に20年間続いた日英同盟が解消されました。日英同盟の廃棄はイギリスも望んでいなかったのに、アメリカの強い意向で決まったもので、結果的に日本の未来に暗い陰を投げかけることとなりました。
主力艦の相互削減は、第一次世界大戦後の軍縮の流れに沿うもので、軍備拡張競争では経済的に太刀打ちできない日本にとっては、むしろ有利だったといえます。
関東大震災
1923(大正12)年9月11日、関東地方で大地震が起きました。東京や横浜などで大きな火災が発生して、死者・行方不明者は10万人を超えました(関東大震災)。日本の経済は大きな打撃を受けましたが、地震の多い日本での近代都市づくりに得た教訓は多く、耐震設計の基準づくりや都市防災への研究がはじまりました。
新しい学問と文学・芸術
明治末から大正時代にかけて、日本が欧米と対等の国になるという目標が達成されると、新しい知識に敏感な青年たちの関心は、国家よりも個人の内面に向けられるようになりました。それにともない、個性の尊重や自己実現が説かれ、西洋文学・芸術・哲学などのふれて教養を深めることが重視されるようになりました。
禅の体験の上に西洋哲学を取り入れ、西田哲学とよばれる独特の哲学を生み出した西田幾太郎や、日本の庶民の生活風俗を研究する民俗学を始めた柳田国男などが出て、学問に新しい発展をもたらしました。
文学では、人道主義を掲げた志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎など白樺派の作家たちや、耽美的な作品で知られる谷崎潤一郎、理知的な作風で知られる芥川龍之介などが登場して、新しい時代の精神を表現しました。
大正時代後半からは、マルクス主義の見地から、労働者の生活や革命運動を描いたプロレタリア文学もあらわれました。また新劇とよばれる西洋の舞台を模範にした演劇もさかんになりました。絵画では日本の風景を雄大に描く横山大観や女流画家で美人画を描き続けた上村松園などの活躍が大衆の注目を集めました。
大正文化と都市生活の形成
大正時代半ばから、民衆の知識水準が向上するに連れ、新聞の他に『中央公論』や『文藝春秋』などの総合雑誌が読まれるようになり、文学全集なども大量出版されました。ラジオ放送も開始され、文化の大衆化が進行しました。
近代産業の発展に伴う都市生活者の増大につれて、都市の中心と郊外を結ぶ私鉄が開通しました。また、乗合自動車(バス)の路線拡大、デパートの開業、女性の服装の洋装化、カレーライス、コロッケ、トンカツといった洋食の普及など、今日に至る都市生活の原型ができあがりました。バスガールや電話交換手など、女性の新しい職場への進出も始まりました。第一次世界大戦後には、アメリカの文化が流入し、とくにアメリカ映画は人気を集めました。
引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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