尊攘派の蹉跌
この頃、京都へ尊王攘夷派の志士が集い、「天誅」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化。尊攘派の擡頭により朝廷・幕府政治の混乱が起きていることを憂えた孝明天皇の意をくみ、中川宮朝彦親王は極秘に会津藩・薩摩藩に長州藩の追放を命ずる。文久3年8月18日、宮廷の御門を制圧した会津・薩摩は、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州への撤退させるクーデタを決行し(八月十八日の政変、七卿落ち)、長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功しました。
いっぽう幕権強化・雄藩連合などの様々な思惑を孕みつつ、文久3年12月に徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・伊達宗城(宇和島藩主)・島津久光による参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われましたが、将軍後見職の徳川慶喜の非協力的態度に春嶽・久光らが反撥して帰国したため、早くも翌年3月には崩壊。参預会議体制はわずか数ヶ月しか持ちませんでした。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬(桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなります(一会桑体制)。
この頃、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっています。文久3年(1863年)8月大和では公卿中山忠光、吉村寅太郎・池内蔵太(土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石(岡山藩士)、さらには河内の大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生しました。これらの事件は倒幕を目的とした最初の軍事的行動として、後世から見た歴史的な意味は大きいものの、この時点では無残な結末となりました。また土佐藩では武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が弾圧され尊攘勢力は次第に後退していきました。さらに水戸藩では元治元年(1864年)3月、藤田小四郎・武田耕雲斎ら天狗党が筑波山で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生しました(→天狗党の乱)。
このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京します。京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われました(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなります。さらに同じ頃、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥りました(四国艦隊下関砲撃事件)。
[*1]…一会桑政権(いちかいそうせいけん)は、幕末の政治動向の中心地京都において、禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮・一橋慶喜、京都守護職・松平容保(会津藩主)、京都所司代・松平定敬(桑名藩主)三者により構成された体制。 [*2]…天狗党の乱(てんぐとうのらん)とは、1864年5月2日(元治元年3月27日)に起きた、水戸藩士藤田小四郎ら尊皇攘夷過激派による筑波山での挙兵と、その後これに関連して各地で発生した争乱のことである(1865年1月14日(元治元年12月17日)に主導者投降)。武士階級以外の階層や水戸藩領以外からも多くの参加があり、行軍中に政治的な宣伝も行った。勝海舟
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運をつかむことができた。 その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよく出来たため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。長崎に赴任してから数週間で聞き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごします。この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなります。
万延元年(1860年)、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航しました。旅程は37日で、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船しました。米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗しました。通訳ジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃していますが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれていますが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場でした。しかし、アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができました。
勝海舟は、維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を叙されました。徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し、存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生の全てを捧げました。その他にも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人もの旧幕臣を送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げ、名産としている。こうした努力から、新政府側の中心的役割を担った薩摩藩でさえも旧士族が反乱を起こし西南戦争という大規模な内戦にまで拡大したのに比べ、徳川幕府の旧家臣がこれといった反乱を起こさずに職業の転換を実現しているのは勝の功績です。
勝は日本海軍の生みの親とも言うべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対し続けました。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物であり、丁が敗戦後に責任をとって自害した際は勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様(ありよう)を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と後述している。
明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻し、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。
神戸海軍操練所
勝は帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている[11]。 勝は神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた[12]。さらに、神戸海軍操練所も設立している。 後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。 勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言う。操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめたのが勝の師弟、坂本龍馬です。
勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864年)9月11日、大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。
慶応2年(1866年)、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。
参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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