日本の生命線 満州国 学校で教えてくれなかった近現代史(41)

満州国

日本で満洲と呼ばれる地域は、満州国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲でした。

この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。

満洲は本来、地名ではなく民族名および王朝名である「満」と「洲」です。したがって、満州の「州」は世界各国に見られる地域行政区分としての「州」ではありません。なお、「満洲」の語を地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。(現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」が使われる。)満州は、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域でした。満洲国以前の女真族の建てた王朝として、「金」や「後金(後の清)」があります。

歴史的にこの地域はモンゴル系・ツングース系の北方諸民族の興亡の場でした。紀元前1世紀から紀元7世紀まで高句麗が存在しました。古代の中国ではこの地域は中華文化圏とは認めず、東夷・北狄の侵入を防ぐために万里の長城を築いて遮断されたことにより「封禁の地」、明代に山海関と名付けられることになった長城最東端の関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれました。

中世に入ると、唐や遼の支配を受けて一時中華圏内に入るものの、12世紀には土着の女真族(満洲族)が金を建国、遼・北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。金はモンゴル民族のモンゴル帝国(元)に滅ぼされ、この地は元の支配下に入る。次いで元は漢民族の王朝明に倒され、一時は明の支配下となったが、後に女真族への冊封による間接統治に改められた。満洲族(17世紀に女真族から名称変更)が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明に代わり、満洲地域及び中国本土全体が満洲民族の支配下に入りました。

近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が頻発したため、国境を定める必要が生じました。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも正式に清朝の国土と定められました。その後、清王朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させました。そして1860年には政策を転換して、漢民族の移入を認め、農地開発を進めて、次々と荒野を農地に変えゆき、この民族移動は「闖関東」と呼ばれます。

しかし王朝末期に弱体化した清朝は、ロシアの進出を抑えきれず、1858年の北京条約、1860年のアイグン条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満州地域は、ロシアに割譲されることとなりました。

満洲国をめぐる国際関係

1929(昭和4)年のアメリカの大恐慌は、日本経済を不況のどん底に陥れました。折り悪く浜口内閣は井上準之助蔵相の下で金輸出解禁政策を行っていました。日本経済は通常以上の打撃を被ったといえます。大恐慌は同時にアメリカの豊かさやデモクラシーの機能を、イメージとして大いに傷つけました。日本でもアングロ・サクソンを主流とする西洋の没落を予感し、かわって共産主義のソ連や、ファッショのイタリアなど新興の全体主義国家が世界を席巻する予想が次第に鮮明になっていきました。

浜口内閣では、一方でロンドン海軍軍縮を進め、他方で宇垣陸相が軍備近代化に着手します。しかも、海軍内では条約派(軍縮派)と艦隊派(強硬派)とに二分されました。浜口内閣の緊縮財政と相容れない陸軍近代化は、陸軍中堅層から批判が日増しに強くなっていきました。

日本国内の問題として、昭和恐慌(1930:昭和5)以来の不景気から抜け出せずにいる状況がありました。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつありましたが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、明治後半以降、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていきました。

ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていました。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができませんでした。

満州事変

日露戦争によって、日本は遼東半島南部の関東州を租借し、ロシアから長春より南の鉄道の営業権を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)を設立しました。昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいました。その保護と関東州及び満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していました。

満州鉄道や満州重工業開発を通じて多額の産業投資を行い、農地や荒野に工場を建設しました。結果、満洲はこの時期に急速に近代化が進んでいきました。一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を強制移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策を実施し、このことが反日組織の拡大へと繋がっていきました。

満洲は清朝時代には帝室の故郷として漢民族の植民を強く制限していましたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいました。これに目をつけたのが清末の有力者・袁世凱であり、彼は満洲の自勢力化を目論むとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとしました。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立しました。

満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲に於ける日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられました。さらに中国内地では蒋介石率いる国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れました。

さらに、1917(大正6)年、第一次世界大戦中にレーニンによってロシア革命が起こり、共産党一党独裁体制のソビエト連邦が成立しました。日本はシベリア出兵で満洲の北にあるソ連極東に内政干渉を行うも失敗しました。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、日本の生命線と見なされるようになりました。南からは国民党の力も及んできました。こうした中、関東軍の一部将校は満州を軍事占領して問題を解決する計画を練り始めました。

こうした状況の中、1920年代の後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって長城以東の全満洲を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになりました。

日本の生命線 満州国建国

1931(昭和6)年、関東軍は奉天(現在のシ審陽)郊外の柳条湖で、満鉄の線路を爆破し、これを中国側の仕業として、満鉄沿線都市を占領しました(柳条湖事件)。政府と軍部中央は不拡大方針を取りましたが、関東軍は全満州の主要部を占領し、政府もこれを追認しました(満州事変)。

翌1932年(昭和7年)2月に、遼寧(当時は奉天省)・吉林・黒竜江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織、2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立による満州国建国を宣言を発しました。元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が満洲国執政として即位し、1932年3月1日に満洲国の建国が宣言されました(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と改名されました。

1934(昭和9)年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した。国務総理大臣(首相)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。満洲国を建国し、元首として滅亡した清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を迎えた。溥儀は当初は執政、後に皇帝となりました。満洲国は国家理念として、満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国に在住する主な民族による五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を掲げた国民国家であることを宣言しました。

9月の満州事変の勃発は陸軍中堅層の不満を現実化しました。関東軍にあって石原は全満州を手中に収める計画を構想します。関東軍は満鉄の一部を爆破し攻撃をかけ、全域を半年にして占領するという挙に出ました。陸相には反宇垣系の荒木が就任するなど、政党内閣の内外にも反政党的存在が台頭し始めます。かくてワシントン体制と政党政治は音を立てて崩壊の一途をたどりました。

関東軍が、満州の軍閥・張作霖を爆破するなど満州への支配を強めようとすると、中国人による排日運動も激しくなり、列車妨害や日本人への迫害などが頻発しました。

満州事変を世界はそう見たか

満洲国は、日本の影響下にあったことから、事実上日本の傀儡政権とされている国家である。しかし、現在歴史学上では受け入れられていないが、傀儡国家ではなかったと位置づける説もあります。

1932年5月15日、満州問題を話し合いで解決しようとしていた政友会の犬養毅首相は、海軍青年将校の一団によって暗殺されました(五・一五事件)。ここに8年間続いた政党内閣の時代は終わりを告げ、その後しばらくは、軍人や官僚出身者が首相に任命されるようになりました。

アメリカをはじめ各国は、満州事変をおこした日本を非難しました。国際連盟は満州にイギリスのリットン卿を団長とする調査団を派遣しました。1932年3月から6月まで中国と満洲を調査したリットン調査団は、10月2日に至って、満州に住む日本人の安全と権益がおびやかされていた事実を認めつつも、満洲事変を日本による中国主権の侵害と判断し、満洲に対する中華民国の主権を認める一方で、日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告しました。日本の満洲に於ける特殊権益を認め、満洲に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告する二者択一的な性格を示した報告書を提出しました。

すでに9月15日に斎藤内閣のもとで政府としても満洲国の独立を承認、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟に送り、満洲国建国の正当性を訴えましたが、報告書は総会において42対1(反対は日本のみ)、棄権1(シャム、後のタイ王国)で適切であるとして採択され、日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退しました。

アメリカ移民の松岡は瀬戸際外交の強硬論者として振るまい、確かにマスコミ受けはしたものの、やがて近衛新体制下の外相として日本外交を破滅に導いていきます。もっとも満州事変は停戦協定によって一応の着地点に達することができました。

その後、日本と中国とのあいだで停戦協定が結ばれ、満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのもと、日本の重工業の進出などにより経済成長を遂げ、中国人などによる著しい人口流入もありました。しかし満洲国の実験は関東軍が握っており、一方で大小さまざまな抗日運動も耐えることがありませんでした。

引用:『日本人の歴史教科書』
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塚瀬 進

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