真珠湾攻撃
1941年12月8日、日本海軍はアメリカのハワイにある真珠湾基地を攻撃し、アメリカ太平洋艦隊と陸軍の航空部隊に全滅に近い打撃を与えました。この作戦は、アメリカの主力艦隊を撃破して太平洋の制海権を獲得することをめざした者でした。同日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍を撃破しつつシンガポールをめざして侵攻しました。
日本は米英に宣戦布告し、この戦争は「自存自衛」の為の戦争であると宣言しました。1941年12月12日の閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められました。日本政府の宣戦布告は当初米英2国に対して行われましたが、閣議決定では、「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争」を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称」するとなっているので、対中国、対オランダ、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含まれます。なお、「大東亜」とは「東南アジアを含む東アジア」を指す地理区分です。
ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦は、日・独・伊の枢軸国と、米・英・蘭・ソ・中の連合国が世界中で戦う戦争へと拡大しました。
対米英回線をニュースで知った日本国民の多くは、その後、次々と伝えられる戦果に酔っていました。他方、アメリカ政府は、日本の交渉打ち切りの通告が、真珠湾攻撃よりも遅れたのは卑劣な「だまし討ち」であると自国民に宣伝しました。今まで戦争に反対していたアメリカ国民を「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、対日戦争に団結させる結果をもたらしました。
宣戦布告と開戦の真実
最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定でした。
12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになりました。
書記官室の寺崎英成書記官(終戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後(タイプの奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをした)、井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交しました。
すなわち、日本は真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交したのである。このことは「日本によるだまし討ち」として米国民に広範な憤激を引き起こし、卑劣な国家としての日本のイメージを定着させる原因となるが、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していました。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが現在いわれる真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略説の根拠となっています(真珠湾攻撃陰謀説)。
また日本海軍航空隊の真珠湾攻撃の前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、日本海軍所属の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件が発生していた(ワード号事件)。なお、ワード号事件よりも早く、日本陸軍が日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間午前5時30分)にマレー半島に上陸しており、太平洋戦争の戦端はこちらとなる。
暗転する戦局
戦争の最初の半年間、日本の勝利はめざましく、マレー半島に上陸した日本軍は、わずか70日で半島南端のシンガポールにある英軍の要塞を陥落させました。連合国側の準備が整わなかったこともあり、たちまちのうちに日本軍は広大な東南アジアの全域を占領しました。
しかし、1942(昭和17)年6月、ミッドウェー海戦での日本の連合艦隊はアメリカ海軍に敗れ、航空母艦4隻を失いました。これを皮切りに米軍は反撃に転じました。日本は制海権を失い、補給路を断たれ、輸送船はアメリカの潜水艦によって次々と沈められました。日米の生産力の差も次第に表面化し、日本軍は乏しい武器・弾薬で苦しい戦いを強いられましたが、日本の将兵は、この戦いに国将来がかかっている、と信じてよく戦いました。
引用:『日本人の歴史教科書』自由社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大東亜戦争が正式な名称です。戦後アメリカ側がこの名称を禁止したので「太平洋戦争」という用語が一般化しました。アメリカ側からすれば、日本と対戦したのは太平洋だけですが、東アジアでの戦争ですので大東亜戦争というのが一般的です。
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