日本国家の新しい課題
日清・日露の二つの戦争に勝利したことによって、日本は、欧米列強の圧力のもとで独立を維持するという幕末以来の目標を達成しました。日本の国際的地位は向上し、世界列強の仲間入りを果たしました。
しかし、国際的地位の向上は、日本にとって思い試練を課されることでもありました。日本は唯一の有色人種の大国として、欧米列強からは警戒のまなざしで見られるようになりました。
また、国内では、ポーツマス約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が日比谷焼打事件などの暴動を起こしました。
日本と植民地
日本の植民地としては、どの地域を植民地として捉えるべきか見解が分かれており、沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)と北海道、小笠原諸島も植民地として捉えるべきという少数意見もあります。
しかし、主に第二次世界大戦以前の日本の植民地とされる地域については、いわゆる内地とは異なる内容・形式の法令が施行されていた点を重視し、以下の5つの地域を日本の植民地とする見解が一般的です
台湾(下関条約による割譲)
南樺太(ポーツマス条約による割譲)
関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
朝鮮(日韓併合条約による大韓帝国の併合)
南洋群島(国際連盟規約による委任統治)
これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではありませんでしたが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていました。ただし、南樺太は、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われ、さらに1943年4月には完全に内地に編入されました。
内地(ないち)と外地(がいち)
日本の法令で植民地という用語を使用したものはありませんが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在する上、戦前、日本が締結した条約で植民地に適用しないとされたものは、実際外地には適用されていないので、当時の日本政府がこれらの領土を植民地と考えていたことは明らかであるとされてれいます。
法令による規定を見ても、
・内地では帝国議会が法律を制定したのに対し、外地では行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと、
・外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと、
・樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えらなかったことなど、
内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、学術領域ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されており、植民地であったかどうかを議論の対象にすることはほとんどありません。
また、日本の統治が及んでいた地域ではありませんが、1932年に建国された満州国を初めとして、大東亜共栄圏構想の下に、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)中に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジア)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)も名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡(かいらい)性から日本の植民地同然だったと理解する考え方もあります(満州国については、準外地と呼ぶことがある)。
しかし、領有に至る経緯に至る経緯(一般に植民地化は無主地先占の法理によって行われることが多かったが、日本の朝鮮や台湾は文明国間の条約による併合や割譲という法形式によって獲得された)が異なるという認識から日本の海外支配地域を植民地と呼ぶのは妥当ではないという意見もあります。
内地以外の国土を総称して外地あるいは植民地などといました。外地には朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁、関東庁、南洋庁といった官庁が置かれ、統治が委任されました。これら外地官庁の要職は内地人で占められていました。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しませんでしました。
内地
日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下のとおり。
本州・九州・四国:日本の古来からの領土(東北地方は平安時代以降)。古事記は淡路、対馬、壱岐、隠岐、佐渡と合わせて大八島と呼ぶ。
北海道:中世以来徐々に統治権を及ぼす(参照:和人地)。1855年の日本国魯西亜国通好条約(安政元年12月21日締結)により択捉島と得撫島の間に国境を確定。
沖縄:日清両属の琉球王国だったが、1872年、第一次琉球処分により琉球藩を設置して琉球国王を藩王とし(明治5年(1872年)9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。
千島:1875年千島樺太交換条約(明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。
南樺太:南樺太についても、台湾や朝鮮と同様に日本の領土であったため、帝国議会の協賛を要するという見解を前提にした方策が採られました。しかし、南樺太に設置された樺太庁の長たる樺太庁長官には樺太庁令という形式の命令を発する権限はあったものの、台湾総督や朝鮮総督とは異なり、立法権を一般的に委任する方策は採られなかった。これは、台湾や朝鮮とは異なり南樺太は内地からの移住者が多かったため、内地からの移住者については内地の法令をそのまま適用するのが相当であったためである。
1943年(昭和18年)4月1日、「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)の廃止にともない、名実ともに樺太が内地に編入されました。
小笠原:1876年、官吏を派遣し実効統治する旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。
このほか以下の島々を内地に編入しました。
北大東島・南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。
硫黄島・北硫黄島・南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。
南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。
魚釣島・久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。
沖大東島:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。
竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。
中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。
沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。
外地
外地(がいち)とは、第二次世界大戦前の日本(大日本帝国)において、いわゆる内地以外の統治区域をいう。植民地、殖民地、属地ともいった。
日本が外地を最初に取得したのは、下関条約の締結に伴い台湾の割譲を受けたことが最初である。その際、既に内地に施行されていた大日本帝国憲法(以下、単に「憲法」という)の効力がその後に統治権を取得した地域に対しても及ぶかという形式的な問題(具体的には、外地の立法につき憲法5条の規定により帝国議会の協賛が必要か否かという問題)、内地人とは異なる慣習を持つ者が住む地域に対して内地に施行されていた法令をそのまま外地にも施行するのが相当かという実質的な問題が生じた。
当時の政府は、外国人顧問から聴いた母国の植民地法制を参考にしつつ、日本の領土たる外地(南樺太、台湾、朝鮮)には憲法の効力が及ぶのに対し、日本の領土ではない外地(関東州、南洋群島)には憲法の効力が及ばないという考え方を前提にして、統治方針を決めた。
外地に施行すべき法令の形式については、日本の領土であったか否かという点、領土であった地域については内地人の割合が多かったか否かという点により、統治方針が区別される。
1 台湾
2 朝鮮
3 関東州
4 南洋群島
租借地・委任統治区域
租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州と一時膠州(青島)を租借しました。
委任統治区域は南洋群島で、西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領でしたが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により、国際連盟の委任に基づき統治する委任統治区域としました。国際連盟脱退後も引き続き委任統治を行いました。南満洲鉄道附属地(満鉄附属地) は、南満洲鉄道(満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や鉱山などからなります。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得しました。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有していました。1937年、行政権を満洲国に移譲するとともに、治外法権を撤廃しました(昭和12年条約第15号)。
租界(そかい)は行政自治権や治外法権をもつ清国(のちに中華民国)内の外国人居留地で、阿片戦争後の不平等条約により中国大陸各地の条約港に設けられました。日本は専管租界を1897年杭州と蘇州に、1898年天津に、1898年漢口に、1901年重慶に、それぞれ開設しました。また、上海の共同租界に参加していました。北京には正式な租界ではありませんが、事実上の共同租界として機能した公使館区域がありました。このほか沙市、福州、厦門に租界を設置する権限がありましたが設置しませんでしました。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有しました。1943年、中華民国(汪兆銘政権)に対し租界を還付し治外法権を撤廃しました(昭和18年条約第1号、同第2号)。
[2]近代国家体制の確立していなかった朝鮮では、土地の所有制度が不明瞭であり両班の暴力による土地収奪などは日常茶飯事であり、農民の間でも土地の所有をめぐる抗争が絶えなかった。 また政府が国地勢を正確に把握していなかったために国土計画も困難であった。
出典: 『日本人の歴史教科書』自由社
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