1-3 第一巻下 気多郡故事記 現代語版

第40代天武天皇4年(675)2月乙亥朔キノトイ サク
但馬国等の十二国に勅して曰わく、
「国内の百姓オホムタカラのなかより、よく歌う男女および侏儒ヒキト(*1)・伎人ワザト(*2)を撰んで貢上タテマツれ」と。

同年、兵政司ツワモノノツカサ(*3)を置き、諸国の軍団を管轄し、天皇の子孫、栗隈王クリクマノオオキミを長官とし、大伴御行オオトモノミユキを副とする。

8年(679) 親王は諸臣に兵馬を貯えるように命じた。

12年(683)夏4月 詔して、文武の官人に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の道具を備え、馬を持っている者を歩卒とし、時々検閲する。

馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジ トキオを、但馬国の兵官ツワモノノツカサとし、操馬の法を教える。その地を名づけて、馬方原ウマカタハラ(三方郷は馬方郷の転訛)と云う。

13年(684)3月、馬方連刀伎雄トキオは、その祖、平群木菟宿禰ヘグリノツクノスクネ命を馬方原に祀り、馬工ウマタクミ神社と称えまつる。(馬工村 今の馬止神社:豊岡市日高町観音寺)

冬10月14日 地震が起きる。気多郡は火災により人畜多く死に、止美トベ神社(戸神社)・太多神社・矢作神社・栗栖神社など震災に遭う。

同じ月 応神天皇の皇子 大山守命の末裔 榛原公鹿我麿ハイバラノキミカガマロ(*4)を、(初代)但馬国司(*5)とし、位小錦上(*6)を授く。

榛原公鹿我麿は気多郡狭沼を開墾し田を作る。

14年(685)秋8月 その祖大山守命を[木蜀]椒ホソギ山に祀り、祭式を行う。(式内名神大[木蜀]椒神社:豊岡市竹野町椒1738-2)

朱鳥元年(686)5月 小錦上・榛原公鹿我麿に務広参(*7)を授く。墾田の功による。
榛原氏の後裔はこの地にあり、蜀椒ハジカミ(*8)の実を採集し、油を絞り取り、これを朝廷に献じた。のち献上を定めとなる。ゆえにこの地を名づけて、蜀椒ホソギ村と云う。

蜀椒は保曾伎または伊多智波遅訶美。また古夫志波訶美。

第40代持統天皇の巳丑ミウシ3年(690)秋7月、
左右の京職(*9)および諸国の国司に命令して的場を設け、築かしむ。
国司務広参、榛原公鹿我麿は、気多郡馬方原に的場イクハバを設け、的臣羽知イクハノオミハジをもって令(長官)とした。的臣羽知はその祖・葛城城襲津彦命カツラギノソツヒコを馬方原に祀り、的場神社と称した。(今の萬場神社(*10):豊岡市日高町河畑)

巳丑3年(690)閏8月、忍海部オシヌミベの広足を、但馬の大穀とし、人民の四分の一を点呼し、武事を講習させた。

広足は陣法に詳しく、兼ねて経典に通じ、神祀を崇敬し、礼典を始める。

すなわち、兵主ヒョウズ神を久刀村(今の久斗)の兵庫のカタワラに祀り、(式内 久刀寸兵主神社:豊岡市日高町久斗)
高負神を高田丘に祀り、(式内高負神社:〃 夏栗)
大売布命を射楯丘に祀り、(式内売布神社:〃 国分寺)
軍団の守護神と為し、軍団守護の三神と称した。

また将軍・田道公を崇敬し、田道公の神霊を止美トベの丘に斎き祀り、これを戸神社と称えた。(式内名神大 ヘ・との神社:豊岡市日高町十戸18-1)

また、楯石連小袮布に命じて、楯石連大袮布命を楯石の丘に祀らせ、
大多公をして、多他別命を多他の丘に祀らせる。(楯石神社:豊岡市日高町祢布446)

第42代文武天皇庚子4年(701)春3月 二方国を廃し、但馬国に合わせ、八郡とする。
朝来アサコ養父ヤブ出石イズシ気多ケタ城崎キノサキ美含ミクミ七美シツミ二方フタカタ

府を国府邑に置き、管轄する。従五位下・櫟井臣春日麿イチイノオミカスガマロ但馬守タジマノカミとする。
櫟井臣春日麿は孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命アメタラシヒコクニオシヒトの孫、彦姥津命ヒコオケツ五世の孫・大使主命オオオミノミコトの裔です。

大宝元年(701)春正月 詔によって、皇都に大学寮を設け、諸国に国学寮を設ける。

2月 初めて先聖・先師(ともに中央の学者)を大学寮に招く。

3月壬寅ミズノエトラ (3代目国司の)右大臣従二位 阿部朝臣御主に、絹500足、糸400束、布五千段、スキ1万口、鉄5万斧、備前・備中・但馬・安芸国の田20町を賜う。

秋8月 但馬など17ヵ国でイナゴや台風が百姓の家を破壊、秋の収穫を損なう。

大宝3年(703)春3月 国司櫟井臣春日麿イチイノオミカスガマロはその祖大使主命オオオミノミコトを市ノ丘に祀る。

5月 市場を設け、貨物を交易す。しかして商長首宗麿命アキオサノオビトムネマロを祀る。(式内伊智神社:豊岡市日高町府市場935)

慶雲元年(704) 詔にて、諸国の兵士団を10に分けて、十日間教習する。鍛錬に務め、雑役を禁止する。

3年(706)春2月 但馬など19社を、初めて祈年祭幣帛(*11)の例に入れる。

朝来郡 粟鹿神社、
養父郡 夜父坐神社、
気多郡 山神社・戸神社・蜀椒神社、
城崎郡 海神社
(いずれも名神大社となる)

5月 但馬国気多郡馬方原に国学寮を設けるあたり、郡司の子弟を教える。国学博士 ・文部の息道が教授し、学頭(学長)とする。(西文氏カワチノフミウジ(*12)の末裔)

7月 丹波・但馬2国で山火事が起きる。使を遣わし、幣帛を神祇(天の神と地の神=天津神と国津神)に奉る。すると雷鳴は 幣に応じおさまる。それにより、雷神を狭沼の丘に祀り、長く雷による火災を免れることを祈る。(名神大 雷神社:豊岡市上佐野)

同年 三木島宿祢足人は賀陽村を開き、墾田する。この所に住み、祖・34代舒明天皇の皇子、賀陽王を中山に、賀陽神社と称えまつる。(中山神社:豊岡市加陽81-1)

4年(707)春2月 初めて先代の聖人孔子を国学寮にまつる。(釈尊神社・豊岡市日高町広井にある釈山神社が関係あるのではないかと思っている)

第43代元明天皇の和銅元年(708)秋7月 但馬・伯耆二国で疫病がはやる。薬を配給し治療する。

冬11月 大嘗祭(*13)を行う。遠江・但馬二国が供奉を担当する。神祗官および二国の郡司並びに国人男女、すべて1,854人が叙位し、禄を賜う。格差はある。

養父郡大領従八位上・荒嶋宿祢磯継、
朝来郡 〃正八位下・荒嶋宿祢磯主、
出石郡 〃従八位上・高橋臣義成、
城崎郡 〃 〃  ・物部韓国連鵠(久々比)、
美含郡 〃 〃  ・矢田部連守柄、
七美郡 〃 〃  ・村岡首用野麿、
以上、七位下
二方郡 〃 七位下・榛原公弖良木テラギ
七位上を授かる。

6年(709)冬11月 但馬国は白キジを献上する。

第44代元正天皇の霊亀元年(715)夏5月 従五位上・阿部朝臣安麿を但馬守とする。以下、国守は正史にあるため、省略する。

2年冬11月 大嘗祭あり。親王以下、百官の人らに禄を賜う。格差あり。

遠江・但馬の郡司二人が位一階を進められ、養父郡大領・従七位下 荒嶋磯継は従七位上を授けられる。

第45代聖武天皇の天平期 但馬国の大毅(軍団の最高職)正八位上・忍海部オシヌミベの広足を因幡に遣わし、従七位下・川人部の広井を但馬大毅とする。(但馬に隣接する鳥取県岩美町に佐弥乃兵主神社・許野乃兵主神社)

第46代孝謙天皇の天平勝宝元年(749)6月 大炊山代直都賀麿オオイヤマシロノアタエツガマロを但馬介とする。八代邑を開き、墾田を行う。
これによって、5年秋9月 その祖・天砺目命アメノトメを八代の丘に祀り、これを大炊山代オオイヤマシロ神社という。また八代神社という。地元の人が訛って、思往オモイヤリノ神社と云う。(式内思往神社:豊岡市日高町中326)

7年春正月 国学の頭・文部息道は気多郡神社神名帳を編纂し、総社(気多神社)に納める。


[註]

*1 侏儒(ひきと・しゅじゅ) 背丈が並み外れて低い人。こびと
*2  伎人(わざと) 芸事の上手な人
*3 兵政司(つわもののつかさ) のちの兵部省
*4 榛原公鹿我麿 おそらく大和国東方の榛原(今の奈良県宇陀市)にゆかりのある人だろう。
*5 国司 国造にかわりの行政官として中央から派遣された官吏。四等官である守(かみ)、(すけ)、(じょう)、(さかん)等を指す。国司の制が敷かれたのは大化二年であるから、鹿我麿が初代の但馬国司に任ぜられた天武天皇13年(684)は、それより40年後に当たる。
*6 小錦上 664年から685年まで日本で用いられた冠位である。26階中10位で上が大錦下、下が小錦中。
*7 務広参 (読み方不明)天武天皇14年(685年)1月、冠位二十六階を改訂し、さらに冠位四十八階が制定された。

*8 蜀椒 ショクショウ、はじかみ さんしょうの別称。
*9 京職(きょうしき) 日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関
*10 萬場(万場) おそらく、的場はイクハバからマトバになり、マンバとなり万場。明治まで羽尻三区(金谷・河畑・羽尻)は三方村ではなく西気村万場の一部。田ノ口は清滝村の一部であった。それは河畑・羽尻に萬場神社が、田口に清瀧神社があることが証である。
*11 幣帛(へいはく) 「帛」は布を意味し、古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だったことを示すもので、神饌(食物の供物)以外のものの総称だった。のちには神饌も含む。『延喜式』の祝詞の条に記される幣帛の品目としては、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などがある。
*12 西文氏(かわちのふみうじ) 古代の中国系の有力渡来氏族。王仁わにの子孫と伝えられ、河内国古市郡古市郷に居住。東漢氏やまとのあやうじとともに東西史やまとかわちのふびととして、文筆を専門に朝廷に仕えた。
*13 大嘗祭 天皇即位のの後、初めて行う新嘗祭