(前回までの簡単なあらすじ)
- アメノホアカリが丹波に降りて、丹波を開いてのち但馬にやって来て、但馬ナミツキ(両槻天物部命)の子サクツヒコに佐々原を開かせた。
- 第十代崇神天皇のころ、丹波のクガミミやツチグモが但馬のツチグモを加え日本海岸で暴れ、四道将軍タンバミチヌシの子ヒコイマスが但馬の将兵とともにやっつけた。
- ヒコイマスに、タンバ・タジマ・フタカタ三国を与えられた。
- 第12代景行天皇のころ、ヤマトタケルは東国を平定し、その臣下オオメフは摂津川辺・但馬気多・城崎を与えられる。オオメフは気多の大県主となる。
第15代(*1) 神功皇后立朝の2年5月21日 気多の大県主オオメフ(物部連大売布命)が亡くなった。寿79歳。射楯丘(*2)に葬る。
オオメフの子、キミタケ(物部多遅麻連公武)を多遅麻国造とし、府を気立県(のち気多)高田邑(今の久斗)に置く。
キミタケは、
アメノマヒトツ(天目一箇命)の
ヒコサチ(彦狭知命)の
イシコリトメ(石凝姥命)の
アメノクシタマ(天櫛玉命)の
アメノホアカリ(天明命)(*3)六世の孫、タケハチネ(武碗根命)の裔
ノミノスクネ(野見宿祢命)の
また、オオメフの御遺骸におもむき、
(上代の首長墳墓=古墳の埋葬方法が詳細に記述されている。)
神功皇后45年、新羅は、朝貢(*8)しなかった。将軍であるアラタワケ(荒田別命・豊城入彦命4世の孫)・カガワケ(鹿我別命・大彦命の末裔)は、新羅に行き、これを破った。
百済王は古沙山に登り、磐石の上にすわり誓った。
「もし草を敷いて座ろうとすれば、恐らくは火で焼かれるだろう。木を取って座ろうとすれば、恐らくは水のために流されるであろう。枯れ磐石にすわり、
二人の将軍は、これらにより、増封され、荒田別命に
第16代仁徳天皇の元年(313年)4月に、
キミタケの子・タヂマビコ(物部多遅麻毘古)を、
5月、将軍アラタワケは、子のタカハセ(多奇波世君・他に竹葉瀬公と書く)の弟・タジ(田道公・他に田路と書くのであるいはトウジ)を山口邑に置き、タジの子・タダビコ(多田毘古)を多他邑(今の太田)に置いた。 それで、タダビコを多他別の田道という。 多他の名は、このアラタワケが
2年(314年)春3月、タヂマビコ(物部多遅麻毘古)は、キミタケの
49年、
55年、
第18代反正天皇の3年(408年)春3月、タヂマビコ(物部連多遅麻毘古)の子、物部連
第21代雄略天皇3年(459年)秋7月、
黒田大連は、アメノコヤネ(天児屋根命)の末裔にして、大職冠・藤原鎌足公の5世の祖なり。
黒田大連は、アメノユカワタナ(天湯河板挙命)の末裔・
有功の諸人を祀り、
4年(460年)秋9月
神門臣神人は、その祖、天穂日命12世の孫、鵜濡渟命を、神門の丘に祀る。(式内
17年(473年)春3月
これにおいて、土師連の祖・
但馬国出石郡
18年(474年)春4月 気多郡
陶谷甕主はその祖、
阿故氏人は、その祖土師連の祖・阿居命(一に吾笥)を阿故谷丘に祀る。(森神社・式内阿古谷神社:豊岡市竹野町轟)
小埦甕人はその祖、建小埦根命を小埦丘に祀り、小埦神社と申しまつる。(八坂神社:豊岡市竹野町小丸)
土師臣手抓は、その祖土師部連命を埴生の丘に祀る。
第25代武烈天皇3年(501年)夏六月
(大鹿連の子大鹿首は伊勢国造と為り、伊勢に遷る。子孫は世々大鹿に住むという)
4年(502年)春4月 大鹿連
伊多首真澄に、胸乳の鏡を作らせ、胸乳に掲げる。
5年(503年)夏5月 玉祖宿祢は、その祖・玉荒木命を伊爪の丘に祀り、玉荒木神社と称えまつる。(式内玉良木神社 (多摩良木・多麻良岐・玉荒木)神社:豊岡市日高町猪爪字玉谷367)
第28代宣化天皇の3年(538年)夏6月 能登臣気多命を多遅麻国造とする。
能登臣命は、その祖、
大入杵命は、崇神天皇尾張連の祖、武刀米命の娘、大海部姫命を妻にし、生まれた。能登臣の祖である。
第30代敏達天皇13年(584年)春3月
吉雄は、その祖 大荒田別命の子 多奇波世君の弟・田道公を
また多他毘売命を多他丘に祀り、太多神社と称えまつる。(国主神社?:豊岡市日高町太田1)
田道公の子孫は田道村にあり、田道公を斎き祀る。これ田道にある一宮神社はこれなり。(威徳神社:豊岡市日高町栃本301)
第34代
山部を司る山公峯男は、その祖
第36代孝徳天皇の大化3年(647年) 多遅麻国気多郡高田
ウマシマジ(宇麻志摩遅命)の六世孫・イカシコオ(伊香色男命)の末裔、
大売布命の末裔・楯石連大禰布を以って
景行天皇の皇子・稲瀬入彦命の四世孫・阿良都命の末裔、佐伯直・猪熊および波佐麻を
道臣命の末裔、大伴宿禰神矢および
伊多(井田・伊福、今の鶴岡)首の末裔・貴志麻侶、葦田首の末裔・千足、石作部の末裔・石井、日置部の末裔・多麻雄、楯縫部(今の鶴岡多田谷)の末裔・
およそ軍事においては、
弓一張、
革鼓2面 軍穀これを掌り、大角2口 校尉これを掌り、
小角4口 旅師これを掌り、努弓(いしゆみ)2張 隊正これを掌り、
兵庫は主帳これを掌る。
能登臣命の末裔、広麿を主帳に任じ、兵器の出納および調達を掌らせ、兵卒を招集し、非常を警備し、駅鈴(*12)を鳴らす。
駅鈴は鈴蔵に蔵し、国司がこれを掌り、
美含の郡司桑原臣多奇市の4世孫、吉井麿は鈴蔵の典鑰となる。
葦田氏は
矢作氏は弓矢を作り、
楯縫氏は革楯・木楯を作る。
矢羽は鳥取部氏が調達し、
矢作の
石矛・石鎚は石作氏が調達し、
すべての鋳物は伊多氏が調達する。
矢作氏はフツヌシ(経津主命)の末裔である。大毅の矢集連高負は、これを大和国に報告し、多田村に置く。
真弓氏は二方国造真弓射早彦の子である。壇を二方国真弓岡で徴収し、作る。壇岡は山公峯男の領める所である。(壇岡は今の美方郡香美町村岡区
竹貫氏はいわゆる武貫彦命の末裔である。篠竹を篠丘に徴収し、作る。
鳥取部はいわゆる美努連の末裔である。
栗栖氏はウマシマジの末裔である。
大化4年(648年)秋8月 矢作連は、その祖フツヌシを矢作丘に祀る。栗栖連はウマシマジを栗栖邑に祀る。矢作神社・栗栖神社これなり。(豊岡市日高町栗栖野)(村社三柱神社:豊岡市日高町栗栖野184、八重垣神社:豊岡市日高町神鍋字長者ヶ森851)
[註]
*1 神功皇后は、第14代仲哀天皇の大后。仲哀天皇崩御の後、摂政となられたので歴代天皇ではないが、『国司文書 但馬故事記』では人皇十五代としている。
*2 射楯(イダテ) 石立村 明治に今の国分寺と合併
*3 天明命 石作神社(岐阜県羽島郡岐南町三宅)に、「建眞利根命は、天照大神の御孫天火明命の6世の子孫である。石作氏一族は石作りを業とし、各地で活動する大氏族となり、祖先をお祀りする石作神社を創建した。式内社が尾張地方に4社もあることは石作氏一族の繁栄を示している。」とあるので、天火明命のようだ。
*4 秀罇 ホダリ 酒を入れる、銚子(ちょうし)・瓶子(へいし)の類
*5 御統玉(ミスマルノタマ) 御統は、多くの玉を糸に通して輪とし、首にかけたり腕に巻いたりして飾りとした古代の装身具。その玉は丸い石やガラスであったり、勾玉を用いた。
*6 髻(もとどり) 髪の毛を頭の上に束ねた所。たぶさ。
*7 御統五十連(ミスマルノイツラ) 人間の視(みる)・聴(きく)・嗅(かぐ)・味(あじ)・触(ふれる)の「五器官」は、霊界にも、幽界にも感知する超五官器官、
即ち時間空間のない無限世界を知ることの出来る魂を持っていると思われていたのだろうか。
*8 朝貢 朝貢とは、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。しかし倭国が神功皇后の頃、大和地方を中心に国家が統一され中央集権化されていたかははっきりしない。
*9 兵庫 櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。 木材などを高く積み上げた仮設や常設の建築物や構造物。
*10 大穀(だいき)・他
軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
軍団の規模によって
千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。
六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。
五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。
*11 征箭 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう。
*12 駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴である。646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。
*13 典鑰(てんやく)とは、律令制において中務省に属した品官(ほんかん)である。和訓は「かぎのつかさ」。
*14 健児 奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。)
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