01 但馬故事記序 現代語版

日本根子天高譲弥遠天皇(第53代淳和天皇)のとき、国司、解状を郡司に下して、その郡の旧記を進ぜさせる。

朝来あさこの小領(*1)  従八位下 和田山守部臣わだやまのもりべのおみ
養父やぶの大領(*1)  従八位上 荒島宿祢利実あらしまのすくねとしみ
出石いずしの大領   正八位上 小野朝臣吉麿おののあそんよしまろ
城崎きのさきの大領    〃   佐伯直弘麿さえきのあたえひろまろ
美含みくみの大領   正八位下 佐自努公近通さじのきみちかみち
七美しつみの大領   従八位上 兎束臣百足うづかのおみむかで
二方ふたかたの大領   正八位上 岸田臣公助きしだのおみきみすけ 等

互いに前後して、これを国衙に書き記して注進した。

その書は実に30余りの多さに至った。
したがって、多くの中から取り上げて正確と認められるもののみを選び編集した。

上は神代の時代から起こし、下は今の時代(天延三年・975)で終わる。
むかし、第17代履中天皇が、史官を諸国に遣わし、政事(まつりごと)の得失を記すように申された。

但馬は、その書が散逸するが、養父郡の兵庫やぐら(*2)にあった。その記録を取り寄せ閲覧した。
その中に但馬県記、国造記があった。記録の最後に大蔵宿祢おおくらのすくねと署名がある。思うに大蔵氏の蔵する書か。

多くの中から旧伝に関係あるものを要点を抜き出して記録した。そうはいっても、誤った言い伝えや違うことがその中に無いとも限らない。

第43代元明天皇のとき、「但馬風土記」を作り、国学寮(*3)が管理する。
その記が第57代陽成天皇のとき、火災に遭い焼失してしまった。何とも堪えられないほど遺憾だ。

本書(国史文書 但馬故事記)は、弘仁5年(814)春正月に書き始め(*4)、天延2年(974)冬12月に至る。
その間、年を経ること、158年、日を積むこと1,896日、稿を替えること79回の多さに及んだ。
(なんと約160年という全く気が遠くなるような長い年月。)

そしてこれに従事する者
国学のカミ(*3) 国博士 文部モンブ吉士キシ(*5)良道、
国学のスケ   菅野朝臣スガノノアソン(*6) 資道モトミチ
国学のジョウ   真神田首マカミダノオビト(*7) 尊良タカナガ
国学のサカン   陽候史ヤコノフビト(*8) 真佐伎マサキ

稿を続けてこれを編成する者
明法博士 得業生トクゴウショウ(*9) 但馬権博士ゴンノハクジ(*10) 讃岐朝臣 永直、
国学頭 国博士 膳臣カシワデ 法経ノリツネ、及び
国学頭 菅野朝臣 資倶モトトモ
国学助 真神田首 光尊ミツタカ
国学允 文部の吉士 経道ツネミチ
国学属 陽候史 真志珂マシカ 等

そしてそれは旧事記・古事記・日本書紀は帝都の旧史である。
この書は、但馬の旧史である。

したがって、帝都の旧史に欠けた箇所があれば、その都度この書をもって補うべく、但馬の旧史に漏れがあれば、その都度、帝都の正史をもって補う。

といっても、これらの書は、神武天皇以来推古天皇に至る記事である。年月は実に怪しい。しかしだからといって書かなければ、国の変遷をうかがえない。したがって、少しは古伝旧記に従い、補填し、少しも私意を加えない。

また、故意に削らず、編集するのみ。

もとより、大昔の記事は、帝都の正史といえども荒唐無稽な事がなきにしもあらず。私史家などはさらにそうである。

これからこの書を見る人は、その使えるところは使い、捨てるべきは捨てて、但馬の旧事を知られれば、言うまでもなく切に願う。この書もまた正史と同じく一覧の価値がある。編集に際し、前書きにて上述のとおり。

天延三年(975・平安時代後期)春正月

国司文書総目録

第 一巻 気多郡故事記
〃 二〃 朝来郡 〃
〃 三〃 養父郡 〃
〃 四〃 城崎郡 〃
〃 五〃 出石郡 〃
〃 六〃 美含郡 〃
〃 七〃 七美郡 〃
〃 八〃 二方郡 〃
〃 九〃 古事大観録上
〃 十〃  〃   中
〃十一〃  〃   下
〃十二〃 気多郡神社系譜伝
〃十三〃 朝来郡  〃
〃十四〃 養父郡  〃
〃十五〃 出石郡  〃
〃十六〃 城崎郡  〃
〃十七〃 美含郡  〃
〃十八〃 七美郡  〃
〃十九〃 二方郡  〃

以上


[註]
律令からの難解な人名漢字にある役職なども、その決まり事を知れば、さらに深まる。
*1 郡司 国司の下で郡を治めた地方官。大領・少領・主政・主帳の四等官からなり、主に国造(くにのみやつこ)などの地方豪族が世襲的に任ぜられた。また、特に長官の大領をいう。
*2 兵庫(やぐら) 軍団は7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織。国司のもとに最初は但馬の場合、北部の気多軍団・南部の朝来軍団の2つが置かれ、その後郡ごとに置かれるようになる。兵庫はその武器庫かつ軍団の集まる建物
*3 国学寮 寮(つかさ・りょう)は古代日本の令制時代では役所の種類 官人育成のために都に大学寮、各律令国の国府に1校の国学寮の併設が義務付けられた。但馬国の国学寮は、気多郡馬方原(今の豊岡市日高町三方地区、広井周辺)ではないかと思われる。
四等官・四等官制 カミ(長官)、スケ(次官)、ジョウ(判官)、サカン(主典)
*4 本書は、弘仁5年(814年)春正月に書き始め 第53代淳和天皇の在位は、弘仁14年4月27日(823年6月9日)から天長10年2月28日(833年3月22日))まで。淳和天皇の在位に国司の解状を郡司に下して、その郡の旧記を進ぜさせたとあり、そこに国府の気多郡が含まれていないので、気多郡については、淳和天皇在位以前の弘仁5年(814年)春正月から書き始めていたようだ。
*5 吉士(きし) 古代の姓(かばね)の一。朝鮮半島より渡来した官吏に与えられた。
*6 朝臣(あそん) 天武天皇が定めた八色の姓の制度で新たに作られた姓(かばね)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。
*7 首(おびと) 八色の姓にはないが、一つは地名を氏とする県主、稲置など領首的性格をもつもの。一つは職名,部曲名を氏とする長、首領
*8 陽候史(やこのふびと) 名の通り暦や気象をする官職だと思われる
*9 得業生(とくごうしょう) 学生から成績優秀のものを選んで与えた身分 今で言えば特待生
*10 権博士(ごんのはくじ) 博士を補佐する


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