「ただいま、無南垣城主・塩冶左衛門尉殿が申し上げたことは、誠でございます。みな大殿の家来として忠誠を励んでおりますのに、訓谷林甫城主・長越前守信行だけが、何やらよからぬたくらみをいたしております。私どもの手の者を使わしまして探らせましたところ、塩冶殿の申されたとおりでございます。」
と。誠しやかに申したので、祐豊公は、まさかと思ったものの、重臣である太田垣や田結庄までがよもや嘘をつくまいと思い、
「その方までもが申すのなら、間違いあるまいが、越前守にも、言い分があるやも知しれん。まず越前守を呼べ、もし呼んでも来ないようなら、その時は、その方たちが申したように、野心ありと見て、軍兵を使わして討ち取れ。」
と申したのです。
そんなこととは少しも知らない訓谷のお殿さんは、今ごろ急のお呼び出しとは何事だろうと思いながらも、何の備えもせずに出石へと急ぎました。そして、出石城を目の前にした鳥居村まで来たところ、塩冶の軍勢が出迎えだといって現れたので、訓谷のお殿さんが礼を言おうとしたところ、
「越前守殿、上意討ちでござる。覚悟めされ!」
といって、多数の軍勢が斬りかかり、越前守は刀を抜く暇もなく斬り殺されたのです。このとき、お殿さんのそばについていた家臣の宿院雅楽之介(しゅくいんうたのすけ)は、なんとかしてお殿さんを助けようと思い、刀をふりまわし奮戦したのですが、多勢に無勢ではどうすることもできず、力つきて討ち死にしたのです。
ところで、越前守には二人の男の子がいました。兄は亀若(七才)、弟は亀石で五才になっていましたが、不意打ちで越前守を殺した塩冶勢は、その足で林甫城へ攻め寄せ城を奪い取り、二人の若君までも殺してしまったのです。
ところがこの時、越前守の奥方は身ごもっておられたのですが、家臣の滝本三郎兵衛という者が奥方を連れだし力戦し、敵兵四、五人をたたき斬って囲みを破り、奥方を無事因幡の国へ送ったのです。塩冶の手から無事逃げ延びた奥方は、追っ手の心配のない因幡で、やがて元気な男の子を産みました。塩冶の不意打ちによって、一度に二人の若君を亡くされていた奥方は、ようやく喜びを取り戻しこの若君を弥次郎と名づけました。
弥次郎様は、塩冶に見つけられないようにということで、出雲の国(島根県)まで逃げのび、そこで成長したのですが、十三才の時ひそかに但馬に帰って、宵田城(豊岡市日高町)の垣屋筑後守に会い、父の長越前守信行が、塩冶の陰謀によって非業の最期をとげた一部始終を涙ながらに話しました。筑後守は、あまりにもむごい塩冶のやり口にびっくりされ、さっそく弥次郎様を連れて出石城へ行き、祐豊公に事の次第を弥次郎様が話されたとおり申し上げたのです。 ところで、この時すでに塩冶左衛門尉は死んでしまっており、豊岡市奈佐にあった宮井城の城主である篠部伊賀守の弟が左衛門の養子となり、塩冶周防守と名乗って林甫城の城主になっていたのです。やがて、元服を済まされ、今はもうすっかり立派な若武者になられた弥次郎様は、左衛門尉はもうこの世にはいないものの、周防守が父のかたきの養子として林甫城城主であり、なんとかして周防守を討って父の恨みを晴らすとともに、長氏代々の城である林甫城を取り返したいと考えていました。そして、このことを竹野町の轟の城主・垣屋駿河守に話し助けを頼んでみました。
駿河守は塩冶とは領地問題などで、常日頃から腹の立つことが積み重なっていたので、「弥次郎殿のいわれることは、いちいちごもっともでござる。それがしも塩冶の汚いやり方には、腹が煮えくり返る思いでござる。弥次郎殿にお味方いたそう。」と、これ幸いと弥次郎様の味方になってくれたのです。
こうして塩冶を討つ機会をうかがっていたところ、永禄十一年(1568)七月十三日、塩冶周防守がお盆法要を無南垣の長谷寺(ちょうこくじ)で営み、それに参詣するために城を留守にするという知らせが届きました。そこで、弥次郎様はすぐに垣屋のお殿さんにお願いして、富森一本之助という家臣とその軍兵を借りて林甫城へ攻め込みました。
塩冶周防守は、長谷寺で法要の真っ最中でしたが、弥次郎様の急襲を聞くと、わずかの家臣を連れて奈佐谷に逃げ、兄篠部伊賀守に援軍を頼みました。伊賀守は、これは一大事と大軍を率いて林甫城を取り囲みました。しかし、城中に攻め入ろうとすると、城から矢を射かけられ、容易に近づくことができず、伊賀守は、
「弥次郎ごとき小童(こわっぱ)に、何をぐずぐずしているのだ。いっきに攻め落としてしまえ!」
と、鬼のような顔をして兵どもを叱りつけたので、西村丹後守が、
「敵は死にものぐるいで城を守ろうとしていますので、今攻めても味方の軍兵を数多く失うばかりでございます。幸いそれがしは、城のようすについてはよく存じておりますので、それがしの手勢を引き連れて、搦め手から城中に攻め入り、弥次郎殿の首(しるし)を討ってまいりましょうほどに、なにとぞ、それがしにお任せくだされ。」
といったところ、
「ええい!だれでもよい、早よう弥次郎を討ち取れ!」
との伊賀守の下知なので、西村丹後守はさっそく城に攻め入りました。
ところで、西村丹後守は、かねてから伊賀守や今は亡き塩冶左衛門のあくどいやり方にいや気がさし、弥次郎殿に万一の時はお味方すると約束していましたので、やすやすと城内に入り、弥次郎殿に、
「せっかく取り返されたお城ですが、相手は何分にも大軍でございます。このまま戦われましては、味方の全滅は火を見るより明らかでございます。この場はなにとぞ、それがしのいうようにしてくだされ。」
といって、赤絹に物を包み、伊賀守の軍勢に向かって、
「弥次郎が首は、今この西村丹後守が討ち取ったぞ!」
と、赤絹の包みを、高々と差し上げて見せたので、周防守は喜びいさんで城に入ってきました。この時、丹後守と示し合わせて草むらに隠れていた弥次郎殿がおどり出て、
「周防守見参!われこそは、先の長越前守信行の忘れ形見、弥次郎なるぞ。今こそ父のご無念をお晴らし申さん。覚悟めされ!」
と名乗りをあげ、周防守に斬りかかって行きました。弥次郎殿を討ち取ったとばかり信じて、城に入ってきた周防守ですから、刀を抜く間もなく弥次郎殿に討ち取られてしまいました。
「伊賀守、よーく聞け、その方が弟周防守は、このとおり長弥次郎が討ち取ったぞ!」
と大音声で、伊賀守の軍勢めがけて、弥次郎殿が叫んだので、伊賀守の軍勢は、急に浮き足立って戦意を失い、ワァーとばかりに城からおどり出た垣屋の軍勢に蹴散らされ、命からがら宮井の城へと逃げ帰ったのでした。
激しい攻防戦の末、父の仇を討って、林甫城を取り返した弥次郎殿は、父と同じように越前守を名乗り林甫城の城主となりました。
一方篠部伊賀守は、なんとしても弥次郎殿を滅ぼさんものと考え、田結庄の殿さんに援軍を求めたのですが、田結庄は、垣屋駿河守が弥次郎殿の味方をしているのを知って、伊賀守の頼みを断ったため、再び林甫城を攻めることができなかったとのことです。
天正八年(1580)、秀吉が但馬に攻め入ったとき、山名の家臣は、水生城(豊岡市日高町)に集まって軍議を開いたのですが、篠部伊賀守の寝返りによって計略が秀吉方にもれ、山名の家臣の城は次々に攻め落とされ、弥次郎殿もこの戦いで討ち死にされたということです。
長(ちょう)弥次郎 但馬山名氏家臣。長信行の男。官途は越前守。但馬美方郡林甫城主(美方郡香美町香住区訓谷)。
出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
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