【但馬の城ものがたり】 八木氏族 宿南(しゅくなみ)氏と宿南城(養父市八鹿町宿南)

宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、八木新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄(養父市八鹿町宿南)に宿南三郎左衛門能直(初代?)の長男重直を宿南庄に置いていましたが、康永年間頃(1342-45)、宿南太郎佐衛門信直によって築城し、地頭館を山に移したといわれ、田中神社附近に居館址が残る。宿南城に拠って中世の但馬を生きた。

宿南氏は朝倉氏、八木氏、太田垣氏らと同じく、古代豪族日下部氏の一族です。日下部氏は孝徳天皇の皇子表米親王を祖として朝倉・宿南氏をはじめ八木、太田垣、奈佐、三方、田公の諸氏が分出、一族は但馬地方に繁衍しました。

嫡流は朝倉氏でしたが、承久の乱(1221)において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。すなわち、信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐(おざ)次郎太郎、土田(はんだ)三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄に館を構えたといいます。いまも宿南野の一角に「土居の内」と呼ばれる字があり、周辺にはかつて地頭館があったことをうかがわせる地名が残っています。

宿南氏は八木一族のなかにあって、ただひとり関東御家人でした。

宿南氏の軌跡

重直の孫知直の代に元弘の変(1321)に遭遇、知直は小佐郷の伊達氏とともに千種忠顕に属して転戦したことが知られます。やがて、鎌倉幕府が滅び建武の新政が成りましたが、足利尊氏の謀叛によって南北朝の動乱時代となりました。知直は宮方に属して、建武二年(1335)新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に加わって東下しました。そして、箱根山における足利勢との戦いで、あえなく討死しました。

その後、南北朝の内乱は半世紀にわたって続き、但馬でも両軍の戦いが展開されました。宿南氏は南朝方として行動し、北朝方の討伐戦によって北朝方の手に落ちた宿南庄は、矢野右京亮が地頭に任じられました。所領を失った宿南氏は知直に代わって父の信直が一族を指揮し、やがて北朝方に転じて活躍、失った宿南庄の地頭職を回復しました。

尊氏と弟直義が争った観応の擾乱に際しては尊氏方として行動、観応の擾乱が終熄したあとは、但馬守護となった山名時氏に従ったようです。時氏ははじめ尊氏方でっしたが、その後、直義の子直冬に味方して南朝方に転じました。宿南氏もこれに従ったため、延文元年(1356)、尊氏方の伊達氏の攻撃を受けました。ときの宿南氏の当主は、知直の子実直であったようで、よく伊達勢の攻撃を防戦しています。

その後の南北朝の動乱のなかで、宿南氏がどのように行動したかは、必ずしも明確ではありません。宿南氏系図を見ると、氏実─朝栄─忠実と続き、宿南城に拠ってよく時代を生き抜いたようです。宿南氏の名がふたたび記録にあらわれるのは、応仁の乱において、山名宗全の催促に応じて上洛した山名家臣団のなかにみえる宿南左京です。左京は忠実の嫡男左京亮続弘と思われ、続弘は八木氏から入って宿南氏を継いだ人物とされています。忠実には実子持実がいましたが、一族で山名氏の重臣である八木氏から養子を迎えることで宿南氏の安泰を図ったものでしょう。

ちなみに、宿南氏は八木氏とは代々密接な関係をもっていたことが「八木氏系図」からも伺われます。八木氏の系図のなかに宿南氏の系図が併記されており、しかも、兄弟の少ない八木氏とは対照的に、それぞれの代ごとの兄弟も書き込まれているのです。おそらく、一族の少ない八木氏を支えるかたちで宿南氏が存在し、それゆえに八木氏の系図に同族的扱いとして記されたものと思われます。

但馬征伐と宿南城

天正五年(1577)秋、羽柴秀吉は竹田城をおとしいれた時、秀吉は播州一揆の起こったことを聞きました。直ちに弟の秀長に養父・出石・気多・美含・城崎の郡を、藤堂孝虎に朝来・七美・二方の郡を攻略するように命じ、自分は播州へ引き上げました。このあと、秀長は勢いに乗って養父郡の多くの城を落とし、出石城をめざして進んでいきました。先陣はもう養父郡小田村に着いていました。

これより先、代々山名氏に仕えてきた但馬の小城主たちは気多郡水生城で会議を開き、「山名氏は衰えたといっても、二百年余りの間、但馬の太守であったではないか、たとえ羽柴勢が大軍をもって攻めてこようとも、なんで手をむなしゅうして国を渡してなるものか。おのおの今こそ一命を投げ打って恩に報いようぞ。」と約束しあい、 合戦のときを今か今かと待ち受けていました。そして、防衛戦のひとつを伊佐野の西、すなわち現在の養父市八鹿町下小田の野に布陣する作戦計画を立てていました。

このころの宿南城主は、宿南修理太夫輝俊でした。羽柴勢が小田に着いたという知らせを聞き、ただちに出陣しようとしましたが、にわかに病気となり、やむを得ず嫡子重郎左衛門輝直と、その弟主馬助直政に出陣させました。これに加わったほかの城主は、上郷城主 赤木丹後守、朝倉城主 朝倉大炊(おおい)、国分寺城主 大坪又四郎、三方城主三方左馬之助らで、総勢五百騎余り、川向こうの伊佐河原には、浅間城主佐々木近江守、坂本城主 橋本兵庫、同権之助ら二百騎余りが陣をとりました。

戦いの機は熟し、羽柴勢二千騎は、ときの声を上げて下小田側の陣へ打ちかかってきました。この防衛戦を突破されたら宿南城が危ない。必死の防戦が始まりました。これを助けるため伊佐河原の味方から鉄砲が火を噴き、弓矢が飛んで羽柴勢へ降り注ぎました。しかし、羽柴勢は大軍です。射たれても、射たれても、ものともせず、新手を繰り出して攻め立ててきます。防衛戦の一角がくずれました。輝直兄弟とその家臣、大嶋勘解由、池田、池口、片山など血気の勇士二十四人は馬の頭をたてなおし、太刀を振りかざして、攻め手の中へ斬り込んでいきました。朝倉・大坪・赤木・三方ら二百人余りもこれに続き、血煙上げて攻め込んでいったので、戦いはまったくの白兵戦となりました。

いっとき、小田野はすさまじい阿修羅の巷となりました。しばらくたって気がついたとき、但馬勢の敗北は決定的でした。赤木丹後守、大坪又四郎はじめ大半が討ち死、川向こうの味方も、二隊に分かれた羽柴勢一隊に襲われ間もなく退却、佐々木近江守、橋本兵庫らは城に籠もり、城門を閉ざしてしまいました。

もはやこれまで、と、輝直兄弟、朝倉大炊らは生き残った五十騎ばかりを集め「浅倉ほうき」へ引き上げました。この岩山の円山川に面したところは、切り立った絶壁になっており、そのすそを川が流れ、その間の狭い土地を削って道がこしらえてありました。羽柴勢は必ずこの道を通るだろう。輝直らはそのとき躍り出て敵を挟み撃ちにし、河へ追い落とそうと図ったのです。

一方、宿南城で戦いの首尾を心配していた輝俊は、敗北の知らせを聞き、歯ぎしりをして悔しがりました。そして病気ではあったが鎧をつけ、わずかに残っていた城兵をして城を守ろうとしました。しかし、体は思うにまかせず、敵兵はすぐ近くにまで来て、ときの声を上げていました。とてもかなわぬと観念し、輝俊は館に火をかけ、城の麓の光明寺へ駆け込みました。そして片山五郎右衛門の父の兵右衛門を呼び、「戦場へ向かったふたりの兄は、おそらく討死したことであろう。おまえはこの幼いふたりの子どもを連れてどこへなりと身を隠し、無事に育ててくれ。」と頼みました。このとき兄の豊若は十二才、弟の国若は八才でありました。三人は山伝いに奥三谷に逃れました。

このあと、輝俊は本堂の本尊の前に座り、仏名をとなえ、腹かき切って自害しました。彼に従って果てた男女は二十名余りでした。輝俊自害の知らせはすぐに輝直に伝えられました。「それっ!敵兵はこちらに来るぞ。」一同は色めき立って待ちかまえました。ところが案に相違して羽柴勢はこちらへ来ず、浅間城を尻目に出石へ攻め込んでいきました。

はかりごとは成功せず、敗戦の責めを負って父が自害し、城もなくなった今となっては、輝直兄弟も生きる望みを失い、傍らの林に入り、切腹して果てました。残りの兵は水生城へこもる味方へ合流しました。

ここに宿南城は寺社ともども絶えてしまったのです。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家列伝

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