丹後半島の北端に京丹後市丹後町に間人(たいざ)という「間人カニ」でも知られる漁村があります。
穴穂部間人皇后は、欽明天皇の皇女で、第31代用明天皇の皇后となり、574(敏達3)年、聖徳太子(厩戸皇子)[*1]を生みます。
587年、穴穂部間人皇后は、都での蘇我・物部両氏の権力争いを逃れ、自分の領地である丹後の大浜に何年か滞在しました。[*2]
都へ帰るときに、世話になった里人への感謝の意を込めて大浜に自分の名を贈り、「間人村」という名称を与えました。
しかし、里人は「皇后の御名をそのままお呼びするのは恐れ多い」と考え、文字だけをいただいて、皇后の御対座にちなんで「たいざ」と呼ぶようになったのです。(退座した事という説も)
ちなみに、奈良平城京跡から「丹後国竹野郡間人郷土師部乙山中男作物海草六斤」と墨書された神護景雲四年(769)の木簡が発見されています。
立岩をのぞむ海岸に、「間人皇后・聖徳太子母子像」が建てられています。