■海部(アマベ)
丹後にはかつて、航海術に秀でた「海人族」と呼ばれる一族が住んでいたと言われています。彼らは凡海郷海没後、丹後半島へ移住を余儀なくされた。古代この地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(アメノホアカリ)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(アマベ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。
この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに脚光をあびてきました。
丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。
■幻の大地「凡海郷(オオシアマ)」
「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)
この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、かつて丹後國伽佐郡(現在の京都府舞鶴市及び加佐郡大江町あたり)にあったとされる郷名です。「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。
■海人の聖地・冠島
丹後風土記によると、若狭湾上の冠島は、大地震(大宝元年=七〇一年)で陥没した幻の大地「凡海郷」の山の頂であり、海部直と凡海連によって天火明命と目子郎女神をまつると伝えています。
天皇家より古いとされる国宝「海部氏系図」(籠神社、宮津市)には、海部氏の始祖として天火明命が記されています。
島内にある老人嶋神社の祭神はこの天火明命と目子郎女神であり、今も「雄島(老人嶋)まいり」として受け継がれ、市内の野原・小橋・三浜地区をはじめ、広く若狭や丹後地域から海上安全や大漁などを祈願する参拝が行われています。
海部と呼ばれた海人たちの聖地・冠島と彼らのクニ・凡海郷は、現在の舞鶴と深く関わっているといえるでしょう。
■古代製塩と海部
昭和51年、大浦半島の三浜ではじめて、古代の土器製塩が、少なくとも奈良時代には存在し、しかもかなり大規模なものだったらしいことが判明しました。このことで、奈良時代には、海岸に、現在に近い砂浜が成立し、一緒に出土した土器には、弥生時代にまでさかのぼるものもあって、凡海郷の存在は、一時遠のいていきました。
ところが、つづいて、瀬崎の白石浜、黒石浜、大丹生、千歳とつぎつぎに古代製塩の遺跡が発見され、昭和58年には、神崎も加わりました。全国の海部研究の成果から、海部と製塩はつよく結びついていることがわかり、凡海郷は舞鶴海岸地帯を製塩と海部でつなぐ郷名である可能性もでてきました。
その後、古代、海が奥深く入りこんでいたと見られる行永(ゆきなが)からも製塩土器がみつかり、行永は、海部の祖神の一つである「天御影命(あめのみかげのみこと)」をまつる「弥加宜(みかげ)神社」の旧地を発祥と伝えることから、近江のミカゲの故郷「息長(おきなが)族」とのつながりが、浮かんできました。
「息長」と「行永」のかかわりが、新羅からの渡来集団とする息長族と新羅の王子、「天日槍(あめのひぼこ)の伝説にある、浪速から、近江へ入り、若狭へぬけ、丹後から、但馬にいたる古代の開拓民伝説の道筋として、丹後海部の息長とのかかわりを示し、さらに尾張海部との関係もにおいます。
■海部系図は、何をかたるのか
宮津籠(この)神社の国宝『海部系図』のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(、あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名「オオミカゲシラクワケ」といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。
■海岸古墳と海部
舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。
現在でも久美浜町海部(かいべ)地区には「海士(あま)」という地名が残っています。小見塚古墳(こみづかこふん、兵庫県豊岡市城崎町今津) は、但馬海直(あまのあたえ)一族のものと考えられている。北但馬には5,000基以上の古墳があるが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在北但馬で一番古い埴輪が出土している。
今津の円山川対岸に田井と同音の田結(タイ)があり古い漁村である。一帯は田結郡(荘)と呼ばれ中世、山名四天王田結庄氏の領地であった。また韓国(カラクニ)物部神社、飯谷(ハンダニ)、畑上(ハタガミ)など大陸・半島系の地名や神社が多い。
■海と関わる集団の根拠地
遺跡が集中する三浜・小橋、 浦入
三浜・小橋地区は、アンジャ島や磯葛島、沖合いの冠島などの島々とともに、海に関わる伝承や遺跡が集中しています。三浜丸山古墳をはじめ、三浜遺跡(古墳後期~平安時代の製塩遺跡など)、アンジャ島遺跡(丸木舟の製作に使ったと見られる石斧二本など)、小橋古墳(六世紀前半)などがあります。
わが国最古・最大級の丸木舟が出土した浦入遺跡群(千歳)からは、古墳時代後期の鍛冶炉をはじめ、奈良~平安時代の製塩・鍛冶遺構、銅銭(奈良時代)、墨書土器(「政」「与社(謝)と記載」)、さらには「笠氏」刻印の製塩土器などが出土。製鉄・製塩などの最先端の技術を持った集団が存在したことが明らかとなりました。
これらの遺跡は、海沿いの耕地が少ない地域に在ることから、海と関わりのある経済基盤を持った集団で、凡海郷や海部に関連する遺跡であることが推定されます。
■文献に見る凡海・加佐と大海人皇子(天武天皇)
大海人皇子(後の天武天皇)は、尾張(現・愛知県西部)の海部の加勢を受けて「壬申の乱(六七二年)」に勝利し皇位 についたとされています。「日本書紀」(七二〇年)には、「丹波国訶佐郡」(※3)が天武天皇の新嘗祭の主基(すき=神饌としての米)の国に選ばれたと記されています。また、老人嶋神社の祭神・目子郎女は、尾張海人の娘であることから、凡海郷が天武天皇と密接な関係にあったことが想像されます。
■各地の凡海郷
凡海郷の地名は、十世紀の百科辞典『和名類聚抄』に登場します。丹後の熊野郡海部郷と加佐郡凡海郷、隠岐(島根県)の海部郡海部郷(隠岐郡海士町(あまちょう))、越前(福井県東部)の坂井郡海部郷の四か所に、海部の伝承を持った海人の郷があるとしています。
■各地のアマベ
そして、「九州-丹後半島の久美浜-尾張」この三点を結ぶ者として海部氏がおり、彼らは久美浜を本貫地としていたといいます。海部は海人部とも書く。漁業をもって仕えた部民で、船上で漁を行う者、磯で漁を行う者、潜水して漁を行う者に分けられます。海士は男性、海女は女性と区別して記されることがあるが、いずれも「あま」と呼ばれます。海人の最古の記録は『魏志倭人伝』にあり、海中へと潜り好んで魚や鮑を捕るとあります。
他にも輪島市海士町、徳島県海部郡などがある。
引用:舞鶴市HP他
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。