【たじま昔ばなし】 国造りにまつわるお話

兵庫県立歴史博物館「ひょうご伝説紀行 - 語り継がれる村・人・習俗 ‐」によれば、”アメノヒボコは但馬国を得た後、豊岡(とよおか)周辺を中心とした円山川(まるやまがわ)流域を開拓したらしい。そして亡くなった後は、出石神社(いずしじんじゃ)の祭神として祭られることになった。

但馬一宮の出石神社は、出石町宮内にある。この場所は出石町の中心部よりも少し北にあたり、此隅山(このすみやま)からのびる尾根が出石川の右岸に至り、左岸にも山が迫って、懐のような地形になっている。神社はその奥の一段高い場所に建っている。

このあたりから下流は、たいへん洪水が多い場所である。2004年におきた豊岡市の大水害は記憶に新しいところだが、出石神社のあたりを発掘してみると、低湿地にたまる粘土や腐植物層と、洪水でたまった砂の層が厚く積み重なっている所が多い。

そんな場所であるから、古代、この地を開拓した人々は、非常な苦労を強いられたことだろう。『出石神社由来記』には、アメノヒボコが「瀬戸の岩戸」を切り開いて、湖だった豊岡周辺を耕地にしたと記されているという。そのアメノヒボコは、神となって今も自分が開拓した平野をにらんでいるのだ。

去年の伝説紀行に登場したアメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのだろう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思える。

この出石神社から1kmほど北へ行った所に、出石古代体験館がある。出石町内で発掘されたさまざまな資料が展示され、体験もできるから、古代史に関心がある人は訪ねてみるとよいだろう。”

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました

”二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点である。実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのだ。  今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代だった。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。
但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしている。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、そんなものがない古代のことは想像に難くない。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いている。
豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっている。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚だが、現在の海岸線からは十数km離れている。長谷貝塚はさらに内陸寄りにある、縄文時代後期の貝塚である。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っている。
縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないだろうか。
円山川をさかのぼって北から南へ。それぞれの神社(北から順に、絹巻神社、小田井縣神社、出石神社、養父神社、粟鹿神社)を訪ねて、五社明神のお話を考えてみた。途中、鼻かけ地蔵さんと、伝説に登場する来日岳(くるひだけ)に立ち寄ったのはもちろんである。”
兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

このことは、但馬五社である古社、粟鹿神社、養父神社、小田井神社にも但馬の国を切り開いた伝承が残っていることから、気が付いていた。
【たじま昔ばなし】 五社明神の国造り(豊岡市小田井)
http://koujiyama.at.webry.info/201002/article_56.html
【たじま昔ばなし】 粟鹿山 「大山」の地名伝説(朝来市山東町粟鹿)
http://koujiyama.at.webry.info/201002/article_59.html
どちらにも共通しているのはそのころ広い湖であったということだ。豊岡盆地が円山川支流出石川まで奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことは実際に地層やハカザ遺跡から船団が描かれた木が見つかっておりうなづける。しかし山東町あたりはどうだったのだろうか。遠阪峠そばで標高差を考えても、粟鹿山から流れている粟鹿川が神社のそばでは少し川幅が広くなっており勾配がないようだ。湖とはいわないが大雨で氾濫していたのかも知れない。
また、
『播磨風土記』には、天日槍(アメノヒボコ)命と伊和大神(葦原志許乎命(あしはらのしこおのみこと)=大巳貴命(おおなむち))が、黒土の志爾嵩(藤無山)に至りおのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。 アメノヒボコ命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。 葦原志許乎命の投げた黒葛は、一条が但馬の気多の郡(豊岡市日高町)に、一条は夜夫(養父)の郡に、 そして、最後の一条が御方に落ちたため、 三条(みかた:御方・御形)という地名となった。
アメノヒボコ命の投げた黒葛が出石に落ち、ヒボコ命を祭神とする出石神社があり、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社、御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座する。 養父郡にも、国土開発統治の神様大己貴命(葦原志許乎命)を祀る養父神社が存在するということは、古くからこの地に有力な地方豪族がおり、四道将軍の少彦名命、谿羽道主命が平定後に、
養父神社の祭神に五座(二座 小三座)
倉稲魂命--------米麦養蚕牛馬の神様
少彦名命--------薬草、治病の神様
大巳貴命(大国主命)--国土開発統治の神様
谿羽道主命(四道将軍のひとり丹波道主命)国民生活安定の神様
船帆足尼命-------地方政治の神様
を配祀したのではないかと思われることから伺えます。
大己貴神(別名、大国主神、国作大己貴命、葦原志許男命など)を祀る但馬の神社
養父神社
小田井神社
但馬総社 気多神社
伊福部(イフクベ)神社
神門神社(かむとじんじゃ)
伊福部(イフクベ)神社
石部(いそべ)神社
安牟加(アムカ)神社
式内社 重浪神社(しきなみ)神社
式内社 韓國(からくに)神社
西刀(せと)神社
式内社 與佐伎(よさき)神社
また、粟鹿神社は
彦火々出見命(ホオリ、山幸彦、ニニギとコノハナノサクヤビメとの間の子。ウガヤフキアエズの父、神武天皇の祖父)あるいは 日子坐王(谿羽道主命の子・日下部氏の祖)

「洪水説話」と天沼矛(アメノニボコ)
天沼矛(あめのぬぼこ・あまのぬぼこ)は日本神話に登場する矛である。『古事記』では天沼矛、『日本書紀』では天之瓊矛(本文)・天瓊戈(一書第一・第二・第三)と表記される。
『古事記』によれば、伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は、別天つ神たちに漂っていた大地を完成させることを命じられ、天沼矛を与えられた。伊邪那岐・伊邪那美は、天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛で、渾沌とした大地をかき混ぜたところ、矛から滴り落ちたものが、積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。伊邪那岐・伊邪那美は淤能碁呂島で結婚し、大八島と神々を生んだ(国産み、神産み)。
国産み(くにうみ)とは日本の国土創世譚を伝える神話である。
イザナギとイザナミが天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。また、『古事記』などではそののち2神で島を産んだというものである。この島産みは、中国南部、沖縄から東南アジアに広く分布する「洪水説話」に似た点が多いといわれる。
なお、国生みの話の後には神生み(かみうみ)が続く。
「洪水説話」とは、文明を破壊するために、天誅として神々によって起こされた大洪水(洪水神話、洪水伝説)は、世界の諸神話に共通して見られるテーマである。聖書(旧約聖書)『創世記』のノアやノアの方舟、インド神話、ヒンドゥー教のプラーナのマツヤ、ギリシャ神話のデウカリオン、および『ギルガメシュ叙事詩』のウトナピシュティムの物語は、よく知られた神話である。過去現在の世界の文化のうち大部分が、古い文明を壊滅させる「大洪水」物語を有している。
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