歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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概 要 大航海時代が到来。植民地時代が始まると、東アジアネットワークの中心に位置したのが、香港、上海、横浜の三つの開港場でした。なかでも覇権を競った英仏の情報収集が活発になります。
日本に派遣された外交官たちが情報収集に力を入れたのは任務として当然のことでした。外交団の中心的存在である英仏の情報収集の方法には違いがありました。
1.英国の情報収集
1860年初頭、英国外務省では、中国派遣の通訳生に北京で中国語の学習に専念させる制度が確立していました。しかし、日本へ派遣する通訳生の訓練については整備が遅れました。1861(文久元)年に通訳生に任命されたアーネスト・サトウは、上海に到着すると、初代駐日英国大使ラザフォード・オールコックから、北京に留まり漢字や漢文を習得すれば、日本語の書簡や書物を読みこなせると考えたからですが、当時、幕府との外交交渉は、英語からオランダ語へ、オランダ語から日本語へという手間のかかる方法をとらざるを得ませんでした。しかし、この方法では、交渉等に延滞や誤解が生じることが多く、攘夷事件の勃発等により外交交渉が頻繁に行われると、オランダ語を介さず直接英語に翻訳できる日本語通訳官の必要が痛感されるようになりました。 一方、フランスでは通訳生制度が確立しておらず、ド・ベルクール公使の公認として1864(元治元)年三月に来日したレオン・ロッシュ公使は、有能な領事や通訳不在のため、情報収集で英国に後れを取ることが多かったのです。そのためか、ロッシュの本国政府への報告は、英国に比べて情報量がきわめて少なく、内容的にも貧弱なものが多かったのです。ロッシュの対日政策は、幕府が条約を履行する限り幕府の立場を支持し擁護するもので、仏国からの武器輸入、横須賀海軍工廠の建設、軍事顧問団の招聘等を支援しましたが、幕府以外の諸藩、とりわけ西南雄藩に対する視点が欠落し、単眼的な理解しかできない状況を生むことになりました。英国の情報収集を主に担ったのは、サトウとオランダ人アレグザンダー・シーボルトです。シーボルトは1859(安政六)年、父フィリップに連れられて13歳で来日、日本語の会話に優れていたこともあずかって、英国領事館に雇われました。一方サトウは、来日直後から日本人教師の指導を受け、草書体の読解などシーボルトより読み書きの能力が優れていたこともあって、65年4月には通訳生から通訳官に昇進し、その後68年1月には通訳畑の最高責任者である日本語書記官に就任しました。
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2.アーネスト・サトウ
こうした日本学者のなかで、最大の成果を残したのがアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)です。サトウは来日して二年目の1864(元治元)年、「日本という国、日本語、そして日本人に対する愛着」を断ち切れぬため「すぐれた日本学者」になることを決意し、日本語を習得、情報収集担当の外交官の任務を超えて、各分野の研究で先駆的役割を果たしました。日本アジア協会に論文を発表したり、英国の雑誌に寄稿しています。1865年、片仮名や平仮名まじりの楷書、行書、草書等解説した「日本語のさまざまな書体」、73年には「会話編」を、76年には65年から編纂を進めていた初めての『英和口語辞典』を出版しました。
サトウはその苦労を次のように回顧しています。
日本語は、習得するのが困難であるという点で、中国語の次ぎに位置するものであり、日本語を学ぼうとする者にとっては、学習のさいに助けとなる文法書も辞書もないという、非常に著しい不便さを伴うので、日本語の学習者はまったく自分自身の独力にゆだねられるのである……ヨーロッパ人に知られていなかったこの言葉を学ぶために、絶え間ない努力を続けてきた。
1862年に開市開港交渉に派遣された遣欧使節団の随行員、市川渡の見聞録『尾蠅欧行漫録』を全訳し、65年に雑誌や新聞に発表。そのほか『絵本太閤記』『日本外史』『開国史談』『近世史略』等数多くの歴史書が、71年から73年にかけて彼により英訳されました。シャム(タイ)総領事時代の85年には、山田長政についての論考「十七世紀の日本・シャム交渉史に関する覚書」を発表、1900年には、秀吉・家康に会見し日英貿易の道を開いた東インド会社の商人兼船長の『ジョン・サリス船長の日本旅行記』を編集出版しています。
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3.サトウとパークスの情報収集合戦
1864年、四国連合艦隊による下関遠征に通訳として随行したサトウは、英国留学から急遽帰国した伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)らと親しく交流し、その後日本語を解して知己を広げ、情報収集活動に語学力を役立てていきました。65年サトウが伊藤に宛てた日本文の書簡(日本人教師が協力)には、第二次長州戦争に対する幕府側の動静や英国側の態度、武器の密貿易に対する英国の立場など貴重な情報を伝え、サトウと長州の間に情報の回路が成立していたことがわかります。1865年7月、第二次公使ハリー・パークスが横浜に到着するや、英国の情報収集活動はさらに活発になりました。第二次長州戦争の最中、将軍家茂が病死するや、パークスは事実確認のためシーボルトを江戸に派遣し、大名の家臣や幕府の下級役人から後継者に関する情報を収集させました。またオランダ総領事ポルスブルックからも、オランダ人外科医が大坂城に呼ばれ江戸に派遣された情報を入手し、ロッシュからは将軍死去の確証を得ました。ヨーロッパの外交団は、利害が一致する場合は情報を交換し合っていたことが判明します。
ところで将軍と天皇との関係をいち早く理解したサトウは、1866(慶応二)年三回にわたり、横浜外国人居留地で発行されていた『ジャパン・タイムズ』に無題、無署名の論説を発表しました。この英文は、サトウの日本語教師である徳島藩士沼田寅三郎の協力で得てサトウ自身により翻訳され、その後、写本が各地に流布され、『英国策論』の題名で出版されました。現在数種の写本と版本が各地に残っており、その影響の大きさを物語っています。この論考は、天皇(Majesty)を元首とする諸大名の連合体が支配権力の座に着くべきだとする、サトウ個人の非公式見解でしたが、英国の対日政策を代弁するものとして受け取られ、討幕派に注目されました。また政治情報を収集しようとする諸藩の人々により読まれていきました。
幕府の監視が厳しい江戸での政治情報の入手を困難とみたパークスは、1866年12月から67年1月にかけて、「情報将校」サトウを長崎・鹿児島・宇和島・兵庫に派遣しました。サトウは長崎で宇和島藩士や肥後藩士から、京都での大名会議や長州問題、兵庫開港に関する情報を入手しました。またその帰途、兵庫で西郷吉之助(隆盛)と初めて会談、一橋慶喜の将軍職拝命の情報を外国人として最初に入手することができました。西郷が京都の小松帯刀に送った書簡には、西郷がサトウの心底を探るため、兵庫開港に関しては二、三年傍観すると発言したこと、サトウが長州問題と兵庫開港問題で幕府を追求した方がよいと、パークスの内政不干渉の立場から一歩踏み出した発言をしたことが記されています。
サトウは1867年2月、各国公使の新将軍徳川慶喜の謁見準備と大坂での政治情報の収集のため、再度兵庫へ派遣されました。この時から会津藩士等幕府側諸藩との交流が始まります。ついでパークスは、4月の慶喜謁見にサトウの他に、日本語能力に優れたウィリアム・アストンらを同行させ、英国公使館員の層の厚さを見せつけました。慶喜は外国との友好関係を希望して兵庫開港を確約、さらに5月には朝廷から勅許をとりつけ長年の外交懸案を解決しましたが、その助言者で合ったロッシュには日本語に堪能な通訳がつかず、幕臣以外と接触しなかったロッシュが入手できる情報は限られていたといえるでしょう。
一方、天皇を陛下(His Majesty)、将軍を殿下(His Highness)と呼び、日本語の専門家にふさわしく両者の関係を的確に理解していたサトウは、雄藩連合政権か徳川幕府の強化かという政局の現実に迫ることができたこともあって、西郷に「革命の機会」がなくなったわけではないが、兵庫が開港されると「大名は革命の好機を逸することになるだろう」と、彼らの奮起を促すなど、倒幕寄りの旗印を鮮明にしました。
1868年7月から、サトウはパークスの日本海側諸港の視察に同行し、新潟、佐渡、能登、金沢、福井等で各地の政治や物産の情報を収集、その後大坂に入り西郷と再会しました。この時西郷は、4月の慶喜の謁見以来英国領事館が幕府寄りの製作をとり始めたのではないかと危惧し、サトウに対して英国は仏国の「つかわれもの」ではないかと対抗心をあおり、英仏離間策を画策しています。挑発に乗ったサトウは、英国の対日政策を踏み越える武力援助、倒幕援助の提案をしたようですが、西郷は日本の政体変革は日本人の手で行うときっぱりと断りました。この後サトウは、パークスの命令で、イカルス号水夫殺害事件の調査のため土佐に派遣され、後藤象二郎や山内容堂と公議政体につて議論、さらに下関では井上聞多(馨)、長崎では伊藤俊輔(博文)や木戸準一郎(孝允)らと政治情勢について議論を重ねました。しかし、大政奉還や討幕運動の実情をさぐることができないほど、日本の変革はさらに進んでいました。
5.アストンとチェンバレン
サトウに次ぐ日本研究者となったのがウィリアム・アストンです。アストンは1864(元治元)年、23歳でイギリス公使館通訳生として来日。69年に『日本口語小文典』や72年の『日本文語小文典』は、通訳生の入門書として編纂され、優れた日本語辞書として評価が高いものです。74年には「日本語はアーリア語と類似性があるか」を発表し、文法構造や語彙等について比較言語学的な試論を試み、75年には「古代日本の古典文学」を発表、日本最古の仮名で書かれた紀貫之の『土佐日記』を英訳、解説しました。アストンはサトウよりいっそう学究肌で、帰国後も日本研究を続けました。96年に『日本書紀』を英訳、99年には代表的な業績となる「日本文学史」を、1905年にはサトウの神道研究を引き継いだ『神道』を出版しています。また、サトウから譲られた日本の書籍を含む膨大な蔵書一万冊(アストン・コレクション)は、ケンブリッジ大学図書館に所蔵されています。
1873(明治六)年に22歳で来日したバジル・ホール・チェンバレンは、30余年日本に滞在し、海軍兵学寮や帝国大学文科大学で英語を教授しながら、優れた日本研究を発表し続けました。80年に『日本の古代歌謡』、琉球語やアイヌ語等について研究を発表、82年には『古事記』の英訳を出版して日本学者としての地位を確立しました。サトウの研究を完成させたチェンバレンは、90年に「百科全書」的な『日本事物誌』を出版しました。
6.サトウたち外交官の功績
日本の歴史や言語、社会、文化等が、外交官たちによって紹介されていった事例を上げてみたいと思います。ラザフォード・オールコックは、初代駐日英国公使として1863(文久三)年『大君の都』を出版し、59年から62年にかけて行われた外交交渉や井伊大老の暗殺など諸事件を書き残しましたが、なかでも幕藩体制や日本の産業、経済、宗教、文化等日本社会についての分析は、その後の日本研究の基礎となりました。引退後も78年に『日本の芸術と芸術産業』を著し、英国の日本研究に貢献しています。
第二代駐日英国公使パークスは、著作を著すことはありませんでしたが、彼の尽力により、1872(明治五)年、横浜外国人居留地の英米系の人々を中心に日本アジア協会が設立されました。貿易商人や外交官、お雇い外国人、宣教師等の会員が、例会で、日本の歴史、風俗、言語、伝説、地理、鉱物、植物、建築、気候等あらゆる分野の研究を次々と発表し、この中から多くの日本学者(ジャパノロジスト)が育っていきました。
その一人であるバジル・ホール・チェンバレンは、「サトウ、アストン、マクラッチー、ガビンズなど、日本駐在のイギリス領事部門が生んだ著名な人物は、みなサー・ハリーの鼓舞と激励に負うところが大きい……勤務する者の中から、日本に関するあらゆる問題についての、主要な権威と呼ばれる人々が輩出した……この偉大な人物の監督下にあった時ほど、日本研究一般が活発で、しかも実り多い時期はなかった。」
つまり、日本の政治や社会情勢を的確に判断して外交交渉を有利に導くためには、各分野の「日本通」の育成が必要だったのです。パークスが対日外交を他の列強よりもリードし得た秘密はここにありました。
神道、キリシタン研究 サトウは、日本人を理解するには神道の分析が重要であると考え、1874年「伊勢神宮」を「発表。最初の外国人として伊勢神宮に参拝した経験や、本居宣長の『古事記伝』等を参考にまとめたものです。75年には「古神道の復興」を発表、仏教と儒教の影響を除いた神道の原初的形式を「古神道」と名づけた賀茂真淵や本居宣長ら近世国学者の神道観を、『古事記』『日本書紀』『万葉集』等の原典によって克明にたどり、日本学者としての力量を示しました。ついで78年、英国の季刊誌に匿名で「古代日本の神話と宗教的儀式」を発表し、「祝詞(のりと)」をヨーロッパに紹介した啓蒙的な論考で、本国への最初のデビュー論文となりました。79年には本格的な論文「古代日本の祭式」を発表、『延喜式』の「祝詞」を英訳しました。この研究はその後アストンに受け継がれています。
民族、地理、考古学、植物、書誌学、旅行記 1870年に「蝦夷のアイヌ」がロンドンの雑誌に掲載され、74年には新井白石の『琉球国時略』等を参考に、琉球の歴史や産物を紹介した「琉球についての覚書」を発表、78年には「煙草の日本伝来」「薩摩の朝鮮陶工」、80年にモースの大森貝塚発見等により考古学への関心をかき立てられ、「上野地方の古墳群」、82年には「日本の初期の印刷の歴史」や、「朝鮮の活字と日本の古活字本についての補足」を発表、99年に「日本における竹の栽培」は片山直人の『日本竹譜』を翻訳しています。また、81年に友人たちと日本各地を旅行した記録を集大成した『中部・北部日本旅行案内』をホーズと共著で出版しました。この本は、世界的に有名なロンドンのマレー社のガイドブックを手本に編纂されたもので、外国人の手になる最初の本格的な旅行案内書となりましたが、学術的色彩が強く、日本研究の集大成としても高く評価されています。
日本の書籍収集 日本語学習や日本研究を支えたのが、サトウ自身が収集した大量の日本の書籍です。助言もあって寺社や大名家等から流出した数多くの貴重な本を廉価で購入することができましたが、その後これら書籍の大半は他の研究者に提供され、現在は大英図書館やオックスフォード大学図書館、ケンブリッジ大学ボードリアン図書館、日本大学文理学部図書館、天理大学付属天理図書館、横浜開港資料館等多くの研究機関に所蔵されています。大英図書館が所蔵する1600年以前の古版本や古活字本は貴重で、日本国内に残存しないものもあり、質量共にきわめて評価の高いコレクションとされています。▲ページTOPへ
7.日本の情報収集
それでは英国の情報収集に対して、日本側の情報収集はどのようになされていたのでしょうか。第一は、幕府や諸藩が、横浜で発行されていた英字新聞『ジャパン・ヘラルド』『ジャパン・コマーシャル・ニューズ』『ジャパン・タイムズ』等から情報を入手したことです。この情報は、洋書調所(後の開成所)で翻訳され、翻訳書写新聞として諸藩に回覧されました。第二は、密偵を派遣して情報を収集していました。生麦事件以来、薩摩藩の江戸藩邸では探索方の南部弥八郎らが幕府や英国から情報を収集していました。南部は、下関砲撃、水戸天狗党の乱、禁門の変、第一次長州戦争等の情報や、江戸、横浜、京都、大坂の風説等を国元に送付し続けていました。江戸城内の情報は幕閣から、外国側の情報は外国奉行や神奈川奉行所付の翻訳方、送り込んだ書生、横浜の英字新聞等から得ていました。英国公使館が幕府へ提出した文書を南部が入手するため、サトウやシーボルトの留守中に潜り込ませた者に草稿を筆写させていたところ、サトウらが帰宅したため半分で止めざるを得なかった、という生々しい報告もあります。また『ジャパン・コマーシャル・ニューズ』には、薩英戦争後横浜に入り込んだ薩摩藩の探索方が、英国艦隊の再来襲の予測や薩英和平交渉の可能性を探っていた記事が掲載されています。日本側(倒幕方)も英国に劣らず情報収集を行っていたのです。
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8.外国人居留地
政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域をいう。これが居留地の始まりである。条約改正により1899年に廃止されるまで存続した。単に居留地ともいう。鎖国時代の長崎に設置された出島や唐人屋敷も、一種の居留地に当たる。出島のオランダ人や唐人屋敷の中国人は、みだりに長崎市街へ外出することは許されなかった。1854年の日米和親条約では米国商船の薪水供給のため下田、箱館の二港が開港され、日英和親条約では長崎と箱館が英国に開港されたが、外国人の居住は認められなかった。その後、ロシアやオランダと締結された和親条約も同様である。 江戸幕府は、安政年間に1858年の日米修好通商条約をはじめとして英国、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。これを安政の五か国条約と総称する。この条約では、東京と大阪の開市および、箱館(現函館市)、神奈川(現横浜市神奈川区)、長崎、兵庫(現神戸市兵庫区)、新潟の五港を開港して外国人の居住と貿易を認めた。実際に開港されたのは、神奈川宿の場合、街道筋から離れた横浜村(現横浜市中区)であり、兵庫津の場合もやはりかなり離れた神戸村(現神戸市中央区)であったが、いずれにしても開港場には外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅倉庫商館を建てることが認められた。居留地の外国人は居留地の十里(約40キロ)四方への外出や旅行は自由に行うことができ、居留地外でも治外法権があった。日本人商人との貿易は居留地内に限定された。
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神戸居留地
江戸幕府は天皇の居住する京都に近い畿内は攘夷気分が強く情勢不穏であるとして、兵庫開港を延ばしに延ばしていた。しかし、実際は、当時日本の経済的中心地であった大阪から外国人を遠ざけておきたかったからのようである。このため、神戸港は条約締結から10年を経過した1868年1月1日に開港した。日本人と外国人との紛争を避けるため、開港場や外国人居留地は当時の兵庫市街地から3.5kmも東に離れた神戸村に造成される。東西を川に、北を西国街道、南を海に囲まれた土地で、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢であった。ここにイギリス人土木技師J.W.ハートが居留地の設計を行い、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などを整備、126区画の敷地割りが行われ、同年7月24日に外国人に対して最初の敷地競売が実施された。全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限された事実上の租界である。当時、東洋における最も整備された美しい居留地とされた。この整然した街路は今もそのままである。神戸居留地では外国人の自治組織である居留地会議が良く機能し、独自の警察隊もあった。1868年に居留地の北、生田神社の東に競馬場が開設されているが、数年で廃止されている。
開港場の居留地は、長く鎖国下にあった日本にとって西洋文明のショーウィンドーとなり、文明開化の拠点であった。西洋風の町並み、ホテル、教会堂、洋館はハイカラな文化の象徴となる。この居留地を中心として横浜、神戸の新しい市街地が形成され、浜っ子、神戸っ子のハイカラ文化が生み出されることになる。
神戸の外国人居留地が日本に返還されたのは、不平等条約改正後の明治32年(1899年)であった。神戸市街地は1945年に大空襲を受けたため、現在の神戸市役所西側一帯にあった居留地時代(1899年以前)の建物で残っているのは旧居留地十五番館(旧アメリカ合衆国領事館、国の重要文化財)が唯一で、多く残る近代ビル建築は主に大正時代のものである。ただ、居留地が手狭になったため、1880年頃から六甲山麓の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)である北野町山本通付近に多くの外国人住宅が建てられ、戦災を免れた。これが今日の神戸異人館である。
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9.居留地貿易
函館・横浜・長崎開港後まもなく、「ゴールド・ラッシュ」と呼ばれる奇妙な現象がブームとなる。世界的に金銀の比価は1:15であったのに、日本では1:5であった。つまり日本では金が安く、銀が異常に高かったのである。(これは、幕府によって日本の銀貨には一種の信用貨幣的な価値が付与されていたという事情もあった。)このため、中国の条約港で流通している銀貨を日本に持ち込んで金に両替し、再び中国に持ち帰り銀に両替するだけで、一攫千金濡れ手で粟の利益が得られた。商売を禁止されている外交官でさえこの取引を行ったとされる。事態に気付いた江戸幕府が通貨制度の改革に乗り出す頃には大量の金が日本から流出し、江戸市中は猛烈なインフレーションに見舞われていた。 政治的緊張が続く幕末には、武器や軍艦が日本の主要輸入品となった。武器商人トーマス・グラバーが長州藩や薩摩藩を相手に武器取引を行ったのは長崎であった。明治になっても近代化のために最新の兵器や機械の輸入は続く。これに対して日本が輸出できるのは日本茶(グリーンティー)や生糸くらいしかなかった。貿易赤字は金銀で決済するしかない。このため富国強兵を掲げる明治政府は殖産興業に力を入れ、富岡製糸場などを建設していく。
居留地と華僑
横浜、神戸、長崎では居留地の中(神戸は隣接地)に中華街が形成され、日本三大中華街に発展した。これは当初来日する外国商人は中国の開港場から来る者が多く、日本は漢字が通用するので中国人買弁が通訳として同行してきたためである。その後、日本と中国各地の開港場に定期船航路が開けると中国人商人(華僑)が独自に進出してきた。 中国人もオランダ人同様、長崎唐人屋敷で長年日本貿易を行ってきた歴史がある。神戸に進出した華僑は富裕な貿易商が多く、彼らは北野町とその西に居を構えた。これが神戸の関帝廟が例外的に中華街から離れた山手の住宅地に存在する理由である。横浜に進出した華僑は、その大半が飲食業を営んだために、中華街の面積が大きくなった。
9.まとめ
以上、主に英国外交官を中心とする欧米の情報活動の一環は、
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