目次
- 1 坂本龍馬
- 1.0.1 1.坂本龍馬
- 1.0.2 2.薩長同盟
- 1.0.3 3.薩長同盟の陰の功労者、グラバー
- 1.0.4 4.岩崎彌太郎 岩崎弥太郎は、幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められます。21歳の時、江戸へ遊学し安積艮斉の塾に入塾。1856年父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放されます。その後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、この時期後藤象二郎らの知遇を得ます。 慶応3年(1867年)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事します。坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当します。 時代は雲急を告げていました。雄藩(ゆうはん)は討幕に向けて準備を進めていました。京都では山内容堂(ようどう)、島津久光、松平春嶽、伊達宗城(だてむねなり)の四侯が会談し策を練るが纏(まと)まりません。容堂は後藤象二郎と坂本竜馬の意見を求めました。二人は急遽京都に向かいます。 この夕顔丸の船中で竜馬は、いわゆる『船中八策』をまとめました。 「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷から出ずべきこと。上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛(さんさん)せしめ、万機公論に決すべきこと…」で始まる、新しい国のグランド・デザインである。これは象二郎から容堂に建言され、容堂から徳川慶喜への建白書となって、歴史を大きく動かすことになります。 にほんブログ村 長崎商会の後事は彌太郎に託された。留守居役への郷士の起用。象二郎の信頼の厚さを示していました。彌太郎は、竜馬が長崎を離れてからもいろは丸事件※で紀州藩と粘り強く交渉を続けて多大な賠償を取りつけるなど、引き続き海援隊の面倒をみました。また、英国人殺傷事件で土佐藩にあらぬ嫌疑がかかると英国公使を相手に一歩も妥協しませんでした。 一方、竜馬は京都に出て半年、薩長土を主役とする維新の舞台回しの中で無念にも暗殺されてしまいます。新しい日本のあり方を建策し、その実現に邁進しながら、自らその結果を見届けることは叶いませんでした。七つの海に乗り出すことを夢見ていた竜馬。もし竜馬が明治の世にも生きていたら、海運を取り仕切り、貿易を手掛け、産業を興して、彌太郎三菱の強力なライバルになったでしょう。 5.龍馬暗殺
- 1.0.5 6.大政奉還と王政復古
- 1.0.6 7.戊辰戦争(1868年~1869年)
- 1.0.7 8.出石藩出身者
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 |
坂本龍馬
坂本龍馬については、ここで述べるまでもなく、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物であり、多くのファンがおられ、私も個人的に大好きな人物の一人です。高知の桂浜や龍馬記念館、伏見寺田屋、京都国立博物館、霊山記念館および墓等訪ねています。しかし、むしろ生前より死後に有名になった人物であり、それらは実際の龍馬とかけ離れているのではないかという指摘も多いようです。
1.坂本龍馬
吟醸 司牡丹「才谷屋」
龍馬の本家に当たる才谷家は、高知城下に質屋と酒屋を開き、5代目の頃には、あらゆる商品売買を行う一方、武士の俸禄を抵当に、あるいは刀剣・武具・馬具・書画・骨董などを質にとって金を貸す仕送屋を経営し相当繁盛しました。まじめな奉公人にはのれん分けをして「才谷屋」の屋号を土佐に着々と浸透させていきました。
高知城下にあった才谷屋
やがて名字・帯刀御免の藩主御目見得商人にまでのし上がり、商家としては最高の家柄だったことがうかがえます。「違い枡に桔梗」といえば坂本龍馬。坂本本家の屋号『才谷屋』の家紋であり、彼は随所で「才谷梅太郎」と名乗ってもいて、後輩達から才谷先生と親しまれていました。 「才谷先生」の愛称でも呼ばれた龍馬は、商家に育ったからこそ、武士道にこだわらない商売人魂から生まれる柔軟な発想を国家改革に生かせたのでしょう。
乙女に宛てた書付(重要文化財) 京都国立博物館蔵
5人兄弟の末っ子として生まれた龍馬には1人の兄と3人の姉がいました。
最も慕っていたのは年が近い三女の乙女姉さんでした。 「乙女」という清純で可憐な名前とは正反対の、大柄(身長175cm、体重113kg)な、男勝りで文武に精通した才女だったとか。剣術にかけてはそこいらの男も顔負けの腕前で、ピストルもやれば浄瑠璃もやる。その自由奔放な姿は龍馬とよく似ています。だから兄弟の仲でも最も気があったのでしょう。
(重要文化財)京都国立博物館蔵
子供の頃の龍馬は「寝小便たれ」の「泣き虫」といわれ、およそ得意といえるものがなかったようです。
そんな龍馬が人より勝るものを身につけ大きく変わったのは、家の近所にできた剣術道場に通うようになってから。
稽古がおもしろくてたまらないほど打ち込み、19歳で道場の卒業書を受け取り、さらなる修行のために江戸に向かいます。「一芸が身を助ける」。龍馬にはそれは剣術でした。
坂本龍馬着用紋服(重要文化財) 京都国立博物館蔵
さて、筆まめな一面があった龍馬の手紙は130通ほど残っているとか。乙女に何通も手紙を書いていますが、勝海舟の下、設立に携わった兵庫(神戸)の海軍操練所のことを「弟子どもにも、4、500人も諸方よりあつまり」とはったりをかまし(実際は200人ほど)、「少しエヘン顔してひそかにおり候」と威張った上に、「なおエヘン、エヘン」とさらに付け加えています。龍馬の調子に乗りやすい性格をいつも乙女に叱られているのか、乙女にまた言われる前に自重しているよと先に書いています。男勝りの乙女を「大荒れ先生」
と書いたり、茶目っ気たっぷりで、自分が偉くなったことを良き理解者である乙女姉さんに自慢したくてたまらないといった龍馬のやんちゃな性格が文面に表れています。
京都伏見の寺田屋/京都市伏見区南浜町263
店長実写(2000.10)
文久3年(1863)、姉乙女に書いた手紙の中で、「日本(ニッポン)を世界の列強国と渡り合えるよう
な国にするには藩でもなく、幕府でもなく、日本国自体を改革=洗濯する必要がある」と書いています。
鎖国体制下にあった日本では、自国が世界の中にある1つの独立国家だという認識が薄く、
草もうの志士と呼ばれた者でさえ、国内の朝廷と幕府との権力闘争に目を奪われていることが多かったようです。 日本をニホンではなく、「ニッポン」とあえてフリガナを付けて書いています。
これは諸外国では「nippon」と呼ばれているという最先端情報を乙女姉さんに教えたかったからでしょう。
まして土佐から一歩も出たこともない乙女姉さんには、龍馬が何を言っているのかとても理解できたとは
思えませんね。「龍馬がまた調子にのって大きなことをいいおって」ぐらいにしか思えなかったでしょう。
店長実写
元治元年(1864)五月正式に発足した幕府の直轄施設・神戸海軍操練所の解散をきっかけに、龍馬を筆頭とする一団を母体とし、長崎・亀山の地で亀山社中(亀山隊)を結成します。私設の、海軍・商社的性格を持った草もうの志士の結社です。
当初は薩摩藩の援助の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で商社的に国事に奔走していました。その社中(グループ)が後に土佐藩主の寛大な許しの元、一度は脱藩した龍馬以下、中岡慎太郎やその他のメンバーで、土佐藩とも仲直りし、貿易結社「海援隊」として誕生させます。薩摩藩などの資金援助を受け、日本初の株式会社とも言われています。中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれます。
月桂冠 大倉記念館/京都市伏見区南浜町247
濠川沿いの寺田屋から東二筋目
慶応2年(1866年)1月23日、伏見の旅籠、寺田屋が200人もの幕府方に取り囲まれたとき、お龍はちょうど風呂に入っていました。
窓の向こうの異様な気配に気づいたお龍は、体も拭かずに、全裸に近い姿で2階に駆け上がります。
長州藩士三吉慎蔵と薩長同盟の打ち合わせをしていた龍馬に知らせるためでした。龍馬は襲ってきた幕府方に
高杉晋作から贈られたリボルバー銃で発砲しながら応戦。横から斬りつけてきた刀をとっさにピストルで受けて、お龍と二人で近くの木材小屋に隠れて難を逃れたのでした。お龍は「ピストルのお陰で助かった」と述懐し、龍馬はお龍の働きにいたく心を打たれ、まもなくお龍を妻にしました。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行しました。
十石船から濠川/十石舟乗船場
龍馬が泊まっていた部屋には、事件の際の刀傷が柱に残っています。現在の建物はその後再建されたものです。
伏見といえば酒どころ。上質の湧き水(伏流水)が湧くことから伏水から地名になりました。
当然龍馬も伏見の酒に酔ったことでしょう 海援隊は亀山社中(亀山隊)時代を加えても、慶応元年(1865)から慶応四年(明治元年・1868)四月までの約三年間という短期間の活動で役目を終えました。翌年4月には藩命により解散。土佐藩士の後藤象二郎は海援隊を土佐商会として、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させます。 慶応元(1865)年、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始します。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行いました。
龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く信用を得ていましたが、8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功しました。この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されています。 慶応2年(1866年)、1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれました。
純米酒 司牡丹「船中八策」
また陸援隊は、慶応3年(1867)に、土佐藩士の中岡慎太郎によって組織された討幕運動のための軍隊(浪士隊)です。海援隊に続いて中岡と土佐藩士の坂本龍馬の協議により発足。隊長は中岡で、京都を本拠としました。隊員は尊皇攘夷の思想を持つ脱藩浪士などが集められ、総員は70名以上。薩摩藩から洋式軍学者鈴木武五郎が派遣され、支援の十津川郷士ら50名と共に洋式調練を行った。中岡、坂本が京都で暗殺された後は田中光顕、谷干城らが指導し、高野山では紀州藩兵を牽制する。明治には御親兵に吸収されました。
2.薩長同盟
材木商酢屋龍馬寓居跡:京都市中京区河原町三条上ル一筋目東入ル
江戸時代末期は、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩などが藩の財政改革に成功して経済力をつけ、軍備拡充と人材登用で国政における発言力を増し、「雄藩」と呼ばれるようになりました。また、水戸藩も政治的発言力を背景に「雄藩」と呼ばれました。 禁門の変を長州軍の朝廷への反逆であるとして、幕府は元治元年(1864)長州征伐に乗り出しました。都合二回行われたこの長州征伐は「再び幕府が独裁力をつけるのではないか」という強い懸念と、台所事情などの様々な事情から諸藩が出兵命令に従わなかったため、何の成果も上げられず幕府の威光は失墜しました。尊壤派の発言力の強い藩などは、長州藩に同情的な立場を取りようになりました。
逆賊となった長州藩に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝(尾張藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命されますが、幕臣・勝海舟との会談で長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は、開戦回避を模索。長州藩内でも四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなりました。しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか同年末、高杉晋作らが諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回しました。
土佐藩邸跡 京都市中京区木屋町蛸薬師下ル備前島町
藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、老中小笠原長行(唐津藩世子)・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫(神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭米連合艦隊が兵庫沖に迫った。摂海防禦指揮徳川慶喜は、いまだに条約への勅許が得られていないのが原因と考え、老中らに勅許工作と外国艦隊との交渉をおこなわせますが、独断で兵庫開港を決めた阿部正外・松前崇広らに対し朝廷から老中罷免の令が出される異常事態となり、幕府は慶喜への疑念を強める。慶喜は条約勅許・兵庫開港問題を巡って在京の諸藩士を集めて世論をまとめ、朝廷に条約勅許を認めさせました(兵庫開港は延期)。
こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、逆に長州との提携を模索します。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、両藩の接近が図られます。逆賊となり表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、慶応2年(1866年)正月、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結されました。
幕府は同年2月に第二次長州征伐を発令。6月に開戦すますが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、7月20日家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は自ら親征の意志を見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣・井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えました。
小五郎 幾松 寓居跡碑とされている。三本木料亭「吉田屋」:京都市上京区 東三本木通
城崎から京都へ戻った小五郎は、西郷隆盛と薩長連合を結び倒幕をすすめます。慶応3年(1867)6月、三本木料亭「吉田屋」にて土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀との間で大政奉還と公議政体を目指した盟約が結ばれました。後に「薩土盟約」と呼ばれる、幕末維新の時代において、きわめて重要な事件の1つです。
攘夷派の旗頭として長州と薩摩はさらに肥前・土佐とともに倒幕へと動き出しました。小五郎は、土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎・坂本龍馬らに斡旋されて小松帯刀邸にて薩摩藩と秘密裏に藩レベルでの薩長同盟を結びます。慶応2年(1866年)1月22日に京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂は長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして行きます。1863年の下関戦争(馬関戦争)以来、孤立した長州は薩長同盟の下、長州は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、薩摩は不足している米を長州から支援してもらいました。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っています。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信頼を得ていたかがわかります。
3.薩長同盟の陰の功労者、グラバー
龍馬刀 霊山記念館
龍馬とグラバーは、「薩摩と長州が手を結ばなくてはならない」との考えで一致。薩長同盟成立に進んでいきます。
明治新政府の素案となった、龍馬が執筆した「船中八策」ですが、夕顔丸の船中ではなく、実際は
長崎グラバー邸で草案をつくったのだそうです。グラバーは上海在住のイギリス商人でしたが、ビジネスチャンスと、
開港したばかりの長崎にやってきました。いまだに日本が火縄銃を使っているのを見て「これは儲かる」と思ったでしょう。
トーマス・グラバーは、イギリス・スコットランド生まれで、1859年、上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。 その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に香港の「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店(グラバーの肩書きは、「マセソン商会・長崎代理人」)として「グラバー商会」を設立。貿易業を営みました。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱っていましたが、八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して長州藩の伊藤博文や井上馨らの英国への密留学を支援したほか、薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの海外留学の手引きもしています。
1865年(慶応元年)には、大浦海岸において日本で初めて、蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせた。1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を製造して本業にも力を注ぎ、1868年(明治元)、肥前藩と契約して高島炭鉱の開発に着手。また、長崎の小菅に船工場(史跡)を作っています。
龍馬は亀山社中を作り、グラバーから帆船や武器を仕入れ、薩摩藩へその武器を収めるようになります。アメリカでは南北戦争が終わって銃があり余っていました。その中古品を仕入れても飛ぶように売れました。
そして、その豊かな大藩、薩摩藩の援助によって、長州藩は鉄砲や西洋の近代兵器を長崎社中から手にすることができるようになります。こうして薩長同盟は、龍馬を介して倒幕に向けて着々と準備を進めていきます。
欧米列強の黒船が中国の次ぎに日本に迫っている…この危機感は、当時の人々にとって大変なものだったとは想像に難くありません。それほど、世界が動いている中で、300年近く鎖国政策を続けてきた江戸幕府が世の中から乖離してしまっていることに、龍馬は危機感を誰よりも察知していたからでしょう。筆まめ、情報を集め、「日本を洗濯する」と書くに至った背景には、リサーチできるものはすべてやった。自分の策以外に日本の将来はないという結論なのです。だからこそこれでだめだったら「なんとかなるきぃ!」という開き直りにも聞こえるセリフの通り、武士と言うよりも商売人的な日本の利益重視を研究しつくした龍馬だからこそ、薩長を動かすことができたのかも知れません。
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めましたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まりました。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも、所長として経営に当たりました。また、1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥った日本最初のビール会社、横浜のスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築きました。
キリンビールのトレードマーク麒麟の長いひげは、トーマス・グラバーのひげに因んで付けられたといわれています。
龍馬の死後、海援隊を引き継いだのは同じ旧土佐藩士、岩崎弥太郎でした。彼は龍馬たちのように
維新の夜明けのために奔走することはありませんでしたが、土佐藩が輩出した希有な近代的センスを持ったビジネスマンでした。
グラバーといえばオペラ「蝶々夫人」のモデルになったことで有名です。グラバーは「蝶々夫人」では帰国することなっていますが、実際は“長崎か~ら~船に乗って、神戸ではなく横浜に着き”、三菱商会に渉外顧問として厚遇で迎えられます。やがて日本人の妻、談川ツルをもらい一男一女をもうけて、明治政府からも外国人としては破格の勲二等を叙勲しています。
在日外国人社会における人望は絶大で、鹿鳴館の名誉セクレタリーにも推され、明治日本の国際交流に貢献しました。また、かつてグラバーの尽力で密かに英国に留学した伊藤博文は、明治政府の高官となってからもグラバーと接触を保ち、私的に意見を求めることもあったといいます。
邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在長崎の観光名所となっています。
晩年の彼は「倉場」と名乗り、日本の土となりました。
4.岩崎彌太郎岩崎弥太郎は、幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められます。21歳の時、江戸へ遊学し安積艮斉の塾に入塾。1856年父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放されます。その後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、この時期後藤象二郎らの知遇を得ます。 慶応3年(1867年)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事します。坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当します。
時代は雲急を告げていました。雄藩(ゆうはん)は討幕に向けて準備を進めていました。京都では山内容堂(ようどう)、島津久光、松平春嶽、伊達宗城(だてむねなり)の四侯が会談し策を練るが纏(まと)まりません。容堂は後藤象二郎と坂本竜馬の意見を求めました。二人は急遽京都に向かいます。
この夕顔丸の船中で竜馬は、いわゆる『船中八策』をまとめました。
「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷から出ずべきこと。上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛(さんさん)せしめ、万機公論に決すべきこと…」で始まる、新しい国のグランド・デザインである。これは象二郎から容堂に建言され、容堂から徳川慶喜への建白書となって、歴史を大きく動かすことになります。
長崎商会の後事は彌太郎に託された。留守居役への郷士の起用。象二郎の信頼の厚さを示していました。彌太郎は、竜馬が長崎を離れてからもいろは丸事件※で紀州藩と粘り強く交渉を続けて多大な賠償を取りつけるなど、引き続き海援隊の面倒をみました。また、英国人殺傷事件で土佐藩にあらぬ嫌疑がかかると英国公使を相手に一歩も妥協しませんでした。
一方、竜馬は京都に出て半年、薩長土を主役とする維新の舞台回しの中で無念にも暗殺されてしまいます。新しい日本のあり方を建策し、その実現に邁進しながら、自らその結果を見届けることは叶いませんでした。七つの海に乗り出すことを夢見ていた竜馬。もし竜馬が明治の世にも生きていたら、海運を取り仕切り、貿易を手掛け、産業を興して、彌太郎三菱の強力なライバルになったでしょう。
5.龍馬暗殺
坂本竜馬・中岡慎太郎墓 霊山墓地(京都市東山区)(なお、靖国神社にも祀られている)
慶応三年(1867)十一月十五日夜、数名の暗殺者が醤油商近江屋を襲撃して、坂本龍馬・中岡慎太郎、下男の藤吉を殺害しました。この事件については、関係者の証言もまちまちで、暗殺犯は京都見廻組という説が有力ですが、犯人は誰なのかはっきりしていません。 龍馬は午後三時と五時の二回、近江屋の三件南隣りにある福岡孝弟の下宿を訪ねましたが、福岡は留守でした。中岡は以前の下宿先だった「菊屋」へ行って、「薩摩屋」へ手紙を届けるよう店の息子峰吉に頼みました。「菊屋」を出た中岡は、次に谷千城の家へ行きましたが、留守だったので龍馬のいる「近江屋」へ向かいました。
龍馬と中岡が話をしているところへ、岡本と手紙を届け終わった峰吉がやって来て話しに加わりました。龍馬が「シャモでも食おう」と言い出したので、峰吉はシャモを買いに「鳥新」へ出かけました。岡本はよそへ寄るから途中まで一緒に行くと行って席を立ちました。
峰吉らが出かけたのと入れ替わりに、数名の刺客が「近江屋」を訪れ、十津川郷士と名乗って龍馬に会いたいと言ってやって来たので、下男の藤吉は名刺を受け取り、龍馬に取り次ぐために二階へ上がっていきました。
二階奥の部屋には手前に中岡、行灯と火鉢を挟んで龍馬が向かい合っていました。二人が行灯に頭を寄せて、受け取った名刺を見ていると、藤吉について上がってきていた武士が突然「コナクソ!」といって中岡に斬りつけました。直後、別の武士も龍馬に斬りつけました。龍馬は床の刀を取り、鞘を付けたまま受け止めますが、力に押されて背中を方から脇へ斜めに斬られ、乱闘のうちに額を斬られてしまいました。一方、中岡も鞘のまま短刀を振り回して抵抗していましたが、ついに斬られてしまいました。
峰吉が買い物を終えて戻ってくると、すでに暗殺者は去った後でした。その後、連絡を受けた谷千城や陸援隊の田中光顕らが駆けつけました。
実行犯諸説
- 新選組 原田左之助 暗殺現場の近江屋に遺留品として残された蝋色の鞘(さや)と、瓢亭が新選組の隊士に貸したという証言があったひょうたん印のついた下駄、犯人が発したという四国弁の「こなくそ」という言葉のすべてが、新選組の原田を示していた。しかし、物証のみで、実行グループに加わったとされる他の新選組隊士の物証は確認されていない。
- 御陵衛士 伊東甲子太郎 原田左之助犯人説を裏付ける刀の鞘についての証言をしたのも、実はその鞘をすり替えていたのも、ともに御陵衛士の伊東一派であった。伊東と薩摩藩の関係もかなり深く、事件に深く関与していた可能性がある。
- 薩摩藩士 中村半次郎 示顕流の達人で、別名人斬り半次郎と呼ばれた。西郷隆盛を神様のように崇めていたため、西郷の指示で暗殺したともいわれる。事件当日のアリバイはなかった。歴史家の西尾秋風氏の説では、他に土佐藩の松島和介、富永貫一郎、本川安太郎、岡山禎六、前島平吉、宮川助五郎の6名に佐土原藩脱藩士を含む合計9名が暗殺者だったとされている。
- 見廻組 佐々木只三郎 見廻組与頭の佐々木只三郎が6名の部下を率いて、龍馬を暗殺したのが通説になっている。元幕府講武所教授方で、風心流小太刀と夢想流の居合いの使い手だった。主要メンバー
今井信郎
明治3年の刑部省での取り調べで、自分は見張りであったと証言していますが、家人には自分が龍馬を暗殺したと告白したといわれる。渡辺一郎(篤)
暗殺容疑者の中で幕末の動乱を唯一生き残り大正4年に死去している。高弟の飯田恒太郎に、龍馬は自分が斬ったと語ったいう。桂早(隼)之助
子孫宅から、龍馬を斬った刀と関係資料が発見されている。
この他にも京都見廻組の関係者では、渡辺吉太郎、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎(以上、今井信郎の供述及び家人の口伝による)、世良敏郎等が関与したとされる。
- 長州藩士 実行犯説 長州藩内の一部過激集団による犯行ではないかといわれる。
6.大政奉還と王政復古
家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続しましたが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいました。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受けます。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が即位しました。 翌慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させましたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化しました。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつありました。
こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図ります。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を山内容堂に進言し、周旋を試みていました。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の外祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって10月14日に討幕の密勅が出されるにいたります。ところが同日、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、在京諸藩士の前で大政奉還を宣言したため、討幕派は大義名分を失うこととなってしまいました。ここに江戸幕府による政権は名目上終了します。
しかし、慶喜は将軍職も辞任せず、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わりませんでした。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画します。12月9日、王政復古の大号令が下され、従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言されました。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は将軍辞職および領地返上を要請されたのです。会議に参加した山内容堂は猛反対しましたが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定されました。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去しましたが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまいます。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発しました。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちしました。
なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られました。
翌慶長三年(1866)十二月三日、王政復古の大号令が発せられ、第一回の新政府会議が開かれました。このことは「徳川家へ実質的な権力は帰ってくる」と考えていた徳川慶喜と親幕府派の諸大名や公卿らにしてみれば、まさにクーデターでした。十二月二十五日、江戸薩摩藩邸を拠点としての治安攪乱や挑発行為の横行にたまりかねた幕閣は、幕臣・諸藩の兵を発して、江戸の薩摩・佐土原両藩邸を急襲し不穏分子の一婦をはかりました。この急報が二十八日、大坂城の徳川慶喜の許に届けられると、在坂の幕臣・会津兵・桑名兵から「薩摩討つべし」の声が上がり、ついに慶喜の挙兵上京が決定しました。
慶応四年(1868)一月三日正午過ぎ、薩摩藩討伐を掲げて、幕軍先鋒隊は淀城下を発し、鳥羽街道を北上しました。幕軍北上の動きを察知した薩長勢は、鳥羽小枝橋付近に布陣しました。
狭い鳥羽街道を縦隊で北上して来た幕軍が、小枝橋付近に到着したのは、すでに夕方近くでした。そこで「朝命により上京するので通せ」という幕軍と「何も聞いていないので通すわけにいかない」とする薩摩兵との間でにらみ合いとなりました。
薩摩の回答がない事にしびれを切らした幕軍は、再度交渉に向かいましたが、物別れに終わり双方が自陣に戻りました。その直後、鳥羽街道正面の薩摩砲が幕軍に向けて放たれました。こうして戦いの幕は切って落とされました。幕軍を待たせている間に臨戦態勢を整えていた薩軍は、この直後小銃の一斉射撃を行いました。西欧式装備の薩軍に対し、幕軍先鋒隊の見廻組五百余名は旧態依然の槍・刀を振りかざして肉弾戦を挑みました。銃弾の雨の中、多くの隊士が倒れていきましたが、これで時を稼いだ幕軍も銃を準備し、やがて壮絶な銃撃戦が開始されました。
それから約一時間ほどの激戦の末、日没とともに戦闘は終了しました。陣地とするべき場所を失った幕軍は下鳥羽まで撤退しましたが、薩軍は追撃しませんでした。
四日未明、松平豊前守以下約一千名の幕軍後続の中軍が合流した幕軍は、再び鳥羽街道を北上し、烈しく薩軍を攻めました。数時間の激闘の後、薩軍が後退もやむなしと思われたとき、新政府軍の援軍が到着し再び激戦となりました。薩摩を主力とする新政府軍は、御香宮神社を拠点として幕軍が陣した伏見奉行所とほとんど接していました。幕軍・新選組合わせて千五百名と、人数において勝っていた幕軍でしたが、火力に勝る新政府軍の攻撃を受けた幕軍は、午前十時頃、ついに横大路方面へ敗走しました。幕軍の拠点伏見奉行所は火を発し、日没頃には幕軍は敗走を余儀なくされました。前日、局長の近藤が狙撃され、傷の手当てのため大坂にいたため、土方歳三が隊士を指揮していました。土方は、得意の白兵戦で戦況を打開しようと、永倉新八の二番隊に塀を乗り越えて斬り込むように指示をしました。御香宮の西の京町通を通り、敵の背後を突くという作戦でした。しかし、途中で薩軍と衝突し小銃による銃撃を浴び、それ以上進むことができなくなり、永倉らはやむなく撤退しました。
7.戊辰戦争(1868年~1869年)
江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年。9月に明治と改元)正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始しました。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始されました(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩・津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となります。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。これによって旧幕軍は瓦解しました。以後、翌年までおこなわれた一連の内戦を1868年の干支である戊辰をとって「戊辰戦争」と呼びます。 東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣されました。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布しました。
江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となりました。
しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けました。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もりましたが、5月15日長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧されます(→上野戦争)。
そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は武装恭順の意志を示したものの、新政府の意志は変わらず、周辺諸藩は新政府に会津出兵を迫られる事態に至りました。この圧力に対抗するため、陸奥、出羽及び越後の諸藩により奥羽越列藩同盟(北部政府)が結成され、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立されました(東武皇帝)。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれましたが、いずれも新政府軍の勝利に終わりました。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索し蝦夷共和国の樹立を宣言しますが箱館戦争で、翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結しました。
その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離されました。明治4年(1871年)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉しました(→明治維新)。
8.出石藩出身者
川﨑尚之助 川﨑尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。
『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。
兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。
安政四年(一八五七)、川﨑尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。
戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。
その後の新島八重についてはここではくわしくは省きます。こちら
参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
『京都時代MAP 幕末維新編』 光村推古書院
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年11月号掲載
「但馬情報特急 但馬の事典」より参照
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。
この夕顔丸の船中で竜馬は、いわゆる『船中八策』をまとめました。
坂本竜馬・中岡慎太郎墓 霊山墓地(京都市東山区)(なお、靖国神社にも祀られている)
今井信郎
明治3年の刑部省での取り調べで、自分は見張りであったと証言していますが、家人には自分が龍馬を暗殺したと告白したといわれる。渡辺一郎(篤)
暗殺容疑者の中で幕末の動乱を唯一生き残り大正4年に死去している。高弟の飯田恒太郎に、龍馬は自分が斬ったと語ったいう。
桂早(隼)之助
子孫宅から、龍馬を斬った刀と関係資料が発見されている。
この他にも京都見廻組の関係者では、渡辺吉太郎、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎(以上、今井信郎の供述及び家人の口伝による)、世良敏郎等が関与したとされる。
6.大政奉還と王政復古
家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続しましたが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいました。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受けます。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が即位しました。 翌慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させましたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化しました。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつありました。
こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図ります。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を山内容堂に進言し、周旋を試みていました。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の外祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって10月14日に討幕の密勅が出されるにいたります。ところが同日、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、在京諸藩士の前で大政奉還を宣言したため、討幕派は大義名分を失うこととなってしまいました。ここに江戸幕府による政権は名目上終了します。
しかし、慶喜は将軍職も辞任せず、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わりませんでした。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画します。12月9日、王政復古の大号令が下され、従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言されました。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は将軍辞職および領地返上を要請されたのです。会議に参加した山内容堂は猛反対しましたが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定されました。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去しましたが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまいます。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発しました。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちしました。
なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られました。
翌慶長三年(1866)十二月三日、王政復古の大号令が発せられ、第一回の新政府会議が開かれました。このことは「徳川家へ実質的な権力は帰ってくる」と考えていた徳川慶喜と親幕府派の諸大名や公卿らにしてみれば、まさにクーデターでした。十二月二十五日、江戸薩摩藩邸を拠点としての治安攪乱や挑発行為の横行にたまりかねた幕閣は、幕臣・諸藩の兵を発して、江戸の薩摩・佐土原両藩邸を急襲し不穏分子の一婦をはかりました。この急報が二十八日、大坂城の徳川慶喜の許に届けられると、在坂の幕臣・会津兵・桑名兵から「薩摩討つべし」の声が上がり、ついに慶喜の挙兵上京が決定しました。
慶応四年(1868)一月三日正午過ぎ、薩摩藩討伐を掲げて、幕軍先鋒隊は淀城下を発し、鳥羽街道を北上しました。幕軍北上の動きを察知した薩長勢は、鳥羽小枝橋付近に布陣しました。
狭い鳥羽街道を縦隊で北上して来た幕軍が、小枝橋付近に到着したのは、すでに夕方近くでした。そこで「朝命により上京するので通せ」という幕軍と「何も聞いていないので通すわけにいかない」とする薩摩兵との間でにらみ合いとなりました。
薩摩の回答がない事にしびれを切らした幕軍は、再度交渉に向かいましたが、物別れに終わり双方が自陣に戻りました。その直後、鳥羽街道正面の薩摩砲が幕軍に向けて放たれました。こうして戦いの幕は切って落とされました。幕軍を待たせている間に臨戦態勢を整えていた薩軍は、この直後小銃の一斉射撃を行いました。西欧式装備の薩軍に対し、幕軍先鋒隊の見廻組五百余名は旧態依然の槍・刀を振りかざして肉弾戦を挑みました。銃弾の雨の中、多くの隊士が倒れていきましたが、これで時を稼いだ幕軍も銃を準備し、やがて壮絶な銃撃戦が開始されました。
それから約一時間ほどの激戦の末、日没とともに戦闘は終了しました。陣地とするべき場所を失った幕軍は下鳥羽まで撤退しましたが、薩軍は追撃しませんでした。
四日未明、松平豊前守以下約一千名の幕軍後続の中軍が合流した幕軍は、再び鳥羽街道を北上し、烈しく薩軍を攻めました。数時間の激闘の後、薩軍が後退もやむなしと思われたとき、新政府軍の援軍が到着し再び激戦となりました。薩摩を主力とする新政府軍は、御香宮神社を拠点として幕軍が陣した伏見奉行所とほとんど接していました。幕軍・新選組合わせて千五百名と、人数において勝っていた幕軍でしたが、火力に勝る新政府軍の攻撃を受けた幕軍は、午前十時頃、ついに横大路方面へ敗走しました。幕軍の拠点伏見奉行所は火を発し、日没頃には幕軍は敗走を余儀なくされました。前日、局長の近藤が狙撃され、傷の手当てのため大坂にいたため、土方歳三が隊士を指揮していました。土方は、得意の白兵戦で戦況を打開しようと、永倉新八の二番隊に塀を乗り越えて斬り込むように指示をしました。御香宮の西の京町通を通り、敵の背後を突くという作戦でした。しかし、途中で薩軍と衝突し小銃による銃撃を浴び、それ以上進むことができなくなり、永倉らはやむなく撤退しました。
7.戊辰戦争(1868年~1869年)
江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年。9月に明治と改元)正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始しました。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始されました(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩・津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となります。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。これによって旧幕軍は瓦解しました。以後、翌年までおこなわれた一連の内戦を1868年の干支である戊辰をとって「戊辰戦争」と呼びます。 東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣されました。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布しました。
江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となりました。
しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けました。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もりましたが、5月15日長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧されます(→上野戦争)。
そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は武装恭順の意志を示したものの、新政府の意志は変わらず、周辺諸藩は新政府に会津出兵を迫られる事態に至りました。この圧力に対抗するため、陸奥、出羽及び越後の諸藩により奥羽越列藩同盟(北部政府)が結成され、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立されました(東武皇帝)。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれましたが、いずれも新政府軍の勝利に終わりました。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索し蝦夷共和国の樹立を宣言しますが箱館戦争で、翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結しました。
その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離されました。明治4年(1871年)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉しました(→明治維新)。
8.出石藩出身者
川﨑尚之助 川﨑尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。
『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。
兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。
安政四年(一八五七)、川﨑尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。
戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。
その後の新島八重についてはここではくわしくは省きます。こちら
参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
『京都時代MAP 幕末維新編』 光村推古書院
三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年11月号掲載
「但馬情報特急 但馬の事典」より参照
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