たじまる 現代-3 領土問題

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領土問題

概 要

目 次
戦後いまだ解決されていない外交問題に領土問題がある。

  1. 北方領土
  2. 竹島問題
  3. 尖閣諸島

以下は、戦後、日本に復帰した領土。

  • トカラ列島 1952年(昭和27年)2月10日復帰。
  • 奄美群島  1953年(昭和28年)12月25日復帰。
  • 小笠原諸島 1968年(昭和43年)6月26日復帰。
  • 沖縄県   1972年(昭和47年)5月15日復帰。
    にもかかわらず、北方領土、竹島問題、尖閣諸島においては、国際法によって、日本固有の領土であるにもかかわらず、主張している国とによって解決していない。領土問題は、植民地問題と並んで戦争やテロのきっかけになりやすく、過去に日本を初め世界各国で領土問題を発端に戦争が起きたこともある(ノモンハン事件、印パ戦争など)。これら領土問題を戦争に発展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じている。

1.北方領土


『日本人の歴史教科書』自由社

主にウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。日本政府は、歯舞群島と色丹島は千島列島に属さないとしている。

地理

千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。

プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年(平成19年)1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))

千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。

列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。

生態系列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。

千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。

魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならなかった。1960年代以来これらの狩猟の報告はなく、アシカやトドの生息は順調で、場所によっては増えている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲され、ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。歴史歴史をさかのぼれば、樺太(サハリン)および千島列島はアイヌ民族が住んでいました。

日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている。

江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している。

  • 1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出
    この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
  • 1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻
    占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
  • 1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める
    ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
  • 1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
  • 1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
  • 1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
  • 1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す
    同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
  • 1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
  • 1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
  • 1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
    この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
  • 1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
  • 1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
  • 1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
  • 1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
  • 1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhohttps://kojiyama.net/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
  • 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定した。
    その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。
  • 1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)。
  • 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
  • 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。
  • 1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
    しかし、国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北である。ソ連は国後島・択捉島など4島も千島列島に含まれると主張している。
    北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
  • 1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。
  • 1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。 政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こったが、親米路線の吉田茂首相は単独講和路線を採用した。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮戦争で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。
    また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。
  • 1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。
  • 1956年10月12日、鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。
    同年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、国会承認をへて、同年12月12日に「日ソ共同宣言」を発効した。外交文書(条約)。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。
    しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。
  • 1957(昭和32)年、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
  • 1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。
  • 1973(昭和48)年、田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)いわゆる北方領土問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。
    1855(安政元)年、日本とロシア帝国は、「日露和親条約(下田条約)」で日本は千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方四島は含まれないと説明される。その根拠に、のちの1869(明治2)年、「樺太・千島交換条約」第二款では、千島列島(クリル列島)とカムチャッカ半島南のシュムシュ島からウルップ島18島とされていることがあげられる。
    フランス語正文では、『現在自ら(ロシア)所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』に対応する語が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たないとしている。しかし、千島18島に4島は含まれないのは樺太・千島交換条約で明白である。現在、日本の国会に議席を持っている政党の中で日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれる(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う)。ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。

2.竹島問題

竹島(たけしま)は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島。日本領・隠岐と竹島の距離は両島の一番近いところで約157km、韓国領・鬱陵島と竹島の距離は両島の一番近いところで約87kmである。

竹島が発見された正確な年月は不明ですが、遅くとも江戸時代初期には日本人に知られていました。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島・韓国名・独島)については渡航を禁じませんでした。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。明治37年(1904年)隠岐島の住人中井養三郎という人が、竹島においてアシカ猟を行うため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました。これに対して政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において同島を正式に竹島と命名し、本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする旨決定しました。これに基づいて、島根県知事は同年2月22日付けの島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。さらに、同年には隠岐国四郡の官有地台帳への登録、漁業取締規則によるアシカ漁業の許可、仮設望楼の設置、知事の視察、また翌39年には島根県第3部長らの現地実態調査が行われ、その後も漁業者への官有地の貸付と使用料の徴収など、行政権の行使が継続して行われました。国際法上領土取得の要件は、国家による当該土地の実効的な占有です。日本は竹島に対して歴史的な権原をもっていましたが、20世紀以降の措置によって近代国際法上の要件も完全に充足されました。

島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島(韓国名・独島)と取り違えて報道するケースがあるという。
竹島は、国際法に照らしてもわが国固有の領土であることは明らかです。


(島根県)

1952年、当時の大韓民国(以下、韓国)大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、現在も韓国側が武力による占有をしているため、日本との間で領土問題が起きている。

日本の行政区画は島根県隠岐郡隠岐の島町(郵便番号は685-0000)。韓国、北朝鮮側では独島(獨島、ドクド、Dokdo)と呼称し、その行政区画は、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里となっている。現在、韓国海洋警察庁を傘下にもつ大韓民国海洋水産部の管理下にあり、韓国・北朝鮮は自国の最東端の領土であるとしているが、日本は国際法上適法な日本固有の領土であるとしている。

経 緯

  • 1618(元和4)年:伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛ら幕府から許可を得て竹島(当時は「松島」と呼ばれていた)に渡航。
  • 1692(元禄5)年:鬱陵島(当時日本では「竹島」と呼ばれていた)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
  • 1696(元禄9)年:江戸幕府が鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が鬱陵島・于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
  • 1849(嘉永2)年:フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩とも呼ばれる)。
  • 1877(明治10)年3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達された。
  • 1900(明治33)年10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道の郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
  • 1904(明治37)年2月6日:日露戦争が勃発。
  • 1904年8月23日:第一次日韓協約が締結。
  • 1904年9月29日:島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出。
  • 1905(明治38)年1月28日:本項で詳述されている島について、日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
  • 1905年5月27日-5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
  • 1905年11月17日:第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
  • 1910(明治43)年8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
  • 1914(明治47)年:鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
  • 1940(昭和15)年8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。
  • 1945(昭和20)年9月2日:日本政府がポツダム宣言を受諾。
  • 1945年11月1日:海軍省廃止により、竹島が大蔵省へと移管。
  • 1946(昭和21)年1月29日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN(SCAP Institutions)677号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」)により、竹島に対する日本政府の施政権が暫定的に停止された。
  • 1946年6月22日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」)によりマッカーサー・ラインが制定され、竹島周辺海域での漁業活動に制限が加えられた。
  • 1948(昭和23)年8月13日:大韓民国建国。初代大統領に李承晩就任。
  • 1951(昭和26)年8月10日:ラスク書簡により「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示された。
  • 1952(昭和27)年1月18日:韓国政府が李承晩ラインを一方的に宣言。
  • 1952年4月28日午後10時30分(日本時間):サンフランシスコ平和条約が発効
  • 1953(昭和28)年1月12日:韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。
  • 1953年2月4日:第一大邦丸事件。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。この竹島問題によって、日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
  • 1953年4月20日:韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯した。
  • 1953年6月27日:日本国海上保安庁と島根県が竹島の調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てる。難破後、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。
  • 1953年7月12日:竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲。以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
  • 1954(昭和29)年8月15日:朝鮮戦争を共に戦ったジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として使節団を率いて極東各国を歴訪し、ヴァン・フリート特命報告書を作成。竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を、非公式に韓国に伝達した等の事を大統領に報告した。
  • 1954年9月25日:日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案したが、韓国政府はこれに応じず。
  • 1954年11月30日:韓国側が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃をくわえる。
  • 1956(昭和31)年4月:韓国警察鬱陵警察署警官8名が島に常駐。
  • 1956年12月25日:独島義勇守備隊解散
  • 1965(昭和40)年:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が調印され、李承晩ラインが廃止された。竹島問題は紛争処理事項であるとされたが、その後韓国は竹島の領有問題は紛争処理事項でないとの立場を取り、交渉のテーブルに着いていない。
  • 1977(昭和52)年2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。
  • 1982(昭和62)年11月16日:韓国、竹島を天然保護区域に指定(独島天然保護区域)。
  • 1997(平成9)年11月:韓国、500トン級船舶が利用できる接岸施設設置。日本政府は抗議。
  • 1998(平成10)年12月:韓国、有人灯台設置。日本政府は抗議。
  • 2004(平成16)年1月:韓国、竹島を図柄にした切手を発行。日本政府は抗議。
  • 2004年2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否。
  • 2004年3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施。
  • 2005(平成17)年3月16日:島根県議会が、竹島の日条例を可決。
  • 2005年6月9日:慶尚北道議会が島根県に対抗して10月を独島の月とし、日本との交流を制限する条例を制定。
  • 2006年4月6日:ヨルリン・ウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員がラジオ放送にて国際法上で領土紛争地域化する戦略を発表。
    日本国外務省
    サンフランシスコ講話条約における竹島の扱い1.1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。2.この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。3.この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。「合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。4.また、ヴァン・フリート大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。
    以上

3.尖閣諸島

尖閣(せんかく)諸島は、1885(明治18)年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。

同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895(明治28)年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。

従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971(昭和46)年6月17日、署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものだ。

なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものだ。

また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。

出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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