延喜式神名帳に記載されている神社を式内社というが、平安期に作成されたその記載から、江戸期にはすでにその神社が廃絶となったり、その論社であるとする神社が多々ある。
当時、延喜式に記載された各地の神社が指定された経緯は、当時のその土地の歴史を知る上で欠かせない貴重な証であることには変わりない。
中でも厄介なのが、大和国(奈良県)と山城国(今の京都府南部)。ともに平城京・平安京など歴史的に大きな都が置かれた地域ではあるが、幾多の戦乱などにより、かつてそこにあったであろう式内社が廃絶したり、不詳になっている社が多いのも、大和・山城である。
したがって、その土地々々で我が村の神社こそ式内○○であるという神社がある。それを論社という。
廃絶して、旧社地は分かっているが、近隣の神社に遷座されたり、合祀されて残っているケースもあれば、まったくもって、論拠が不明なケースも有るのだ。
疑問が起きるのは、論社がいまその場所にあることがどうかではなく、歴史を知る上では、延喜式が作成された当時には式内社がどこに置かれていたのか?なのである。日本では神社こそ政治(まつりごと)の中心であり、今風にいえば役所であり行政であったのだ。政は、祀り、祭りとも同義で、要するに祭りは政ごとなのだった。単純に考えてみれば、もうアメリカナイズから開放されるべきであるといえる。私もビートルズや西洋かぶれで育った世代だが、だんだん分かってきたのは、日本の伝統文化は世界的に見ても最古の国家で、特筆すべき価値が有ることに気づいたのだ。その地域は当時は村があり、都として重要な場所であり発展していたことは間違いないからだ。論社がいまどこかは意味があるのだろうかと思うのであるが、論社があらわれるにはそれなりにいろいろな理由があるだろうし、すでに分からなくなってしまっているのである。
今日ではITの進化で、Googlemapに式内社を記録し、最短でまわるルートを表示することで気づくこともある。式内社の論社が氾濫する川岸で不自然であったり、他の式内社と近すぎると気づくこともある。
グローバル社会こそ、日本の歴史を見直し、知らなければ日本は世界に発信できないし、戦後なんともったいないことをしてきたんだろう。
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