丹後の古墳 竹野川流域の古墳群

丹後半島最北端経ヶ岬

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後国旧中郡(大宮町、峰山町)と、旧竹野郡(弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、丹国(古丹波)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

竹野川流域の古墳群

丹後町平海岸にある平遺跡(へいいせき)は、縄文時代前期から中期・後期・晩期にわたるものと判明し、深さ約4mにもおよぶ砂丘の包含層から多量の土器や石器が出土しました。一説では丹波という国名の由来ではないかいわれている峰山町丹波の湧田山(わきたやま)古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群です。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明ですが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。

竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山(しんめいやま)古墳に次ぐものであり、丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要です。5世紀の初めころに築造された古墳とされ、ただし、墳形からもう少し古い古墳ではないかという説もあるようです。 むしろ日本海側竹野川流域の地域で栄えていたのが丹波の中心地であったのかも知れません。

丹後半島の最東北部に位置する丹後町では、神明山古墳(丹後町宮小字家の上)、産土山古墳、横穴式石室を内部主体とする片山古墳、大成古墳群、金銅装双龍環頭太刀柄頭が出土した高山古墳群などがあります。

大宮町は、丹後大宮のひとつ大宮売(おおみやめ)神社と周辺からは古代弥生時代の頃からの遺跡が多数見つかり、女王墓と確認された大谷古墳、丹後では最大規模の石棚を持つ横穴式石室の新戸古墳、弥生時代からの方形台状墓を持つ小池・帯城の古墳群などが残されています。

丹後最大級の円墳であるカジヤ古墳(峰山町大字杉谷小字カジヤ)は、長径約73メートル、短径約55メートル、高さ約9メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳でした。昭和47年2月に土木工事に伴って峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見されました。副葬品は第一、三、四主体部から検出され、特に第一主体部の副葬品は質量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われています。

副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなりますが、特に注目されるのは鍬形 石、車輪石、石釧等の石製腕飾類が一括して出土したことは、丹後地方では初めての例です。畿内との交流を深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値はきわめて高い。
また京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳丘墓は、弥生時代後期としては国内最大級の墳墓であり、世界で2例目となる中国の顔料「漢青」(ハンブルー)が含まれたガラス管玉が出土するなど古代中国との交流をうかがわせる内容で、鉄(銅)製武器や工具類、玉類が同時期の他地域の墳墓に比べ非常に多く副葬されていることも注目されます。

赤坂今井墳丘墓は、ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」や垂下式の豪華な「耳飾り」が発見されました。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた人物の頭を取り巻くように並んでうことから、頭を飾る宝冠のようなものと推測されています。このような玉類を使った頭飾りの出土は、国内や中国・朝鮮半島でも例がありません。また、この古墳の被葬者が埋葬された時期は、邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります。

他にも、両袖式横穴式石室の桃谷古墳(峰山町)、弥栄町では、府内では例をみなかった装飾付水さしと角杯形土器が出土した大耳尾古墳群、ニゴレ古墳、さらに1994年、日本最古の魏鏡と一躍全国に名をはせた弥栄町と峰山町にまたがる太田南古墳など、有名・無名を問わず数え切れない多くの古墳が存在しています。

神明山古墳(しんめいやまこふん)

【国指定史跡】 京都府京丹後市丹後町大字宮

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています。

かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。

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