東構区の元となった小字北構は宵田城か祢布城どっちの構か?!

宵田・祢布字限図

豊岡市役所日高総合支所にて明治時代の字限図をいただいた。
当時の気多郡日高村祢布にょうと岩中の字限図を合成したが、市役所の担当の方もおっしゃっていたように、かなり境の記載が手書きによりいい加減なところがあるが、時代的に測量技術が現在と比べて未熟でも祢布と岩中の大字の境は知ることができた。

拙者が住む東構ひがしがまえ区は、第二次但馬国府推定地大字祢布にょうの南部と、山名四天王の一人で気多郡を治めていた垣屋氏の宵田城があった大字岩中北部が、日高村の中心部として発展を遂げ、大正時代に独立して区として誕生し、旧日高町では新しい今年で100周年を迎えた区である。「ひがしかまえ区誌」(昭和60年1月10日発行)によれば、東構区の区名は、大正4年4月25日、日高村議会に新区設立を申請し承認を受けたのが東構区の誕生である。

その際の村議会議事録には、
「議会申請第拾七号議案
西気県道筋 岩中村所属 祢布村所属ヲ合ワセ行政上便宜ノ為一ノ行政区ヲ設置其ノ名称ヲ
東構ト定ム」
日高村長 藤本 俊郎 印
認可ス 印

新区は、大字祢布と大字岩中から成り、大字岩中字東柳の「東」と大字祢布字北構の「構」をとり東構区と名付けられたものである。

構(カマエ)とは何か

上記の通りよく東構があるなら西構はないのかとか聞かれたりするが、東は岩中字東柳の「東」で、東西の方向ではない。明治になって日置郷と高田郷、高生郷が合併し「日」と「高」の1字ずつをとって日高村が誕生したのと似ている。その「東柳」は岩中の東に柳の木があったからなのだろうが、東構区から祢布への旧道から拙者の自宅も字東柳で、日高小学校は当初東柳小学校という名称だった。では「構」とは何を意味するのだろうかと幼い頃より疑問があった。これは区の境界のうち、久斗との境界はことぶき苑入口西の現在工事が行われている豊岡自動車道で、工事前の調査の際に古墳や居館跡が発掘され、南構遺跡と名付けられた地点である。県道をはさんで北側が祢布字北構、南側から稲葉川までを南構という。

この地点は明治まで気多郡高田郷で、但馬国府が置かれていた高田郷祢布内であり、気多郡をはじめ但馬の中心部であった。高田は久斗区がかつては高田村と呼び、国史文書『但馬郷名記抄』には、高田郷は高機郷なり。雄略天皇の御世十六年夏六月、秦の伴部を置く。養蚕・製糸の地なり。
とある。平成になり閉鎖されたグンゼ日高工場があったこともその証である。今でも久斗区内の旧家には、三階の部分に蚕室を設けた三階建ての住居は、養蚕がさかんだった名残りが伝わるのである。

さて、話を東構区に戻そう。
『但馬郷名記抄』にはその名の通り郷名、村名までで、残念ながら小字までは記されてはいない。まあそこまで調べるのは大変であるし、その必要性は薄かったのだろうか。

高田郷は稲葉川に沿った気多郡の東西と但馬の中心部を南北に流れるの円山川が流れる交通の要所で、古くは但馬国府・国分寺が置かれていた場所である。西から夏栗・久斗くと・祢布にょう・国分寺・水上で、今の区では、夏栗・久斗くと東構ひがしがまえ祢布にょう・国分寺・水上みのかみにあたる。

構は御土居ともいい、近世以降の城郭では、大阪城、姫路城のようにそのぐるりと囲む惣構(総構)のことである。しかし宵田や祢布城は、そのような広大なものではなかったし、すでに祢布城があった頃に祢布の字であるので北構と南構ができたと考えるのが自然だと思う。

祢布城があった丘の小字は祢布字城山で、付近に祢布区の旧村社、楯石神社がある。宵田城の北で円山川の支流、稲葉川を越えた宵田城は高生郷であるのに、すぐ城の近くまで高田郷祢布字丁子となっていることだ。これはのちに室町時代に高生郷岩中に佐田の楽々前城の支城として築城された宵田城より古く、祢布城が南北朝期にはのちに宵田城が築かれた高生郷岩中字城山に隣接する北面まで祢布としてすでに開発されたのであり、祢布の小字、北構・南構・丁子がすでにあったのではいかと思えるからである。北構と南構は高田郷祢布の小字であるし、宵田城を険しい斜面の下に流れる稲葉川で挟んだ反対側で、地図のように高生郷岩中の宵田城のすぐ北側までが、高生郷とは違う高田郷祢布の字名が稲葉川の南岸まで南北に細長く連なっている。

祢布城は宵田城築城より古く、宵田城の西麓までが祢布字丁字とあるから、北構・南構はこの2城のいずれかの構だとすると祢布城のものと考えるのが自然だろう。宵田城により開墾されたものであれば、岩中の字になるはずで、築城以前にすでに、祢布北構・南構・丁字は地名としてあっただろう。祢布城は南北朝期の城であるが戦国期に改修したあとがあるそうだ。宵田城の支城として両側から敵に備えるために祢布城と宵田城の中間の西気街道の北と南の両側に土塁(構)を築いたのなら、祢布の構も宵田城の構でもあり同じことだが、宵田城築条以前から祢布字北構・南構・丁字が宵田城のすぐそばまであったと思えるから、宵田城築城以降の戦国期に名付けられたものとは考えにくいのではないだろうか。どうも構という小字はこの頃に生まれたと考えるがどうであろう。

ちなみに、祢布字北構の東に字サヲリがある。サヲリとは何だろうか。  ウィキペディアによれば、日本の女性の名前のひとつ。漢字表記は「沙織」「紗織」「佐緒里」など。仮名で「さおり」「さをり」「さほり」と書く例も多い。また、田植え前に作業の無事を祈る祝祭を「さおり」、田植えの終了時に豊作を祈る祝祭を「さのぼり」とよぶ(当地ではさなぼりと云う)。稲の神「さ」が田圃に「おり」てくることを語源とする説が有力である。

これらに語源が見つけられるとすれば、田があり、豊作を祈ってサヲリと名づけたのではないだろうか。祢布城から宵田城の稲葉川をはさんで北側一体は奈良時代までは林野であったらしく、岩中荒田の北は岩中字東柳、北西は祢布字祢布ケ森、字ガケガ森、字松ヶ花、西は字井森木と、樹木が生い茂る野原だったと思わせる小字名が連なっている。

宵田城(別名:南龍城)は、室町時代(永享2年:1430)の築城で、稲葉川がカーブする地の利を生かして南北に流れる円山川流域と気多郡の東西が見渡せる楽々前城と同じ尾根にあり絶好の地形にあるが、祢布城と宵田城とは郷が異なる。高生郷の岩中から稲葉川を渡った鹿嶋神社からが登り口である。すぐ北が宵田で、宵田城主の垣屋氏の殿屋敷があったので宵田殿と呼ばれていたと思われる。宵田殿の城という意味から岩中城ではなく宵田城と呼ばれたのだろう。宵田という地名は他の豊岡城下、出石にも残る。垣屋氏が木崎城(のち豊岡城)の城代を務めたことから豊岡市宵田町という地名が残り、出石には山名氏の有子山城下に山名四天王で気多郡を任された垣屋氏の居館があったとされる宵田町、城崎郡を任された田結庄氏の田結庄や養父郡を任された八木氏の八木がある。

稲葉川は城の北は深いが岩中では浅く広くなり登城口に岩中区の村社である鹿島神社があり、高田郷祢布字北構・南構の方面から稲葉川を渡って字北構・南構の方面から稲葉川を渡って登城したような道はあったのだろうか。宵田城の本丸までの大手は岩中側からで、城の北面にも小さな郭がいくつも築かれているものの、しかも崖が険しく天然の堀である稲葉川対岸に二重に構を作って宵田城を守る必要があったのであろうか?今では用水を兼ねた小さいコンクリート橋がかかっているが崖が険しく、稲葉川対岸に渡れるようになっていたとは考えにくい。搦手口として尾根伝いに楽々前城まで繋がっていたとも伝え聞く。ここの川幅は短く木橋をかけることは容易だろうが、稲葉川を渡っていた宵田城の市場や構として築いたとは考えにくいのである。

構の3つの説を考えてみた。

1.居館等の構造物だとする


豊岡自動車道工事中に見つかった南構遺跡(2013)

「構」を住居跡や井戸などの建造物や工作物とする見方もある。住居跡には珍しい古墳も築かれているので、国府が置かれる奈良時代以前からこの場所にはかなり位の高い人がいたようだ。祢布字北構・南構という小字名がいつごろからそう呼ばれるようになったのかは不明だが、すぐ西は久斗字市場。祢布字南構は、西は久斗、その東は岩中字荒田という。南北に細長く延びた字で、稲葉川を挟んだ対岸から宵田城西域までかなり広い字が祢布字丁字と祢布になっていることが不自然なのだ。祢布は実に大きな区域で、北は集落からかなり奥の深い谷から、久斗と岩中の間に字北構・南構が挟まれるように続き、さらに稲葉川対岸の宵田城西まで細長く延びていることがわかる。西気、三方から国府や円山川に向かうには、この細長い祢布の区域を避けては通れないようになっている。また、南構に隣接する字は祢布が森にあった但馬国府の高官が構えていた居館ではないかとも考えられる。

2.公有地を囲っていたから北構、南構

南構から稲葉川を挟み宵田城(岩中区字城山)の西の麓まで祢布で祢布字丁字となっている。丁は田の面積を表す丁(町)で、その丁の小字という意味か。(すぐ南に岩中字蝶子谷がある。「ちょうじだに」と読むのだろうから、丁字と蝶子谷は同音異字で、他に意味があるかも知れない。)小字は、奈良時代にはすでにそのような人工的な人の集積地、構造物や田畑があったことを示し地名がすでに存在していたとすると、久斗字市場や岩中荒田よりも古くから祢布だったようである。「構」はカマエ、コウとも読む。構造物以外に囲いの意味もある。国府の公有地であると防御のために囲っていたのかも知れないが、思い当たるのが奈良時代前期の三世一身法や、のちの墾田永年私財法である。

奈良時代中期の聖武天皇の治世に、自分で新しく開墾した耕地を永年私財化を認める、つまり何代も私有化できるように定めたことだ。祢布村の人が開いた田畑だったのではないか。今では雑木林となっているが、私有化が許されて、子や兄弟が山々の奥地まで耕作地を開いたのかもしれない。岩中は高生郷で『但馬郷名記抄』に矢作部ヤハギベ(おそらくのちの地下村で今の岩中西部)、善威田ヨヒダ(今の宵田)、善原エバラ(今の江原)、稲長イナガ(今の岩中)。「古語は多可布。威田臣荒人の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく」とある。おそらく律令期以降墾田されたことに由来するとすれば、稲長の新田シンデンをアラタと読み、荒田に変化したのか、実際に荒れた土地だったか、また威田臣荒人の末裔の田という意味から荒田としたのかいずれによるのかは定かではないが、そのどれかで間違いないだろう。

祢布に隣接する岩中北部の小字名が荒田、焼辻、中坪など墾田による人工的な手を加えたものによる地名で、北構・南構の東に字郷境がある。今の日高医療センター(旧日高病院)がある岩中の小字で、今はすっかり街なかになっているが、当時、郷の境には人が住んでいなく何もない寂しいところであったと思われる。荒田が開発され、野が焼かれて田畑になったところが焼辻であろう。荒田と書くが新田しんでんを「あらた」と読み、荒田と書くようになったのかもしれない。

3.祢布城か宵田城の構(御土居)

私は祢布字北構・南構は、祢布城か宵田城の御土居をさすのではないかと思うのである。敵が攻めて来にくいいように城や屋敷の周囲を土塁で囲むもので惣構という。その土塁を御土居ともいい、土を盛って防御した。姫路城下など全国に御土居や御土居町の地名が残っている。宵田城のすぐ北に南北朝の頃に築城されたとする祢布城がある(但馬国府・国分寺館のすぐ裏手の小山)。どこの城の構を意味するのだろうか疑問があった。この構は宵田城の構(堀や石垣、土塁で囲い込んだ日本の城郭構造)であるとされているが、本当に宵田城の構なのかと思うからである。

拙者は、「構」は、3.の城の防衛のために垣屋氏が設けた構(土居)だとする説が濃厚だと思う。

以前に引用させていただいた宿南保氏『但馬の中世史』の図をもう一度見てみよう。

本文にこう著されている。

垣屋氏が主家の山名氏と存亡を賭けた戦いを交えるようになって、惣領家の越前守家は再び故地に還り、「永正九年(1512)亀ヶ崎城ニ移ル」(『因幡垣屋系図』)仕儀になったものと推定する。(中略)

鶴ヶ峰城に惣領家が移ったあとの楽々前城には、宵田城から越中家が移って入ったといわれる。宵田城へは惣領家の分家、垣屋新五郎豊成の子孫が入ったのではないか。(中略)

東西に伸びるこの谷の入口部を制する位置の南側の山上に宵田城、その向かいの北側の山上に祢布城があって、その両域を結ぶ平地部の直線上には、「南構」「北構」の小字名が橋渡しのように接続している。明確に入口部に防衛線が構築されていたことを物語っていよう。南構と北構の境界線上には街道があって、それが西方向へと伸びていたのだろう。南構の西に細長い「市場」字名の存在することは、街道沿いに市場の形成されていたことが読み取れる。(中略)
美含みぐみ郡竹野郷は垣屋駿河守家の所領であったことはしばしば述べた。垣屋氏三家は、現在の日高町域から竹野町域にかけての連続した地域を勢力圏としていたことがわかろう。この地域を根城に、垣屋氏は主家山名氏に対抗したのであった。

円山川支流稲葉川沿いに西から鶴ヶ峰城、楽々前城、宵田城の垣屋氏の城がほぼ等間隔に並んでおり、山名氏が出石方面から攻め入るにはまず谷の入口部にあるのが宵田城で、祢布城は戦国期にも改修されたらしいので宵田城と祢布城をその支城とし、南北で西の下谷(三方盆地)の最前線に第一防衛線として構を築いたのではないだろうか。第二防衛戦が楽々前城、最後の本陣が鶴ヶ峰城なのである。

  
左祢布城・右国分寺山城             宵田城

  
西下谷(三方盆地)から眺める気多谷(夏栗から久斗)。右手が楽々前城から宵田城への佐田連山。左手が久斗

但馬の城郭研究の第一人者、西尾孝昌先生の『豊岡市の城郭集成Ⅱ』によれば、南北朝から戦国期にかけて垣屋氏の本城楽々前城、久斗城、祢布城、国分寺城と城が東西に細長く密集しており、戦国以降に宵田城が築城されるなど要衝であったことは明らかだ。祢布城は標高110mの丘陵突端にある。城域は東西80m、南北約140mの宵田城とは比較にならない規模だ。城主は高田次郎貞永であり、南北朝の頃、山名時氏によって滅ぼされた(『但馬の城』)というが定かではない。しかし曲輪や堀切などはしっかりしており、戦国期に改修されてる。規模的には地侍クラスの「村の城」であるが、戦国期には東の国分寺城と共に宵田城の支城として神鍋・三方の谷を監視・封鎖する役割を担っていたものと思われる。

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