旧日高町内に多い垣のつく区名

豊岡市日高町の旧日高町内には、頃垣、猪子垣、篠垣と◯◯垣という区名が多い。市内で区と呼んでいるのは、明治以前までの村名で、平安期に編纂された『但馬郷名記抄』によれば、他にも頃垣の近くには漆垣という村があった。また、芝も当時は柴垣、国府地区の西芝は、芝垣と書していた。同史で餘部等の部の付く村名はあるが、但馬の旧八郡でも垣の付く村名は、他では見られない気多郡(旧日高町)の特徴である。

垣は民部(カキベ)の転訛したもの

垣というと垣根や石垣、神社の周りに張りめぐらせた瑞垣等をイメージするが、『但馬郷名記抄』によれば、垣は民部(かきべ)が転訛したもののようである。篠垣は「篠民部」、猪子垣は「亥猪民部」(古語は為能己訶支部)、頃垣は「己呂訶伎」。

民部(カキベ)とは

『日本大百科全書』には、

民部とは、664年(天智称制3)の甲子(かっし)の改革で設定された身分階層の一つで、家部(やかべ)とともに諸氏に設定された。その性格・意義については諸説があるが、大化改新によって公民になった民衆への私民的支配の復活や、また後の律令(りつりょう)制の帳内(ちょうない)・資人(しじん)的な従者の源流と推測するよりも、なお広く残っていた諸氏の私民的支配に、国家権力による統制を加え、その認定・登録を図ったものとすべきであろう。民部・家部は670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)に載せられ、壬申(じんしん)の乱を経た675年(天武天皇4)、家部よりも身分の高かった民部(部曲(かきべ))は公民化された。[野村忠夫]

部は、大和王権の制度である部民制(べみんせい)がはじまりで、王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。その集団である村が、墾田永年私財法によって平民化したものが「部落」であり、朝来市物部、養父市軽部、美方郡香美町余部(50戸に満たない村の総称で固有地名ではない)などが区名として、また豪族名として日下部氏、石部、伊福部などが残っている。

 

 

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