鶴城があった愛宕山。山頂へは険しそうなので行かず。
山名四天王のひとり、田結庄氏(是義)は、我が町日高町(旧気多郡)を収めた垣屋氏と仲が悪かったそうだ。
是義は愛宕山に鶴城を築いて居城とし、太田垣輝延、八木豊信、垣屋光成らと但馬を四分して勢力を広げた。やがて、但馬に出雲の尼子氏が勢力を伸ばしてくると尼子氏に味方した。
その後、織田信長の天下統一の過程で但馬は、織田党(山名祐豊・田結庄)と毛利党(垣屋・八木・太田垣)に分かれた。山名祐豊は天正三年(1575)春、毛利氏と同盟しが、田結庄是義は織田党色を鮮明にし、竹野轟城主垣屋豊続との対立が熾烈化した。そして十月、織田方=田結庄氏と毛利方=垣屋氏との間で、代理戦争ともいわれる野田合戦が起こった。
この合戦によって垣屋豊続は但馬を完全に毛利党に統一し、毛利氏の対織田防御ライン(竹野~竹田)を構成する繋ぎの城として、鶴城・海老手城の両城を確保した。一方、野田合戦に敗れた、田結庄氏は勢力を失い没落していったといわれる。
【資料:兵庫県大辞典など】
鶴城とは、コウノトリをさしているもと想像するのが自然だと思われる。この付近一帯はコウノトリの生息地で知られ、久々比神社、現在コウノトリ郷公園が近くにある。