高生田城(たこうだじょう)落城
朝来市和田山町糸井の寺内と高生田の境の山に、中世戦国時代の山城の跡があります。この城を高生田城または福富城と呼んでいます。
この城は山名宗全が全盛のころの山城のひとつで、規模は小さいですが、豊臣勢に滅ぼされるまでは、堅固な城として栄えていました。この城に登る道が、南山のすそから大手門道、寺内の前谷というところから登る道、東の方からの道、北の城ヶ谷から登る道の四つがありました。
寺内の前谷というところも狭い谷間ですが、この奥に「奥市のだん」または地元の人々が「市場」というところがあって、昔は商家も建ち並び、城へのまかないも受け持っていたと言い伝えられています。そしてそこから一ノ段、二ノ段、三ノ段があり、その奥に城の館があったといわれていますが、いまはそのあともはっきりとは残っていません。
この城の城主は、出石・桐野の出身である福富甲斐守であるといわれています。弘安のころ(1278~1287)出石の桐野に、土野源太家茂という人があり、その子孫である福富氏は、山名宗全が但馬の守護になったころに、太田垣氏(竹田城主)や八木氏(八木城主)らとともにその家来となり、代々桐野の城にいたのですが、応仁の乱によって天下が乱れ、大名たちが相争うようになると、山名宗全もそれぞれの要地に城を築いて守りを固めたのでした。その中で、八鹿の浅間坂には佐々木近江守を、糸井の坂には福富甲斐守をつけて守らせたのです。
福富甲斐守は武勇の誉れ高く、淡くて元気盛りでしたので、秀吉が但馬を攻撃するにあたり、竹田城を滅ぼす前にこの高生田城を攻め落としたのだといわれています。この時、小さい城ながらなかなか落ちませんでした。そこで秀吉軍は易者に占いをたてさせたところ、「この城には東と西に二つの道があり、あたかも巨人が両足を踏ん張って建っているようだ。つまり、この城は生きている。だから、その片方の足を切れば必ず城は落と落ちるであろう。」ということでした。そこで、一方の道を切り落とさせたところ、占いの通り、さしもの堅城もとうとう落城したといわれています。今もこの地を「片刈り」と呼び、そのいい伝えを残しています。
城主はこの戦いに討ち死にしましたが、その子孫は逃れて糸井の庄で暮らしていました。その後沢庵和尚の知人であった福富紹意という人が、出石の桐野に移り住んで代々庄屋を務めていたといわれています。
城主はこの城の出城として、和田城や土田城(遠見が城または鳶が城ともいう)を併せ持ったといわれます。この遠見が城との間の通信を、弓矢をもってしていたと語り伝えられており、たまたま矢のぶつかりあって落ちた所を今も林垣の「落ち矢」と呼んでいましたが、近年の耕地整理でこの地名もなくなったようで、またひとつ古い伝説が消えていくような基がします。
秀吉軍は、この高生田城を攻め落としたのち、竹田城を攻めるために、竹田城が一目で見える室尾山に本陣を置き、その攻略の策を練ったと伝えられ、そのとき村人たちにふれ札を立てて知らせたといわれますが、その所在がはっきりしていないのは残念です。(記事は昭和48:1972)
一方、藤堂孝虎も小代谷には小代大膳、塩谷(えんや)左衛門、上月悪四郎、富安源内兵衛ら、いわゆる「小代一揆」とよばれる武士とも農民ともとられる勇士百二十騎ばかりがたてこもっていました。彼らはゲリラ戦が得意で、容易に高虎に屈しませんでした。ある日、高虎は「こんな田舎侍、今にいたい目に遭わせてくれようぞ。」と、征伐に向かいました。ところが、反対に小代勢の計略にひっかかって大敗し、命からがらたった一騎で大屋谷へ逃げ帰るという有様でした。
大屋に向かった高虎は、加保村の栃尾加賀守、その子源左衛門を頼って隠れ、体制の立て直しをはかりました。このことを隣の瓜原村瓜原新左衛門が小代へ知らせました。知らせを聞いて一揆の連中は天滝を越え、大屋谷へ攻め込んだのです。自分らの本拠を離れてまで攻めていこうとは、なかなか剛の者たちです。高虎は栃尾親子の助けを借りて蔵垣村にまで出て防戦しました。戦いはなかなか決着がつかず、疲れてきた一揆の連中は横行(よこいき)村に引きこもり、ここに砦を築きました。そして隙をみて攻めてくるゲリラ戦に変えたのです。横行村は平家の落人の伝説で有名な山奥の村です。この間に瓜原新左衛門は一揆の連中と連絡をとり、ある晩、百人余りで栃尾の邸を囲みました。しかし、源左衛門や刈鈷(かりなた)新兵衛らの活躍により、反対に瓜原新左衛門の方が首をうたれてしまいました。
こうしている間に高虎は次の作戦を進めました。夜陰にまぎれて密かに行動を起こし、一挙に、一揆の本拠横行砦を襲ったのです。一揆勢は不意をつかれてびっくり仰天、体制を立て直す暇もなく、散々にうちのめされ、おもな大将のほとんどは討ち取られてしまいました。しかし、高虎もこの夜は、あやうく命を失うところでした。源左衛門が駆けつけてうち払い、九死に一生を得たのでした。 藤堂家はこのときの恩義を忘れず、栃尾家に対して代々厚く報いています。天正八年(1580)、秀吉が再び但馬に攻めてきた時、完全に息の根を止められてしまいました。
竹田城落城
羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により天下の山城竹田城はついに落城します。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえました。
その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となりますが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となりました。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となりました。嘉吉の乱以降、たびたび山名氏との死闘を繰り返した赤松氏が山名氏が築いた城を任されるということはなんとも皮肉なことです
赤松広秀(斎村政広)は、羽柴秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となりました。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬竹田城2万2000石を与えられました。因縁の宿敵赤松氏が山名氏の築いた竹田城最後の城主となったのは、これも因縁だろうか。
赤松広秀は、関ヶ原合戦では西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めますが、西軍は敗戦しました。広秀は徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させましたが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は無城となりました。
竹田城は築城後約150年間存続しましたが、関ヶ原の合戦が終わり世の中が平和になると、江戸幕府の一国一城令により、竹田城は廃城となりました。
現在も頑強な石垣が残る山城の名城です。