風景写真
■沿 革
山名時氏以来、城崎荘(豊岡市九日市)を本拠とし、その後、守護所としたが、今の九日市上町の国道と旧道の間にお屋敷があった。当時の円山川は国道の堤防付近まで湾曲して流れていて、少し上流の出石川が合流する上佐野には船着き場があった。女代神社にはその当時の舟が飾ってある。当時水路をさかんに利用していたことを考えれば交通が集まる便利な場所だった。
本拠地を九日市から直轄領である出石郡西部の此隅山へ退転し、さらに現在の出石城がある有子山に城を移した。出石への移転の背景には、被官垣屋氏との相克がある。特に将軍位継承にからんで、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏との勢力バランスが微妙に関わり合ったと見られる。山名氏は応仁の乱・播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。
永正元(1508)年夏、軍勢乱入により出石神社が焼失した(沙門某勧進帳)。近くの此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったと見られるが、一宮出石神社の所在地としても、直轄領の重要拠点であったから、城や在所の有無に関わらず、この地で両者が衝突することはあり得たと思われる。
因みに最近の研究では此隅山城の築造時期は比較的新しく、永禄12(1569)年の織田方豊臣秀長の但馬征伐に至る情勢の経過の中で織田氏対策として着手されたと説いている。
いずれにしても出石に蟄居したのは応仁の乱以降なので、応仁の乱に武将たちが結集して出陣式をこの城下で行ったというのはあり得ない。おそらく出陣は九日市守護所である。
そして天正8年(1580年)5月21日、山名祐豊は秀吉の因州征伐による第二次但馬征伐によって居城である有子山城を包囲される中で死去しました。ここに二百数十年続いた但馬山名氏も滅亡しました。
山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築きました。此隅山城は長らく六分一殿山名氏宗家の本拠でしたが、1569年(永禄12)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城しました。一旦、山名祐豊は城を失いましたが、今井宗久の仲介によって領地に復帰しました。
1574年(天正2)、標高321mの有子山山頂に有子山城(ありこやまじょう)を築き、本拠を移しました。此隅山城が縁起が悪いとして有子(こあり)山城と名づけました。
しかし、毛利氏方についたため、1580年(天正8)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、山名堯熙は因幡国に逃走、滅亡しました。
民話「小盗山(こぬすみやま)と有子山(こありやま)」
今から四百年ほど前、出石(いずし→兵庫県北部)は山名氏(やまなし)の城下町でした。
室町時代には出石の中心である比隅山(このすみやま)に城を築き、その子どもの時ひろの時代には、全国六十余州のうち、十一ヶ国を山名一族(やまないちぞく)が占めていたそうです。
これだけ全盛を極めた山名氏も、だんだんと勢力を失っていき、室町の末の祐豊(すけとよ)の代の頃には、やっと但馬一国が守れる程度になっていました。
ところでこの祐豊には二人の男の子がいましたが、二人とも若くして死んでしまったのです。 そこで祐豊の隠居後は、氏政(うじまさ)が城をついだのですが、不幸なことに、いつまでたっても世継の子どもが出来ません。
そこであるとき、氏政は易者を呼んで占わせました。
すると易者は、
「比隅城は場所が悪い、半里ほど南の山に城を移せばよいでしょう」
と、いうのです。
天正二年、さっそく言われた通りに新しい城を築くと、まもなく子どもが生まれました。 それからいうものは、不運の続いた比隅山を『小盗山』と呼び、新しく城を築いて子どもの生れた山を『有子山』と呼ぶようになったのです。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会他