古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は

古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は


※この地図は地図作成ソフトを元に古墳を方向を調べて私が作成したものです。上の地図は、前方後円墳は、それぞれのクニのどこに、どの方向に向いているのかを分かる範囲で地図上に記してみたものである。方向はGoogleマップにも組み込まれているので、現在の地図上で古墳の位置を確認することができる。

前方後円墳の方向は朝廷のある大和に関係しているのか、それぞれのクニに自主性を持って決められたのか、分からないが関心があるテーマである。

『前方後円墳』というサイトによくまとめられているので引用させていただくと、

弥生時代は、魏志倭人伝が伝えるように日本列島各地で多くの勢力が「国」として、たがいに対峙していた。卑弥呼の時代(3世紀前半頃)には,邪馬台国を含めておよそ30「国」の存在が魏側で知られていたようである。

前方後円墳の出現の背景には、統合への流れが進行して他とは比肩できないほどの大きな勢力の出現があったと考えられる。この勢力とは大和を本拠とする大和政権(大和朝廷)である.巨大な前方後円墳の築造は、大和朝廷の権威を他の地域へ誇示するねらいがあったとみてよいだろう。奈良県や大阪府に多数遺存する4世紀末以降の巨大前方後円墳が天皇や皇后など皇統に属する人々、もしくは朝廷において有力な地位にあった人々の墳墓であることを考えると、時代をぐんとさかのぼる古い箸墓古墳(奈良県桜井市)も巨大前方後円墳である以上、当然大和朝廷に属する高貴な人の墳墓でなければならない。

邪馬台国が北部九州にあったのか、畿内かはさておき、少なくとも崇神天皇(第10代天皇)以降の大和朝廷が奈良を本拠としてきたことは歴史上明白である。

前方後円墳の各部位の呼称は決まっている.丸い部分を「後円部」、矩形部分を「前方部」,後円部と前方部の接続部を「くびれ部」とよぶ.被葬者が葬られている場所は後円部であって、前期古墳にあっては、前方部上で葬送の祭祀が執り行われたと考えられている。前方後円墳の築造企画は、前期から中期へ、さらに後期へと時間が進行するにしたがって変化するが、とくに前方部が大きく発達していくという明瞭な変化が認められる。くびれ部付近に「造出(つくりだし)」とよばれる小さな突起部をもつ古墳が中期頃から現れる。左右両側,または片側だけにつくられる.造出は祭祀用の施設とみられるが、前方部の巨大化にともなって、前方部上でくり返される祭祀の執行に不便をきたすようになったことが造出出現の理由とも考えられる。

丹後・但馬は大宝律令以前に分国するまでは丹波内であったが、律令以後に3つの国に分国された。中央集権化が強固になるにつれて、大和から遠い丹後にあった丹波の政治の中心は大和に近い現在の亀岡市に移り、丹波・但馬・丹後と3つに分けられる。

これは地形的に比較的に高い山で遮られる丹波・但馬・丹後の特性もあったかも知れない。しかしそれだけで、3つに分けた理由にはならない。分けるにはそれぞれ国府建設や国司など莫大な費用が生じるからである。

何かの理由が生じたと考えるのが普通だろう。

朝鮮半島への最短ルートとしてこの地が大和政権にとって重要だったことで、大和政権に組み入れる必然性があったからだと考えるのである。

日本海側最大の前方後円墳は、丹後の網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)で、墳丘長は201m。それに次ぐ規模が神明山古墳(京都府京丹後市丹後町宮、墳丘長190m)、蛭子山えびすやま1号古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦、墳丘長145m)の3つの前方後円墳が、日本海側および京都府では最大規模の古墳で、「日本海三大古墳」と総称される。

「日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中している

なぜ丹後に日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中しているかである。

それでは、大和政権に組み入れられた時代はいつ頃だろうか?少なくとも崇神天皇が四道将軍を派遣し本州を平定していった時期からだろうと思われる。

丹後三大古墳は4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。網野銚子山古墳は、墳丘3段築成、築造された順番は、蛭子山1号墳が4世紀中葉、網野銚子山古墳がそれに次いで古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭、神明山古墳が4世紀末-5世紀初頭とされる。

網野銚子山古墳と神明山古墳は、日本海に突き出た丹後半島の北、網野銚子山古墳は浅茂川の河口にできた浅茂川湖、神明山古墳は竹野川の河口の竹野湖という古代の潟湖(ラグーン)に対して墳丘の横面を見せる形式をとっており、前方部を北北東に向けている。当時の丹後地方がこれら潟湖を港として日本海交易を展開した様子が指摘される。それに対して蛭子山古墳は、丹後半島反対側の付け根で、日本三景天橋立を形成した野田川に北北西に開けた加悦谷の東縁部にあり、前方部を北西に向ける。

但馬地方では最大、兵庫県では第4位の規模の前方後円墳は池田古墳(兵庫県朝来市和田山町平野)で、5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

ヤマト王権の宮が置かれた大和と大和川が注ぎ込む大阪湾の摂津・河内・和泉の機内には、大王(天皇)墓である大型の前方後円墳がいくつも造営されている。前方後円墳の最古とされる箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)は、3世紀後半以降とされている。

大和政権と大丹波(今の丹後。但馬。丹波)との結びつきが記紀に登場するのは、第11代垂仁天皇の最初の皇后、狭穂姫命である。父は四道将軍のひとりである彦坐王(日子坐王)ひこいますのみこ、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王たにはのみちぬしのみこの女であり、狭穂姫命の姪に当たる。第12代景行天皇を生む。日本海三大古墳と総称される蛭子山1号墳、網野銚子山古墳、神明山古墳と、それ以降の池田古墳、船宮古墳が築造された年代は垂仁天皇期であると思われる。


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四道将軍 彦坐王(日子坐王)の終焉の地は

四道将軍 彦坐王は、『古事記』では「日子坐王」、『日本書紀』では「彦坐王」と書く。

『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣わにのおみの遠祖の姥津命ははつのみことの妹の姥津媛命ははつひめのみこととの間に生まれた皇子とする。『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命ひこくにおけつのみことの妹の意祁都比売命おけつひめのみこととの間に生まれた第三皇子とする。

四道将軍と丹波道

『古事記』崇神天皇の条に、四道将軍(古訓:よつのみちのいくさのきみ)が各地に派遣されたとある。いずれも皇族(王族)の将軍で、大彦命おおびこのみこと武渟川別命たけぬなかわわけのみこと吉備津彦命きびつひこのみこと、丹波道主命の4人を指す。『古事記』では一括して取り扱ってはおらず、断片的のそれぞれの将軍を扱い、四道将軍の呼称も記載されていない。『日本書紀』では事績に関する記載はなく、子の丹波道主命たにわのみちぬしのみことが丹波に派遣されたとしている。この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。

また、西道(山陽道)に派遣された吉備津彦命は、『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」(紀)彦五十狭芹彦命、(記)比古伊佐勢理毘古命とする。『古事記』によると、崇神天皇10年(西暦217年)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽道)は吉備津彦命、そして丹波には、丹波道主命が派遣されたのである。

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル(日本武尊)伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

 

国土交通省

四道とは北陸、東海、西道、丹波の四つの地方であり、地理的に丹波道は狭いが、図のように幹線道路としては離れざるを得ない立地にある。山陰道から別れて丹後半島今でも東海道などは使われているようにこの時期の「丹波国」は、後の令制国の丹波国、丹後国、但馬国を指し、五畿七道の山陰道に含まれる。山陰道の篠山あたりから別れて円のようにまわり、但馬国府の置かれた気多郡(今の豊岡市日高町)で山陰道に合流する支線を丹波路としている。北陸、東海、西道が細長い広大なエリアなのに対し、この時代の分立するまでの3国を含めた丹波を、近年、丹波王国、大丹波、北近畿などと名付けられていたりする。日子坐王のの子が丹波道主命ということから、丹波道主は丹波道の主(首長)ということを意味する名前なのだ。当時の丹波、丹後、但馬をまとめて総称するなら「丹波道」がふさわしいと思う。

北陸、東海、西道は現在でもほぼ同じエリアであるが、日本海側を山陰道のような表記では表さず、丹波道としているのは、丹後の三大大前方後円墳や但馬の池田古墳規模の大規模な前方後円墳が鳥取・島根で少ないことも因幡以西の出雲王国までにヤマト王権による支配権が当時は及ばなかった証拠でだろう。

玖賀耳之御笠(陸耳御笠)くがみみのみかさ

日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、土蜘蛛の玖賀耳之御笠くがみみのみかさ(陸耳御笠とも)を討ったという。彦坐王が丹波に派遣されたとあるが、丹波道主命は彦坐王ひこいますのみこ・-おうの子で、実際に遣わされたのが丹波道主命とも読めるし、一緒に派遣されたとも読める。

『国司文書 但馬故事記』に詳細に記されている。第10代崇神スジン天皇10年(前88年)秋9月 丹波青葉山の賊 陸耳の御笠、土蜘蛛匹女ら、群盗を集め、民の物品を略奪した。
タヂマノクルヒ(多遅麻狂・豊岡市来日)の土蜘蛛がこれに応じて非常に悪事を極め、気立県主櫛竜命を殺し、瑞宝を奪った。

崇神天皇は、第9代開化天皇の皇子であるヒコイマス(彦坐命)にみことのりを出して、討つようにいわれた。ヒコイマスは、子の将軍 丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直の上祖 アメノトメ(天刀米命)、
〃 若倭部連の上祖 タケヌカガ(武額明命)、
〃 竹野別の上祖 トゲリヒコ(当芸利彦命)、
丹波六人部連の上祖 タケノトメ(武刀米命)、
丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
大伴宿祢の上祖 アメノユゲノベ(天靭負部命)、
佐伯宿祢の上祖 クニノユゲノベ(国靭負部命)、
多遅麻黄沼前県主 アナメキ(穴目杵命)の子クルヒノスクネ(来日足尼命)、等
丹波に向かい、ツチグモノヒキメを蟻道川で殺し、クガミミを追い、白糸浜に至った。
クガミミは船に乗り、多遅麻の黄沼前の海に逃げた。

『丹後風土記残欠』にも、

(志楽郷)甲岩。甲岩ハ古老伝テいわク、御間城入彦五十瓊殖天皇ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠トフ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。ゆえに日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲあらわたちまチニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生(今の舞鶴市成生)ト号ク。

福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹に玖賀耳之御笠(陸耳の御笠)は、

ところで、大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。ご承知のように、青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
陸耳御笠。何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

記紀は、土蜘蛛と蔑みながら、陸耳の笠でよいのに御を加えて尊称もしているのは、あまりに無礼であると感じていたのか。「クガミミ」とは国神の事で、クガミミノミカサとは国神クニガミノミカサという意味だとすると、笠国をつくった主とは先住の王であった。土蜘蛛、(つちぐも)は、上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。土雲とも表記される。史書は、勧善懲悪となるのが常で、勝者が美化され、敗者は悪党に描かれる。織田信長VS明智光秀、浅野内匠頭VS吉良上野介、、、本当のところはよく分からないのだ。

『地形で読み解く古代史』関 裕二 氏は、
『日本書紀』に狭穂姫がなくなったあとの垂仁天皇の后妃の記述が残り、垂仁15年春2月10日の条に、「丹波の五人の女性を召し入れた」とあり、その中から日葉酢媛命がのちの皇后に立てられたとある。さらに垂仁34年春3月の条には、垂仁天皇が山背(山城)に行幸し、評判の美女を娶ったとある。
(中略)
なぜタニハの謀反のあと、垂仁天皇はタニハ系の女人ばかりを選んだのだろう。
これには伏線があったと『日本書紀』はいう。狭穂姫が天皇に別れを告げたとき、後添えのことに言及していた。
「私の後宮は、よき女性たちに授けてください。丹波国に五人の貞潔な女性がおります。彼女たちは、丹波道主命(日子坐王の子)の娘です。」
この最後の要望を、垂仁天皇は聞き入れたのである。

どうにもよくわからない。タニハ系の彦坐王の人脈が謀反を起こしたにも関わらず、その上で、次の后妃もタニハからとっている。こうしてタニハの女人で埋まっていく。ヤマト黎明期のヤマトで、いったいなにが起きていたのだろう。タニハ(+山背)が、なぜ後宮を席巻できたのか。

(中略)

やはり、地形と地政学で、この謎は解けるのではないかと思えてくる。たしかにヤマトは国の中心にふさわしい土地だったが、日本全土を視野に入れて流通を考える場合、西国に通づる河内、若狭、丹波三国、さらに東海、北陸に通づる山城、近江のラインが最も大切で、そこを支配する「タニハ連合」と手を組まなければ、政局運営はままならなかったからだろう。

ちなみに東に向かった二人の将軍は、太平洋側と日本海側から東北南部に進み、福島県南部(二人が会ったから、「相津」(会津)の地名ができたという)で落ちあったという。早い段階の前方後円墳の北限は、ほぼこのあたりで、ヤマト建国時の様子を『日本書紀』編者がよく承知していて、その上で、「各地から多くの首長がヤマトを建国したのに、『日本書紀』の文面では、ヤマトから将軍が四方に散らばり、和平したことにしてしまった」のだ。

ヤマト建国の中心に立っていたのは吉備だされる。前方後円墳などにみられる円筒形埴輪が吉備がルーツとされており、吉備にも吉備津彦命が派遣され、その末裔が吉備を支配するようになったとあるが、これは全く逆で、吉備がヤマトに進出しヤマト建国の中心に立ったのだというのだ。『日本書紀』はこの事実を裏返して示している。

10代崇神天皇は、四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めてヤマト政権の国家体制を整えたことから、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。もしそれがタニハ連合(のち分国した但馬・丹後を含む丹波、若狭)+山城、近江、尾張が手を組み、ヤマトに進出し、あわてた吉備と出雲がヤマト建国の流れに乗ったのだ。

としている。

たしかに、ヤマト建国は、タニハなどの連合国家だったならば、ヤマト建国の主役はヤマトではなくなってしまう。これでは国家の史書として都合が悪い。『日本書紀』編者らは、その経過を知っていたので、四道将軍を創作し、朝廷が平定したのだと都合のいいように史実をひっくりかえして朝廷主導に書いたという氏の考察も、あながちそうではないと言い切れない。

しかし、地方豪族ではなかったことは、『日本書紀』に「四道将軍はいずれも皇族(王族)」と記述していることだ。そして、「彦坐王はタニハからヤマトにやってきたとみなすべきだ。」とはどういう根拠なのかだ。彦坐王の子・狭穂彦王と狭穂姫がヤマトにやってきたし、その後も彦坐王の子丹波道主命の娘5人が后・妃になっているが、彦坐王・丹波道主命がタニハからヤマトにやってきた形跡はないし、『日本書紀』に皇族(王族)で開化天皇の皇子としているが、地方豪族出身ということになってしまう。記紀編者らが朝廷に都合が悪い出来事は朝廷優位に改変することがあったろうとは当然思えるにしても、開花天皇の皇子などと捏造したとしたら、皇族に不敬となる話を記紀編者らが創作するはずもない。

彦坐王の墓は但馬か美濃か?

墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。

墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。。美濃を領地として、子の八瓜入日子(やついりひこ-神大根王)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられる。この地で亡くなり、この地に埋葬されたという。八瓜入日子は三野国造、本巣国造の祖とされている(本巣国は美濃国中西部)。

これと異なる記述が『但馬故事記』に詳細に記されている。

『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、

第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。

その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)*1の宮に居した(多遅摩粟鹿県は但馬国朝来郡)。

天皇は彦坐命に日下部足泥(宿祢)くさかべのすくねという姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。

丹波国造 倭得玉命
多遅麻国造 天日楢杵命
二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。

人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。

但馬国二宮 粟鹿神社の御祭神は、彦火々出見命ひこほほでみのみこと日子坐王ひこいますのきみ、阿米美佐利命の三柱である書かれる場合が多いが、『国司文書 但馬神社系譜伝』では、
彦坐命・息長水依姫命・遠祁都毘売命(亦名は瀛津姫命・うみつひめ)。

しかし、兵庫県神社庁では次の通り、日子坐王の1柱のみとある。

当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。

人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。

粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。

-「兵庫県神社庁」-

彦坐命の墓は、美濃(岐阜県岐阜市岩田西)と但馬(兵庫朝来市山東町粟鹿)の2箇所にあることになる。但記では、彦坐王は、粟鹿宮で薨去し、粟鹿の鴨ノ端ノ丘に葬るとある。その後は何も記されていない。

ところが伊波乃西神社の由来には、

祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父君にあたらせられる。古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日子坐王の皇子である。神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。当社の西に隣接している。明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認されたので、宮内省陵墓寮の所管に移された。

但馬にある2つの前方後円墳は誰の墓なのか

但馬(兵庫県北部)にある前方後円墳は、朝来市和田山町平野の池田古墳と朝来市物部の船宮古墳のみである。これ以外に前方後円墳は見つかっていないが、但馬は平地の少ない地形から他にも大規模な前方後円墳は築造されてはいないだろう。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみである。朝来市域では古墳時代前期の南但馬地方の王墓として若水古墳・城ノ山古墳の築造が知られるが、それらに後続する池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(朝来市教育委員会)

前方部は祭祀場で、後円部は被葬者が埋葬される。池田古墳は前方部を北東に向ける。池田古墳より南にある船宮古墳は、北北東を向いており、その方向には丹後の旧与謝、加佐がある。但馬史上で彦坐命と丹波道主命は、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主(大王)である。単なる国造以上の位であり、この二人以外にいない。丹波三国を眺めるようにかも知れない。大和政権に近いタニハの王は、日子坐王と丹波道主の二人以外にいない。先に初代多遅麻国造となった天日槍はいたが、時代がもっと古いので当てはまらない。

池田古墳も船宮古墳も、被葬者は明らかでないが、国造級の豪族の首長墓と想定され、船宮古墳は当地を治めた但遅麻国造の船穂足尼一族との関連を指摘する説がある。船宮の船が船穂足尼と重なるからだろうが、但記の朝来記には、「第13代成務天皇5年、大多牟阪命の子、(彦坐命の五世孫)船穂足尼命をもって多遅麻国造と定む。船穂足尼命は大夜父宮(今の養父神社)に還る。

(中略)

神功皇后元年、但遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜父船丘山に葬る。(中略)船穂足尼命を夜父宮下座(養父神社)に斎き祀り、また将軍丹波道主命を水谷丘に祀り、これを水谷神社と称す。(現在の水谷神社所在地ではなく、養父神社後方の山中と考える)」とあるから、朝来郡ではなく養父郡で国造の職務を行っており、朝来市物部の船宮古墳と逆方向。大藪古墳群のいずれかだと思う。

*1 禾鹿 禾は本来イネと読むべきだが、禾鹿神を粟鹿神と同一神の如く記す記載が多いので、禾をアハと読むべき。


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古代但馬の大転換期は三度あった

出雲・丹波からやってきた神々

すでに何度も書いているが、拙者は『国司文書 但馬故事記』は偽書だとする立場をとっていない。そのすべてが正しいかどうかは、但馬故事記編集者たちが但馬国府の役人であり、前書きに「おかしきことはたとえ記紀でさえも取り入れない」と明記している。『古事記』『日本書紀』でさえも腑に落ちない箇所はあるし、概ね時代の出来事や神社のいわれ等がこれほど詳細に記された史書は他に例がないからだ。「国司文書」については重複するのでここでは割愛し、詳細は「はじめに『但馬国司文書 但馬故事記』」を御覧ください。

『国司文書 但馬故事記』は、但馬の旧八郡を各郡ごとに気多郡から二方郡まで全八巻で構成されている。その中で「第五巻 出石郡故事記」だけは他の郡ではまったく記されていない天日槍(以下、アメノヒボコ)の出自や代々の多遅麻国造・出石県主となったその子孫らと、屯倉と中島神社、出石軍団に関する三宅氏についてなど、ヒボコ及びその子孫についての詳細な記述がかなりの部分を占めているのが特徴だ。

たとえば「第一巻・気多郡故事記」では、

但馬のクニ(集落国家)誕生は、国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと(大国主)の勅を受けて天照国照彦天火明命あまてるくにてるあめのほあかりのみことが西方し但馬にやって来て、両槻天物部命ナミツキノアマツモノノベノミコトの子、佐久津彦命さくつひこのみことが(気多の)佐々原を開くことからはじまる。

「第二巻・朝来郡故事記」でも、同じく国作大己貴命(大国主)の勅を受けて天照国照彦天火明命が丹波を開いてのち、アメノホアカリは養父郡に入り、比地県(朝来郡の古名)主を任命することから朝来郡がはじまる。

「第四巻・城崎郡故事記」と「第三巻・養父郡故事記」では、天照国照彦天火明命は、天照大神あまてらすおおみかみ

の勅を受けて田庭たにはの真名井原に降り、丹波を開いてのち西方して但馬に入り、豊岡原に降り、御田を開き、真名井を掘り真名井を名づけて御田井おだい(のちの小田井)という。そののち佐々前原ささのくまはら(佐々原と同じ)に至り、佐久津彦命に御田を開かせる。後世その地を真田稲飯原さなだいないはらという(今は佐田伊原という)。

天火明命はまた、天熊人命を夜父に遣わし、養蚕をおこなう。故にこの地を名づけて谿間屋岡原という。天火明命は、佐久津彦命の子、佐伎津彦命に浅間原を開かせる。

時に国作大己貴命・少彦名命・蒼稲魂命は、高志国(越国)より帰り、御出石県に入る。その地を開く。国作大己貴命は「蒼稲魂命と天熊人命と共に協力して国作りの御業を補佐せよ」と教え給う。二神は、天火明命に勧めて、比地の原(のち朝来)を開かせ、垂樋天物部命を比地に就かし真名井を掘り御田を開く。

天火明命は、
御子の稲年饒穂命を小田井県主(のち城崎郡)となし、
その子長饒穂命を美伊県主(のち美含郡)となし、
佐久津彦命を佐々前県主(のち気多郡)となし、
佐久津彦命の子、佐伎津彦命を屋岡県主(のち養父郡)となし、
伊佐布魂命の子、伊佐御魂命を比地県主(のち朝来郡)となす。

「第一巻・気多郡故事記」では、天照国照彦天火明命は国作大己貴命(大国主)の勅を受けて但馬に入るとあるのに対し、城崎郡故事記では、田庭の真名井原に降り、丹波を開いたのは、天照大神の勅を受けてであるが、まず小田井を開いてから佐々前原を開く。但馬にやって来たのが、同じく天照大神の勅を受けてなのか、自らの意思でそうしたかが書かれていないので分からない。

1.但馬国誕生 出石の特異性と最初の大転換期

「第五巻・出石郡故事記」は、

「国作大己貴命は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県国を開き、多遅麻に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津(佐津)・籔(養父)・水石(出石)の県を開く。

大己貴命と稲葉の八上姫との子である御出石櫛甕玉命みずしくしかめたまのみことが天火明命の娘、天香山刀売命を娶り、天国知彦命を生み、人皇一代神武天皇は、天国知彦命が御出石県主となす。」

二方郡を除く他の郡が、国作大己貴命は丹波から但馬へやってくるのに、出石郡だけはこの記載がなく、

さて、突如、出石に天日槍が住み着いて初代の多遅麻国造に就く。『日本書紀』では「垂仁3年3月、新羅王子の天日槍が渡来した」とあるが、『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記には人皇6代孝安天皇61年と記している。

2.但馬のクニと水稲耕作の黎明期

『国司文書 但馬故事記』の記述からみると、天照国照彦天火明命は国作大己貴命(大国主)の勅を受けて但馬に入ったのは、人皇一代神武天皇誕生直前である。神武天皇が実在したのか、またいつ頃のことなのかは諸説あって分からない。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす」』 長浜浩明氏は、神武天皇の在位は皇紀ではBC660~BC585の76年間となっているが、これは1年を2年とする春秋年が使われているためで、皇紀を実年に換算すると、BC70~BC33からとしている。

つまり、神武天皇即位のBC70年以前であれば、これは弥生時代中期にあたる。水稲耕作は、紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がったとされる。とすれば神武天皇と日本国成立はこの頃だろう。縄文時代の青森三内丸山で稲作の痕跡があることなどから、弥生以前から日本人はお米を食べていたことは事実だ。それを見れば稲作は中国や朝鮮半島から伝播したのではなく、日本列島にイネはすでに存在し、日本人はお米も食していたことになるのだ。むしろ半島南部を任那や倭国として稲作を伝えたのは日本である。

北部九州へ伝わった水稲耕作技術は約400年経って丹波・但馬へ伝播したことになる。ここで現在の豊岡市日高町である気多郡の最初の田が国府平野など広大な田園地帯があるのに、やや緯度の高い佐々前(今の佐田・道場)なのかだ。おそらくは円山川の豊岡以南から支流の出石川流域はまだ湖沼地帯で、度々氾濫し、人が居住したり耕作地として不適だったと想像できるのである。豊岡市日高町と出石町に水上という地名が今も区として存在しているが、円山川などの水位が今よりも数メートル高かったとも推測する。

条里制によって国府平野から国分寺辺りの円山川流域に水稲耕作が本格的に始まったのは、律令が整備された飛鳥時代後期から奈良時代中期だろう。

以上の通り、アメノヒボコが出石にやってきて、初代多遅麻国造たぢまのくにのみやつことなる前とその後では、出石郡の治世に最初の大変化が起きたことが分かるのと同時に、他の七郡では、ヒボコについては一行たりとも記述がないのだ。

これは、ヒボコ及びその子孫の影響力が出石郡内に限られ、他の郡でははじまりから故事記の記述が終わる人皇49代光仁天皇朝まで国作大己貴命から脈々とその子孫が治め、のち人皇12代景行天皇32年、多遅麻の気多に下った物部大売布命の子や子孫が、多遅麻国造・県主(のち郡司)となっている。

2.三県の大県主 日子坐王(彦坐王)

『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記によると、

第十代崇神天皇十年秋九月、丹波国と若狭の国境青葉山の賊、陸耳の御笠らが群盗を集め民物を略奪した。天皇は、四道将軍のひとりで、彦坐王(第9代開化天皇の第三皇子で、第12代景行天皇の曾祖父である)と、子の丹波道主命とともに丹波に派遣させ、これを討たせる。陸耳は南に向かい蟻道川(由良川の古名と思われる)に至り土蜘蛛匹女を殺す。陸耳は与佐の大山(大江山)にいたが、彦坐王等の追跡に遭い竹野に逃げた。陸耳は大敗して多遅麻黄沼前海に走る。この時、狂の土蜘蛛が陸耳に加わり、再び勢いを増す。ついに御碕の海で賊を滅ぼした。

天皇はその功を賞し、彦坐王に、丹波・多遅麻・二方の三国を賜う。彦坐王は諸将を率いて多遅麻粟鹿県あわがのあがたに下り、刀我禾鹿とがのあわが宮(*1)に居した。姓を日下部足尼くさかべのすくね(宿祢)と賜い、諸国に日下部を定める。

これによって彦坐王は、国造より上の大国主となった。彦坐王が亡くなると船穂足尼命が多遅麻国造となる。大夜父宮に遷る(出石のヒボコの子孫が世襲してきた多遅麻国造が養父郡に遷る)。

陸耳は玖賀耳とも書き、陸(くが)というのは今の北陸地方の名前である。したがって陸耳御笠は陸国くがのくにの王である。この陸(玖賀)国こそ『魏志倭人伝』が伝える、邪馬台国と激しく争っていた狗奴国くなこくに他ならないとする説がある。

以上は、崇神天皇の初期に、四道将軍として、北陸へ大彦命、東海へ武渟川別、西海へ吉備津彦、丹波へ彦坐王(丹波道主命)の4将軍を派遣諸国を平定し、畿内にしか力の及ばなかった大和朝廷が全国規模に拡大した。崇神天皇はまた、戸口を調査し、課役を科し、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に遷し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。

*1 刀我禾鹿宮 禾は本来イネと読むが、禾鹿を粟鹿と同一に記す条が多いことにより、ここではアワと読む。刀我は今の東河であるから、粟鹿(郷)も最初は刀我郷に含まれていたのかも知れない。

3.日本武尊の東夷と大売布命

第12代景行天皇32年(313年)夏6月、伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊の東夷に従い征伐を賞し、摂津の川奈辺・多遅麻の気多・黄沼前の三県を賜う。大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮(今の豊岡市日高町国分寺石立)に在り。多遅麻物部氏の祖なり。

神功皇后二年、気多の大県主物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武を、多遅麻国造と為し、府を気多県高田邑に置く。(これ以降、律令制により国司が任命され、但馬国府は気多郡に固定する)

第42代文武天皇庚子4年(701年)春3月、二方国を廃し、但馬国に合わし、八郡となす。朝来・養父・出石・気多・城崎・美含・七美・二方これなり。府を国府邑に置き、これを管る。従五位下、櫟井臣春日麿を但馬守となす。

新羅の基礎は倭種が造った

『日韓がタブーにする半島の歴史』室屋克実氏に、

「第一章 新羅の基礎は倭種が造った」

朝鮮半島には新羅(滅亡は935年)、高句麗(同668年)、百済(同660年)の3つの国があった時期を「三国時代」と呼ぶ。やがて新羅が半島を統一して「統一新羅時代」に入る。しかし、新羅の腐敗による統治能力の低下に伴い、半島内では2つの勢力(後百済、後高句麗)が台頭して抗争が激化する。「後三国時代」と呼ぶ。

その中から“山賊が建てた国だった後高句麗”を受け継いだ高麗(918~1392年)が、新羅国を挙げての帰伏により半島を再統一する。そこまでが『三国史記』の記述対象だ。(中略)高麗で最高の功臣かつ実力者であり、儒家としても名高かった金富軾キムプシクが現役を退いた後に、17代王である仁宗インジョン(在位1123~46年)の命令を受けて1143年頃に編纂を開始し、1145年に完成した。

(中略)

『三国史記』とは書き下ろしの史書ではない。当時あった多数の古史書を点検し、かつ中国史書を参考にして、“半島史に関する高麗王国の統一見解”としてまとめられた正史だ。そうした経緯からして、日本でいえば『日本書紀』に相当する。

「日本海側の地から来た賢者」

『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。その賢者の姓は「昔(ソク)」、名は「脱解だっかい・タレ」だ。

三国史記の記す脱解と瓠公のルート 『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

「新羅本紀」は脱解だっかい・タレ王初年(57年)の条で述べている。

脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里

(脱解はそもそも多婆那タバナ国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。)

その生誕説話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世パクヒョッコセの生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。

(中略)

「新羅本紀」を要約すると、

女国(『三国遺事』では積女国)から嫁いできた多婆那国の王妃は、妊娠して七年経って大きな卵を生んだ。王は「人が卵を生むというのは不祥である」として捨てるように命じた。そのため、王妃は宝物とともに櫃に入れて海に流した。

櫃は最初、金官国(金海市)では、誰も怪しんで取り上げようとせず、次に辰韓(慶尚道)の海岸に流れ着いた。
海辺に住んでいた老婆が櫃を開けてみると少年がいた。一人の少年が出てきた。
その時、櫃に従うようにカササギが飛んでいた(鵲は、半島では吉鳥とされる)。そこで「鵲」の字の一部を採って、「昔」姓とした。櫃を開けて取り出したので名を「脱解」とした。

「『三国史記』で用いられている「里」は、隋里( 一里=約四百五十)か、 朝鮮里( 一里=約四百)か、あるいは両者を混同して使っているとも考えられる。概ね、一里 = 四百強と見てよい。

としている。それに従うと一千里=400kmとする。

当時の倭国の首都が博多湾周辺にあったのか、近畿地方にあったのか-日本史研究者に見解は2つに割れているが、博多湾から東北400~450キロ、近畿王朝論者は、大阪湾あたりから東北に400~450キロの地点を見ればいい。
鳥取県東部から但馬地方あたりか、あるいは新潟県あたりになる。

(中略)
脱解は一応、紀元1世紀の人物として記されている。これに対して『三国志』は3世紀後半に成立した。その間に、女国も多婆那国も滅亡して倭国の一部に吸収されていたと想像する人もいよう。
しかし、私は2つの国は、滅亡していたかどうかは解らないが、そもそも倭国の支配権の外にあったのだと考える。(実際に1世紀ごろはまだヤマト政権化に入っていない)

『新羅本紀』の記述からは、多婆那国 が「 ここにあった」とは特定できない。しかし、日本列島の日本海側、 因幡地方から新潟県あたりまでの海沿いの地にあったことは 確実に読み取れるのだ。

(中略)

『三国遺事』では、漂着した場所は慶尚道の同じ海岸(阿珍浦)だが、櫃そのものではなく「船に載せられた櫃」になっている。しかも、それを見つけたのは、ただの老女ではなく、新羅王のために魚介類を獲る役にあった海女だった。
この海女も倭種(『三国志』は、倭国の支配圏外の倭人を「倭種」と表現している)だったに違いない。この時代は「海女」という職種そのものが、倭人・倭種ならではの独特の技であり、倭人・倭種であることを示したのではないのか。

『新羅本紀』は、脱解は漂着後しばらくの間、魚を釣って、自分を見つけてくれた老婆を養ったとしている。半島は三方を海に囲まれているのに、新羅の「朴」「昔」「金」の三王室、高句麗王室、百済王室の始祖建国神話の中で、海が舞台になっているのは「昔」王室=脱解だけだ。

二代王の前半から倭種が実権

『新羅本紀』によれば、辰韓(新羅の古名)の二代王である南解は、長女を賢者である脱解に嫁がせ、その二年後には脱解を大輔(に任じる。南解王七年(西暦10年)のことだ。大輔とは当時の最高官職で、脱解の場合は総理大臣兼軍司令官に該当した。

二代目の南解王が没すると、二代目の長男であった儒理は、脱解に王位を譲ろうとする。脱解は儒理の妹を娶っていたから、二人は義理の兄弟だ。しかし、いくら義理の兄弟にあたるとはいえ、列島から流れてきた異民族の男に譲位を申し出るとは尋常ではない。脱解は固辞し、儒理を説得する。それにより儒理が三代目の王に即く。

しかし譲位の申し出をした「徳のある人物」に、逆に説得されて王位に即いた三代目とは“飾り物”以上の存在ではあり得ただろうか。

二代目の南解王、三代目の儒理王の治績として記されていることー当時の小さな村連合のような国での基礎づくりの大部分は、「南解王」「儒理王」の名の下で、実は倭種の「脱解政権」により実行されたのだ。

新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった

三代目の王には息子が二人いた。しかし、脱解を四代王に即けるよう遺言して没する(57年)。脱解は王位に即くと翌年には瓠公ホゴンを大輔に任命する。

この瓠公は倭人だ。瓠公は辰韓の全権大使を務め、それなりの権力を有していたはずです。「瓠公はその出身の氏族名を明らかにしていない。彼はもともと倭人で、むかしひさごを腰に下げて海を渡って新羅に来た。そこで瓠公と称したのである」(『三国史記』)

脱解による瓠公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。新羅に《倭・倭体制》が出来上がったのだ。

瓠公が海を渡ってきたのは、辰韓(新羅)の初代王である朴赫居世の治世のことで、彼は王室で重用されていた。

何故なら、瓠公は前20年、辰韓(新羅)の使者として馬韓に赴き、馬韓王と交渉する。馬韓は地域名・民族名であり、「馬韓国」は存在しなかった。ここに出てくる馬韓王とは、中国や楽浪郡から逃亡して半島東部に住み着いた住民から年貢を取り立てていた月支国王を指すと思われる。

『新羅本紀』には、「馬韓王は、新羅の朝貢が途絶えていることを起こって質した」とある。東アジアの古代国家(集落かいくつかの村落連合程度のクニ)にとって、朝貢は絶対的な重大事だった。朝貢するかしないかで戦争になる。これが『新羅本紀』が記す最初の外交であり、新興国家の命運を左右する重大な外交交渉だったことは明らかだ。その首席代表が、何と正真正銘の倭人だったのだ。

新羅は「辰韓と弁韓を合わせて24カ国」の一つとして、「斯廬サロ」の名前が出てくる(中国史書の中で、国号「新羅」の初出は『太平御覧』に引用された『秦書』377年の記事とされる)。馬韓50数カ国を列挙する中に、百済も「伯済ペクチェ」として出てくる。卑弥呼が君臨したのと、ほぼ同じ時代であるが、どちらの国も『倭人伝』のような詳細な説明はない。

地域としての馬韓と辰韓・弁韓の構成国を列挙する中に名前だけ載っている。三韓には、それぞれの地域を統括するような大国がなかったからだ。

多婆那国と倭国

ここで多くの研究者が、多婆那国とは但馬ではないかとされる点について、その但馬の住人である拙者の推察を述べたい。と大層にいうほど立派な歴史研究家ではない一素人なのだが…。

「新羅本紀」脱解だっかい・タレ王初年(57年)の条「脱解はそもそも多婆那タバナ国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。」

西暦57年というと、日本は弥生時代後期にあたる。弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では従来縄文時代晩期後半とされてきた段階にすでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出され、近年では縄文時代晩期後半を弥生時代早期と呼ぶようになりつつあり、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。早期は紀元前5世紀半ば頃から、前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。したがって、西暦57年はその後期の最初の頃であるが、

倭国の東北一千里の多婆那タバナ国は、当時はまだヤマト政権に発展する倭国に統一されない別の国家があったことを意味している」という。

室谷氏はまた、「中国史書に出てくる「倭奴」国は倭人の自称に対する表音(当て字)だろう」という。倭人が「ワナクニ」あるいは「ワノクニ」と発音しているのを奴と字を当てたのである。同様に、多婆那国の多婆那に似た国名・地名が思い浮かばないので、多婆「那」国も那は表音(当て字)で倭人の発音に忠実に那という表音を加えたものとすれば、多婆那ではなく、多婆(那=ノ)国とも読める。または、多婆を但馬・丹後を含めた古タニハ(丹波)であると考えてそのうちの那国というクニ(集落国家)があり、それが但馬のことかとも考えられる。

ただし、上図のように日本海を丸木舟で直接、金官伽耶(釜山)付近まで漕ぐなんてまして日本海を東北へ流れる対馬海流に逆らうことになるので不可能だし、あり得ない。おそらく日本海の海岸つたいに何日もかけてたどり着いたのだろう。

『日韓がタブーにする半島の歴史』

新羅の四代目の王は、列島から流れていった人間だー実は、これは日本で近代的な朝鮮史研究が始まるや、すぐに唱えられた説だ。(中略)しかし、どの研究者も、多婆那国を熊本県玉名市、但馬国、あるいは丹波国に比定した程度で深入りしなかった。脱解以降の倭種王については、考察された形跡が殆ど無い(ただし、岩本義文は、「多婆那国とは但馬国の訛音」であり、「脱解は天日槍の子供」として、独自の推理を展開した)。

倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

これをみると、天日槍が出石にやって来たのはそのような背景だったかもしれないので、長浜浩明氏が算定した実際の在位年代の西暦60~110年よりももっと後かも知れないが、安羅・加羅というクニはすでにあったのかもしれない。欠史八代の次、10代崇神天皇は3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王とされ、6代孝安天皇は4代前なので、少なく見ても2世紀頃かその前後であろう。

新羅の王、天日槍とした「記紀」が編纂されたのは、古事記が712年、日本書紀が720年であるということである。したがって、当時の国号として新羅としたのもわかるが、その伝承の時代は朝鮮半島南部にあった三韓の一つ「辰韓」であった。縄文時代から半島南部から対馬・壱岐・北部九州を含む国々で、倭人が定住し始め、三韓ともに倭国の属国であった。その子孫が王になっているので、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった南の弁韓を後に新羅が滅ぼす。加羅もすでに新羅であり、辰韓の王は倭人で、すでに加羅(伽倻)は消滅しており、天日槍=新羅の王としても時代的には合っていることになる。

まして韓国最古の国史である『三国史記』は、1145年である。その頃の日本は平安末期、千年以上も後世の書でそれまでの歴史書は現存していないのであるから信ぴょう性に欠ける。(日本書紀は百済の百済記・百済新撰・百済本紀を援用している)


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第1章 3.ヒボコ出現により塗り替えられた出石のビフォーアフター

ヒボコ出現により塗り替えられた出石のビフォーアフター

『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記によると、

アメノヒボコが出石にやってきて、初代多遅麻国造となる前とその後では、出石及び但馬に大きな変化が起きたことが分かる。

第五巻 出石郡故事記は、以下からはじまる。

オオナムチ(国作大己貴命)は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県(二方)国を開き、多遅麻タヂマ(但馬)に入り、伊曾布イソフ(のちの七美郡)・黄沼前キノサキ(のちの城崎郡)・気多ケタ(気多郡、今の豊岡市上佐野、中筋地区・浅倉・赤崎を除く旧日高町・竹野町床瀬・椒)・津(狭津→佐津、のちの美含郡)・藪(養父)・水石(ミズシ、御出石とも記す。のちの出石郡)の県を開く。

(比地、のちの朝来が漏れているが、朝来は当初多遅麻国主の在住地であったので県名を省いたものであろう)

オオナムチと八上姫の間に、ミヅシクシカメタマ(御出石櫛甕玉命)を生まれる。
御出石櫛甕玉命は、アメノホアカリ(天火明命)の娘、アメノカグヤマトメ(天香山刀売命)を妻にし、アメノクニトモヒコ(天国知彦命)を生む。

第1代神武天皇は、御出石櫛甕玉命の子、天国知彦命を(初代)御出石県主とする。
6年(前655年)春3月、天国知彦命は、国作大巳貴命・御出石櫛甕玉命を水石丘に斎き祀り、御出石神社と称しまつる。

式内御出石神社(名神大):豊岡市出石町桐野986
水石神社:豊岡市但東町水石 447
(元々は御出石県の中心は、豊岡市但東町水石であったと思われる。)

(初代)御出石県主となった天国知彦命は、小田井県主・イキシニギホ(生石饒穂命)(または稲年饒穂命、城崎郡故事記には瞻杵磯丹穂命、美含郡〃には胆杵磯丹杵穂命と記す)の娘、ニギシミミ(饒石耳命)を妻にし、アメノタダチ(天多他知命)を生む。
第2代綏靖スイゼイ天皇6年(実年西暦前32-15年)夏4月、天国知彦命の子、天多他知命を御出石県主とする。
天多他知命は、美伊県主の武饒穂命の娘、福井毘売命を妻にし、アメノハガマ(天波賀麻命)を生む。
第4代懿徳イトク天皇7年(実年西暦1-17)3月春2月 天多他知命の子、天波賀麻命を御出石県主とする。
天波賀麻命は、丹波国造の祖、真太玉命の娘、ユキヨヒメ(幸世毘売命、あるいはサチヨヒメ)を妻にし、アメノフトミミ(天太耳命)を生む。
第5代孝昭天皇40年(実年西暦18-59年)秋7月 天波賀麻命の子、天太耳命を御出石県主とする。
天太耳命は、小田井県主の佐努命の娘、サイビメ(佐依毘売命)を妻にし、マタオ(麻多烏命)を生む。

タニハから分国して多遅麻はヤマト政権下へ

ヒボコが登場するまでの出雲・伯耆・稲葉・二県と多遅麻のすべての県主は同様に出雲のオオナムチ(国作大己貴命)から世襲であった。

ところが、『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記突如、ヒボコが現れる。「6代孝安天皇53年、新羅王子天日槍帰化す」とはじまり、61年、多遅麻国造として出石県に府が置かれる。ヒボコは御出石県主天太耳命の娘、マタオ(麻多烏命)を妻とする。ヤマト政権であるヒボコと地元の県主の娘との婚姻は、まさに政略結婚である。

6代孝安天皇のころ、ヤマト政権が日本海のタニハ・タヂマをヤマト政権下に組み入れたと考察できる。

これは、播磨風土記にあるアメノヒボコと葦原志許乎命(伊和大神)との国争いが連想される。葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)→御形」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。

この説話の背景は、それまでの出雲系が支配していた中国地方から播磨・但馬・タニハのうち、日本海側をヤマト政権が戦わず倭(ヤマト)という大きな国に組み入れたことを語っているようにみえる。奇しくも、出石のヒボコから続いた多遅麻国造は、一度夜夫郡(養父郡)へ遷り、のちに気多郡へ遷ったあと但馬国府まで続く。

第6代孝安天皇53年*1 新羅の王子、天日槍命が帰化する。
天日槍命はウガヤフクアエズ(鵜草葺不合命)の御子、イナイ(稲飯命)の5世孫である。
アメノヒボコ(『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」)は、八種ヤクサ神宝カンダカラを携え、御船に乗り、秋津州アキツシマ(本州の古名)に来る。筑紫ツクシ(九州北部)より穴門アナト(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間ハリマ国(播磨)に至り、宍粟シソウ邑(今の宍粟市一宮町)に泊まる。人々は、この事を孝安天皇にお知らせする。
天皇は、すぐに三輪君の祖・オオトモヌシ(大友主命)と、倭直やまとのあたえの祖・ナガオチ(長尾市命)を針間国に遣わし、来日した理由を問うようにいわれた。
ヒボコは、謹んで二人に向かって話した。
「わたしは、新羅王の子で、我が祖は、秋津州の王子・イナイ(稲飯命)。そしてわたしに至り、五世におよぶ。
ただいま、秋津州に帰りたくなり、わが国(新羅)を弟の知古に譲り、この国に来ました。願わくば、一ウネの田を賜り、御国の民となりたい」と。
二人は帰りてこの由を天皇に奏す。

天皇はミコトノリ(天皇のおおせ、命令)して、針間国宍粟しさわ・しそう邑と淡路国出浅いでさ邑とをヒボコに与える。
しかし天日槍は、再び奏してう。
「もし、天皇の恩をいただけるのであれば、自ら諸国を視察し、意にかなうところを選ばせてください」と。
天皇はそれを許された。

ヒボコは、菟道川(宇治川)をさかのぼり、北に入り、しばらく近江国の吾名あな邑に留まる。さらに道を変えて、若狭を経て、西の多遅摩国(但馬)に入り、出島いずしま(*2)に止まり、住処スミカを定める。

ところで、近江国の鏡谷陶人かがみだにのすえとは、天日槍の従者で、よく新羅風の陶器を作る。
さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜る。(但馬を与える)
61年(前332年)春2月、ヒボコを多遅摩国造とする。

ヒボコは、御出石県主ミズシアガタヌシ・アメノフトミミ(天太耳命)の娘・マタオ(麻多鳥命)を妻にし、アメノモロスク(天諸杉命)を生む。

実は「天日槍」(または日矛神)を祭神としている神社は出石神社だけではなく、同じ旧出石郡の桐野にある御出石神社も現在は「日矛神」のみを御祭神とする。また出石郡では2社のみが名神大社(名神大)である。しかし御出石神社は出石神社よりも古く、元々の祭神は日矛神ではない。

『国司文書 但馬神社系譜伝』第五巻 出石郡神社系譜伝によると、

埴野郷 御出石ミズシ神社 出石郡御出石村鎮座
祭神 大己貴命・御出石櫛甕玉命
創建は人皇一代神武天皇6年春3月、御出石丘に鎮座す。この故に御出石県となす。

水石神社
但馬国一宮 出石神社

出石郷 伊豆志坐神社(出石神社) 出石郡出石丘鎮座
祭神 天日槍命・天太耳命・麻多烏命・稲飯命・御出石櫛甕玉命・天国知彦命・天多他知命
人皇七代孝霊天皇40年秋9月、(2代多遅麻国造)天諸杉命は天日槍を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝を納む。

(国史文書編纂者のひとりである)文部経道は、
謹んで案ずるに、古事記は八種神宝をもって『出石八前大神宝』となす。これ児戯じぎに似る見解なり。故に採らず。然りといえども、この日鏡は、天日槍の御霊代となすべく、熊神籬は、稲飯命の御霊代となすべし。その他は、稲飯命の瑞宝なるか。あるいは、また播磨風土記に帰化時代のものと説くをもって疑いあり。故に採らず。この一文は、新良貴氏(朝来主帳)の家伝により記すものなり。

今の出石神社御祭神は

  • 伊豆志八前大神(いづしやまえのおおかみ、出石八前大神)
  • 天日槍命(あめのひぼこのみこと)

となっている。

『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記は、「天諸杉命は天日槍を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝を納む」天日槍命と同等に神宝が祀られているが、『国司文書 但馬神社系譜伝』第五巻 出石郡神社系譜伝に記されている祭神は、天日槍命・天太耳命・麻多烏命・稲飯命・御出石櫛甕玉命・天国知彦命・天多他知命で、2代多遅麻国造となった天日槍命の子、天諸杉命が、「人皇7代孝霊天皇40年、伊豆志八座神を出石丘に斎き祀り、八種神宝を納む」となっている。

伊豆志八座神が祭神であり、八種神宝は納められた神宝である。伊豆志八座神は八種神宝のことではない。数が合わないが、天日槍命・天太耳命・麻多烏命・稲飯命・御出石櫛甕玉命・天国知彦命・天多他知命をさすのだろうか?

『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記は、御出石櫛甕玉命は但馬の各県を開いた国作大己貴命の子で、出石の祖である。その子孫が御出石県主として天国知彦命(初代)・天多他知命(2代)・天波賀麻命(3代)・天太耳命(4代)と天太耳命の娘でヒボコの妻となる麻多烏命、ヒボコは稲飯命の5世孫とある。

また、御出石神社の今の御祭神は日矛神であるが、実は、御出石神社の元々の御祭神はヒボコではなかったようだ。現在地は豊岡市出石町桐野986であるが、当初は御出石村で、今の豊岡市但東町水石であると思われる。古社地かどうかは分からないが、水石区内には水石神社がある。(そのことを示すように社号標は式内御出石神社)これは度々の洪水によって流失した社を、氏子中である周辺の村々によって現在地に再建したものである。


  • *1 孝安天皇6年 孝安天皇の在位は、実年で西暦60-110年と推察すれば、孝安天皇6年は1年を春と秋に分ける春秋年で今の1年が2年となるから、西暦63年ではないか?!
  • *2 出島 出石の誤記ではないかとも思われるが、今の伊豆・嶋を合わせたものではないだろうか?

8 第八巻・二方郡故事記 現代語

素盞鳴尊スサノオノミコトは、大山祇オオヤマツミ命の娘、神大市姫カムオオイチヒメ命を妻にし、
大年オオトシ命・蒼稲魂ウカノミタマ命をお生みになる。

大年神は、神活産霊カムイクムスビ神の娘、五十姉姫イソネヒメ命を妻にし、
(*1)大国魂オオクニタマ命・河原カワラ命・園墾ソネリ命・向日ムカヒ命・霊知ヒジリ命を生む。

また(*2)蒼稲魂命の娘、香用姫カヨヒメ命を妻にし、
大香山富オオカグヤマトミ命・御年ミトシ命を生む。

また(*3)火産霊ヒムスビ命の娘、天照瑞姫アメノミヅヒメ命を妻にし、
澳津彦オキツヒコ命・澳津姫オキツヒメ命・大山咋オオヤマクイ命・庭津日ニワツヒ命・阿須波アスハ命・波比伎ハヒキ命・香山富カグヤマトミ命・瑞山冨ハヤマトミ命・庭高津日ニワタカツヒ命・大地主オオツチ
を生む。

素盞鳴尊は、大年命・蒼稲魂命に勅して、フタアガタ(布多県)国を開かせる。(のち但馬国二方郡)
大年命は、蒼稲魂命とともに布多県国に至り、御子を督励して、田畑を開き、その地を称して、大田庭という。いま大庭オオバという。(美方郡新温泉町浜坂の岸田川西岸は旧大庭郷)

大年命は井久比宮に坐し、(今の居組、式内大歳神社:美方郡新温泉町居組字宮ノ前615)
阿須波命は葦屋宮に坐し、(今の芦屋)
澳津彦オキツヒコ命・澳津姫オキツヒメ命・火産霊ヒムスビ命は釜屋宮に坐し、(今の釜屋、村社三柱神社:美方郡新温泉町釜屋1)
庭津日ニワツヒ命は大木本宮に座す。(今の三谷。村社木本神社:美方郡新温泉町三谷59-2)

瑞山富命は、蒼稲魂命の娘、大食津姫命を娶り、
若山咋命・若年命・若草苗女命・瑞牧命・夏高津日命・秋高津日命・久々年命・久々伎・若室葛根命
を生む。
瑞山富命宇多中宮に坐し、(今の美方郡新温泉町歌長、村社歌長神社:美方郡新温泉町歌長804)
大食津姫命は御食津宮に坐し、(今の 〃 高山、村社美気津神社:美方郡新温泉町歌長(高山)2233)
若年命は波多茅原宮に坐し、(今の 〃 千原 村社若一神社:美方郡新温泉町千原字大畑790)
若山咋命は大前宮に坐し、(今の 〃 前 若一神社:美方郡新温泉町前320)
大山咋命は日枝宮に坐す。(今の美方郡香美町村岡区柤岡1 村社日枝神社
みな開国の祖神なり。
御年命は、瑞山富命の娘、若草苗女命を妻にし、久々伎若年命を生む。

第1代神武天皇5年(前656年)8月 瑞山富命の子・穂須田大彦命を布多県国造とする。穂須田大彦命は、久々年命の娘・萌生比売メバエヒメ命を妻にし、刀岐波彦命を生み、宇多中宮において国を治める。(美方郡新温泉町に歌長あり)

第3代安寧天皇10年(前539年)春3月 刀岐波彦トキワヒコ命を(2代)布多県国造とする。刀岐波彦命は刀岐波宮に坐して国を治める。(村社常磐神社:美方郡新温泉町中辻304)

第5代孝昭天皇元年(前475年)夏4月 刀岐波彦命の子・布伎穂田中フキホノタナカ命を布多県国造とする。布伎穂田中命は、黒杉大中彦命の娘・千々津比売命を娶り、糠田泥男ヌカダヒジオ命を生む。布伎穂田中命は、志波山シワヤマ宮にて国を治める。

(刀岐郷の地名に今の塩山に相当する鹽(塩)シオ山あり)(池田神社:美方郡新温泉町塩山字池田202)

第8代孝元天皇56年(前159年)春3月 布伎穂田中命の子・糠田泥男命を布多県国造とする。糠田泥男命は、磐山飯野命の娘・豊御食姫トヨミケヒメ命を娶り、宇津野真若ウツノマワカ命を生む。糠田泥男命は、泥男宮にありて国を治む。

(磐山飯野 今の美方郡新温泉町飯野。村社巖山神社:美方郡新温泉町飯野300-5)
(泥男は今の藤尾または辺地だろう。村社藤尾神社:美方郡新温泉町藤尾439-9、村社三柱神社:美方郡新温泉町辺地57)

人皇十代崇神天皇3年(前95年)秋7月 糠田泥男命の子宇津野真若命を布多県国造とする。宇津野真若命は波多大多類彦命の娘、真若毘売命を妻にし、高末真澄穂タカスエノマスホ命をを生む。

宇津野真若命は浜阪宮にて国を治める。(村社宇都野神社:美方郡新温泉町浜坂2456-4)

第11代垂仁天皇10年(前20年)春2月 宇津野真若命の子・高末真澄穂命を布多県国造とする。高末真澄穂命は、熊野狭津見クマノノサヅミ命の娘・飯依毘売イイビメ命を妻にし、弥栄滝田彦ヤサカノタキタヒコ命を生む。高末真澄穂命は、高末宮にありて国を治む。
(村社松上神社:美方郡新温泉町高末308)熊野は熊野郷熊野で現在の熊谷。国司文書別記 但馬郷名記抄』に「熊野連在住の地なり。故に味饒田ウマシニギタ命を斎き祀り、これを久麻神社と称しまつる。熊野・桧尾・伊角・香椎・金屋」(村社香椎神社:美方郡新温泉町熊谷字川竹原山665)

第12代景行天皇2年(72年)春3月 高末真澄穂命の子、弥栄滝田彦命を布多県国造とする。弥栄滝田彦命は、滝田宮にて国を治める。弥栄滝田彦命は、遷狛一奴ウカツクヌ命の娘、安来刀売ヤスギノトメ命を妻にし、美尼布ミネフ命を生む。(滝田は今の対田。『国司文書別記 但馬郷名記抄』では滝田村がある。また同記に「宇津野真若命の孫、八阪彦根命が遷狛一奴ウカツクヌ命の娘、安来刀売ヤスギノトメ命を妻にし、美尼布ミネフ命を生む。」とある。弥栄滝田彦命と八阪彦根命は同一人物と考えられる。『国司文書 但馬故事記』の場合でも、人名は所在地を姓として名があとにくるので、滝田命が名前とすれば、弥栄は滝田以前の当地の地名であったのかも知れない。(村社弥栄神社:美方郡新温泉町対田1009)

人皇13代成務天皇5年(135年)秋8月、出雲国造の同祖遷狛一奴命の孫美尼布命を二方国造とする。美尼布命は、田井宮にありて国を治む。大清富オオキヨトミ命の娘・美保津姫命を妻にし、二方開咋彦アキクイヒコ命を生む。(美方郡新温泉町に田井・清富あり)

神功皇后7年(207年)初2月 美尼布命の子、二方開咋彦命を二方国造とする。二方開咋彦命は、(天日槍5世孫 第5代)多遅摩国造天清彦の娘、須賀嘉摩比売スガノカマヒメ命を妻にし、宇多中大中彦命を生む。

二方開咋彦命は、田井宮にありて国を治む。(新温泉町田井)

人皇15代応神天皇六年(275年)春3月 二方開咋彦命の子・宇多中大中彦命(又の名は須賀大中彦命)を二方国造とする。宇多中大中彦命は、前原大珍彦命の娘・多久津毘売命を娶り、陽口開別ヤクノヒラキワケ命を生む。

人皇16代仁徳天皇十年(322年)春3月 宇多中大中彦命の子・陽口開別命を二方国造とする。陽口開別命は、井上湧津玉命の娘・井上滝流姫命を娶り、千原大若伊知命を生む。(陽口郷は、『国司文書別記 但馬郷名記抄』陽口郷に、壇岡村・切畑村・細機村・陽口村・桐岡村とあり、南から順にいうと細機村は多子、陽口村が丹土ではないかと思う。榛原公照来の頃からこの地区を照来となったのだろう。井上 新温泉町の地名にはないので井土の誤記では?)

人皇18代反正天皇三年(408年)秋7月 陽口開別命の子・千原大若伊知命を二方国造とする。千原大若伊知命は、千谷聖中津彦命の娘・千谷若子比売命を娶り、前原真若伊知命を生む。(村社若一神社:美方郡新温泉町千原字大畑790)

人皇21代雄略天皇22年(478年)夏6月 千原大若伊知命の子・前原真若伊知命を二方国造とする。前原真若伊知命は、戸田大弓臣ヘダノオオユミノオミ命の娘・清澄姫命を妻にし、伊角大若彦イスミノオオワカヒコ命を生む。(村社前原神社:美方郡新温泉町桐岡84)

人皇26代継体天皇24年(530年)秋7月 前原真若伊知命の子・伊角大若彦命を二方国造とする。伊角大若彦命は、宇多上大中彦命(又の名は須賀狭津男命)の娘・宇志賀毘売命を妻にし、檜尾真若彦ヒノキオノマワカヒコ命を生む。

第29代欽明天皇30年(568年)秋7月 伊角大若彦命の子、檜尾真若彦命を二方国造とする。檜尾真若彦命は、黒杉太立彦命の娘・黒杉太立姫命を妻にし、真弓射早彦命を生む。(黒杉は切畑に村社黒杉神社があり、切畑だろう。『国司文書別記 但馬郷名記抄』陽口郷にすで切畑村が載っているから、切畑より黒杉が呼称としては通っていたのかも知れない。)

人皇34代舒明天皇12年(640年)春3月 檜尾真若彦命の子、真弓射早彦マユミノイハヤヒコ命を二方国造とする。真弓射早彦命は、磐山野中彦命の娘・和田毘売命を妻にし、和田佐中命を生む。(真弓は陽口郷マユミ岡、今は香美町村岡区ケビ岡。「気多郡故事記」に「真弓氏は二方国真弓射早彦命の子で、真弓岡に徴し壇を作る。壇岡は多遅麻タヂマ国造の山公峯男が領行する所なり。」とあるので、気多郡の軍団はじめ、但馬の他の郡に置かれた軍団も、ここから真弓を頒布していたのかも知れない。真弓は壇とも書く。真弓(壇)で作った丸木の弓を真弓といい、用いる木によって、真弓・槻弓・梓弓・桑弓・拓弓等があった。)

人皇36代孝徳天皇2年(646)5月 二方国造真弓射早彦命に勅して、当国の甲冑カッチュウおよび弓矢を広い場所に収め、兵庫ヤグラ(*4)を作り、軍団を設けさせる。

物部連武田折命の末裔、湯母竹田連面沼メヌマ大穀ダイキ(*5)とし、
天道根命の孫、彦真倭命の末裔・大家首高志を小穀(*5)とし、
二方国造・須賀大中彦命の子、須賀狭津男サヅオ命の末裔・須賀美津男・須賀須寿男スズオおよび二方国造の子、和田佐中彦を校尉(*5)とし、
前原須賀流スガル・金屋都賀男ツカオ・葦屋与志以ヨシイ・釜屋与志男・熊野賀都与カツヨ・角鹿佐波治サキジを旅師(*5)とし、
伊角力・伊角牛・伊角真・伊角了・千原広・千原武・和田佐猪知・和田鶴井・金屋由・金屋堅を隊正(*5)とする。
(註:美方郡新温泉町に竹田・釜屋・金屋・和田・伊角・千原あり。須賀は、須賀神社がある宮脇の古名、大家は大家神社がある二日市)

およそ兵士の軍行においては、
弓一張・征矢ソヤ50隻・太刀一口・一火
駄馬6頭・一隊の駄馬30頭・一旅の駄馬400頭・革鼓カクコ2面、軍穀(*5)がこれを掌り、
大角2口、校尉これを掌り、
小角4口、旅師これを掌り、
努弓イシユミ2張、隊正これを掌る。
これを当国の軍制とする。

当国の大穀・竹田連面沼は、
葦田首道雄を召して、刀剣鉾鏃ホコヤジリを鍛えさせ、
楯縫連美佐雄を召して、楯を縫わせ、
矢作ヤハギ媒鷹オタカを召して、弓矢を作らせる。
その物が完成すると兵庫に収める。これにおいて、兵主神を祀り、軍団の守護とする。これを射所兵主神社という。(竹田とその周辺に二方の軍団の兵庫と兵主神社は置かれたと考えるので、射所は現存せず、『国司文書別記 但馬郷名記抄』に井土はないので、射所が井土ではないかと思う。村社二柱神社:美方郡新温泉町井土937)
またその祖・武田折命を兵頭丘に祀り、面沼神社と称えまつる。(式内面沼神社:美方郡新温泉町竹田1)
小穀・大家首高志は、その祖・天道根命の孫・彦真倭命を大庭丘に祀り、大家神社と申しまつる。(式内大家神社:美方郡新温泉町二日市字谷垣558-1)
校尉・須賀美津男は、その祖・須賀狭津男命を波多丘に祀り、須賀神社と申しまつる。(式内須賀神社:美方郡新温泉町宮脇193)

時は大化3年(647年)秋7月である。

これにならい、葦田首道雄は、その祖・天目一箇アメノマヒトツ命を細田丘に祀り、葦田神社と称えまつる。(八十矛神社:美方郡新温泉町細田)

楯縫連美佐雄はその祖彦狭知ヒコサシリ命を楯谷丘に祀り、楯縫神社と称えまつる。
矢作連媒鷹はその祖経津主命を矢作丘に祀り矢作神社と申しまつる。

第40代天武天皇白凰12年(683年)閏4月 文武官に軍事を教習させ、兵馬器械を具え、馬を持っている者は騎兵とし、馬無き者を歩卒とし、適時検閲する。牧場場を当国の刀伎波トキハ村に設け、刀伎波兵主神を祀り、兵馬の生育を祈らせる。
村社常磐ときわ神社 美方郡新温泉町中辻304)

第42代文武天皇庚子4年(700年)春3月 二方国を廃し、但馬国に合わせ、二方郡とする。

従七位上・榛原ハイバラ公照来(*6)を二方郡司と為し、郡衙グンガを端山郷に置く。
大宝元年秋9月 榛原公照来は、その祖大山守命を春木山に祀り、春来神社と申しまつる。(春来神社・式内春木神社:美方郡新温泉町春来827)

人皇45代聖武天皇の天平19年(747)冬9月、二方軍団を廃し、健児所コンデイと為す。健児所を二方郷に遷し、健児五人を置き、兵庫および鈴蔵を守らしめ、二方オビト大井麿を以って健児判官と為す。
二方首大井麿は兵主神社を兵庫丘に祀る。兵主神社これなり。(村社兵主神社:美方郡新温泉町田井448)

人皇四十六代孝謙天皇天平勝宝五年秋七月、従六位下・榛原公照来の子・従七位下・榛原公長麿をもって、二方大領(*7)に任ず。

人皇47代淡路廃帝(淳仁ジュンニン天皇)天平宝宇3年秋7月 無位大庭戸田麿を以て主帳に任じ、大初位下(*8)を授く。
大庭戸田麿は、その祖、天津麻良命を戸田丘に祀り、大庭神社と申しまつる。(村社戸田神社:美方郡新温泉町戸田ヘダ571-1)

人皇48代称徳天皇の神護景雲二年(768)夏六月、主帳大初位下・大庭造戸田麿を以て主政に任じ、十八位下を授く。凡海連オオシアマノムラジ美寿雄を以て主政に任じ、大初位下を授く。凡海連美寿雄は、その祖穂高高見命を小島丘に祀り、小島神社と申し祀る。(村社児嶋神社:美方郡新温泉町海上ウミガミ807)

第50代平城天皇大同3年(808年)秋8月 垂水公澄雄を以て主政に任じ、大初位下を授く。
垂水公澄雄はその祖、阿利真命を鐘尾山に祀り、多類神社と申しまつる。(多類神社:美方郡新温泉町鐘尾字岡411)

人皇52代嵯峨天皇弘仁元年(810年)夏5月 大いに軍事を奨め、健児を増す。これにおいてか、また兵主神を祀り、これを指杭兵主神社と云う。(村社指杭兵主神社:美方郡新温泉町指杭338)

人皇56代清和天皇の貞観6年(864年)正月 垂水公音麿を以て主政に任じ、大初位上を授け、葦屋村主スグリ真幸を以て主帳に任じ、大初位上を授く。葦屋村主真幸はその祖阿須伎命を葦屋丘に祀る。(芦屋には恵比須神社がある:美方郡新温泉町芦屋)

人皇59代宇多天皇寛平7年(895年)夏6月 従七位上、岸田臣春鷹の子、正八位下、岸田臣田公を二方大領に任ずる。

第60代醍醐天皇の延喜29年(920年)夏6月 今木連幸人を主政に任じ、大初位下を授く。内臣道麿を主帳に任じ、少初位上を授く。

今木連幸人はその祖、太忍信命を浜崎に祀り、内臣神社と申しまつる。(今木は今岡の古名。村社熊野神社(内臣神社):美方郡新温泉町今岡23、村社五十鈴神社(古くは与等神社):美方郡新温泉町用土2)

第62代村上天皇天暦2年(948年)春正月 正八位上、岸田臣田公の子、公助を以て、二方大領に任じ、今木連幸人・内臣道麿等に神社神名帳を作らせ、郷社に納む。(村社若一神社:美方郡新温泉町岸田字上田中1784)

右 国司の解状に依り、これを(国府に)注進する。
応和2年(962年)3月7日
二方大領・正八位上 岸田臣公助


[註]

*1 大国魂命以下五柱 記に「神活須毘神(かむいくすび)の娘伊怒比売、との間の子、大国御魂神・韓神・曾富理神・白日神・聖神(五柱)」とあり、それぞれ大国魂命・河原命・園墾命・向日命・霊知命に当たる。
*2 蒼稲魂命の娘、香用姫カヨヒメ命 記では、香用姫カヨヒメ命の親を伝えていないが、本記では蒼稲魂命の娘と明記する。
*3 火産霊ヒムスビ命の娘、天照瑞姫アメノミヅヒメ命 記では、天照瑞姫アメノミヅヒメ命を天知迦流美豆比売アメノチカルミヅヒメとし、親を伝えていないが、本記では火産霊命の娘と明記する。
*4  兵庫(やぐら) 櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。 木材などを高く積み上げた仮設や常設の建築物や構造物。
*5 大穀(だいき)・他
軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
軍団の規模は
千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。
六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。
五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。
*6 榛原公照来 『国司文書・但馬故事記』第一巻・気多郡故事記に、「第40代天武天皇13年 応神天皇の皇子、大山守命の裔、榛原公我麿を以って但馬国司と為す」とあり、その後裔であろう。
*7 郡司 大領・少領・主政・主帳 大宝令により、評が廃止されて郡が置かれ、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備される。郡司は、旧国造などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官。郡司として記す場合は大領または少領のことである。
*8 大初位(だいしょい、だいそい) 律令制の官職の位階における位の一つ。正一位から少初位下までの従八位(または従九位)の下、少初位の上の位階である。

7 第七巻・七美郡故事記 現代語

スサノオ(素盞嗚尊)は、オオヤマツミ(大山祇命)の娘、カムオオイチ(神大市姫命)を妻にし、
オオトシ(大年神)・ウカノミタマ(蒼稲魂神)をお生みになられる。
スサノオはオオトシに命じて、二方の地を開かせ、蒼稲魂神に命じて、牛知ウシロの地を開かせる。(牛知ウシロはいま小代オジロ

ツヌゴリタマ(角凝魂神)の娘、カムミズヒメ(神水姫命)を妻にし、ウシロミタマ(牛知御魂神)を生む。蒼稲魂神ウカノミタマは、牛知御魂神ウシロミタマに命じて久麻牛を秋の茅が広がる野に放ち、ミズヤマトミ(瑞山冨神)の子、ミズマキ(瑞牧神)に牧畜させる。

時にタカミムスビ(高皇産霊神)の子、角凝魂神ツヌゴリタマのその子イサフタマ(伊佐布魂命)は天より降りて、高井津原にて倭幡シヅハタを造る。それでその地を倭文シヅリという。(いま味取ミドリという)
またその地方を伊佐布御原という。いま伊曾布県イソフアガタというはこれである。
伊佐布魂神は倭文シヅリ宮に坐し、牛知御魂神は牛知宮に座す。
式内伊曾布神社:美方郡香美町村岡区味取字神町880-2)
式内小代神社:美方郡香美町小代区秋岡995)

時に鳴尾魔志牢ナルオノマシラ(*1)があちこちに出没し、人びとに害を及ぼす。伊佐布魂神・牛知御魂神は、これを出雲国のオオナムチ(大己貴命)に申し上げる。

(鳴尾は今の奈良尾。明治22年まで七美郡奈良尾村、昭和31年まで美方郡熊次村、のち養父郡関宮町、平成16年より養父市)

大己貴命は八千矛神ヤチホコカミとなって比々良伎ヒヒラキ御鉾ミホコによって征伐する。その地を鳴尾の多波礼坂と云う。ゆえにその地に八千矛神を祀る。いわゆる荒御魂神アラミタマカミはこれである。(荒魂神社:養父市奈良尾38-1)
また鳴尾魔志牢が駆け出す地を称して駆場という。いま駆原場というのはこれである。(現在の養父市川原場)
後世この地方にて怪異なことがあれば、荒御魂神を勧請するのはこれによる。
(荒霊神社:養父市川原場206、荒霊神社:養父市外野334)

第1代神武天皇3年(前658年)5月 大年神の子、香山富命を伊曾布県主とする。香山富命は、牛知御魂神の娘、実山姫命を妻にし、長須毘古命を生む。(一に事知主命)

41年夏6月 香山富命の子、香山主命を伊曾布県主とする。(香山は耀カガ山があるのでその古名か)
第2代綏靖スイゼイ天皇十◻年 香山主命の子、大香山命を伊曾布県主とする。(順序がおかしいがそのまま記す)
第2代綏靖天皇7年(前575年)春3月 香山富命の子、長須毘古命を伊曾布県主とする。
長須毘古命は、長井田中命の娘、長井姫を妻にし、勢主山セスヤマ彦命を生む。

第4代懿徳イトク天皇3年(前508年)秋7月 長須毘古命の子、勢主山彦命を伊曾布県主とする。(勢主山は不明。山のつく区名は作山・萩山)
勢主山彦命は、熊波彦命の娘、大熊姫命を妻にし、真流美マルミ若命を生む。

第5代孝昭天皇42年(前434年)3月 勢主山彦命の子、真流美若命を伊曾布県主とする。(真流美は今の丸味)
真流美若命は、大沼毘古命の娘、与多支比売命ヨサキヒメを妻にし、射弖良イテラ大彦命を生む。

第6代孝安天皇40年(前353年)6月 真流美若命の子、射弖良大彦命を伊曾布県主とする。(射弖良イテラとはどこだろう。村岡区でイのつく区名は板仕野イタシノ池ケ平イケガナル市原イチバラ
射弖良大彦命は、久須彦命の娘、久須美毘売命を妻にし、意富努賀刀米命オオノカトメを生む。

第7代孝霊天皇30年(前261年)6月 射弖良大彦命の子、意富努賀刀米命を伊曾布県主とする。(大沼・意富努は大野の異体字)
意富努賀刀米命は、布久邇志フクニシ比古命の娘、布久邇志比売命を妻にし、弖良賀和比遅テラガワノヒジ命を生む。(布久邇志比は、弖良賀和は香美町村岡区寺河内テラガワウチと思われる)

第8代孝元天皇35年(前180年)4月 意富努賀刀米命はの子、弖良賀和比遅命を伊曾布県主とする。
弖良賀和比遅命は、志賀田シカタ毘古命の娘、神坂カンザカ比売命を妻にし、黒田大彦命を生む。(志賀田は今の鹿田)

第9代開化天皇40年(前118年)6月 弖良賀和比遅命の子、黒田大彦命を伊曾布県主とする。
黒田大彦命は、森狭田津命の娘、八井富姫命を妻にし、丹戸タンド真若命を生む。

(森狭田は今の森脇、八井は八井谷、丹戸は明治22年まで七美郡丹戸村、昭和31年まで美方郡熊次村、のち養父郡関宮町、平成16年より養父市)

第11代垂仁天皇5年(前25年)7月 黒田大彦命の子、丹戸真若命を伊曾布県主とする。
丹戸真若命は、大雲刀美命の娘、佐々津姫命を妻にし、奈志賀波良ナシガワラ命を生む。

第12代景行天皇3年(73年)3月 丹戸真若命の子、奈志賀波良命を伊曾布県主とする。
奈志賀波良命は、草比遅毘古命の娘、大草毘売命を妻にし、布久佐毘古命を生む。

(奈志賀波良は今の養父市梨ケ原、草比遅は養父市草出、布久佐は養父市福定か?明治22年まで七美郡、昭和31年まで美方郡熊次村、のち養父郡関宮町、平成16年より養父市)

第13代成務セイム天皇5年(135年)9月 奈志賀波良命の子、布久佐毘古命を伊曾布県主とする。
布久佐毘古命は、二方滝田彦命の娘、滝中毘売命を妻にし、若須彦命を生む。

神功皇后32年(232年)7月 崇神天皇の皇子、豊城入彦命トヨキイリヒコの6世孫、タダビコ(多他毘古命)を伊曾布県主とする。
多他毘古命は、気多県主、多他別命の御子である。多他毘古命は、黄沼前県主、賀津日方建田脊命の娘、大山毘売命を妻にし、志都美シツミ毘古命を生む。

第16代仁徳天皇10年(322年)7月 多遅麻国伊曾布県を改め、志都美郡とし、多他毘古命の子、志都美毘古命を志都美郡司(*2)とする。
志都美毘古命は、府(郡家)を板石野原に置く。志都美毘古命は、美含郡司竹野別河原命の娘、花香姫命を妻にし、志都美若彦命を生む。

15年4月 志都美毘古命は、多他毘古命を小代の丘に祀り、多他神社と申しまつる。(式内多他神社:美方郡香美町小代区忠宮136)

第18代反正天皇2年(407年)正月 志都美毘古命の子、志都美稚彦命を志都美郡司とする。
志都美稚彦命は志都美毘古命を板石野原に祀る。(村社郡主神社:美方郡香美町村岡区板仕野1)
志都美稚彦命は、二方国造 陽口開別命の娘、乳原毘売命を妻にし、神阪中津彦命を生む。

第20代安康天皇2年(455年)6月 志都美稚彦命の子、神阪中津彦命を志都美郡司とする。
神阪中津彦命は、志都美稚彦命を萩山に祀る。(村社天満神社:美方郡香美町村岡区神坂248)

第25代武烈天皇4年(502年)夏6月 孝霊天皇の皇子、彦狭島命の末裔、宇自可臣幸世を七美郡司とする。
幸世は宇自可郷を開く。いま兎塚ウヅカ郷というのはこれである。

(現在の美方郡香美町村岡区福岡地区。以降兎塚・兎束とあるが同じ。原文を尊重するのでそのままとする。)

第30代敏達天皇3年(574年)秋7月 宇自可臣幸世の子孫、狭立を七美郡司とする。
狭立はその祖、彦狭島命を兎束の丘に祀り、高阪神社と申しまつる。(式内高阪神社:美方郡香美町村岡区高坂165-1)

第37代孝徳天皇の大化3年(647年)秋7月 孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命の末裔、小黒冠岡首黒野麿を七美郡司とする。(岡とはのちの村岡)
岡首黒野麿はその祖、天帯彦国押人命を七美村に祀り、黒野神社と称えまつる。(黒野神社 式内志都美神社2座:香美町村岡区村岡字宮ノ脇723)

第40代天武天皇の白凰12年(683年)夏5月 七美郡司黒野麿は、勅を受け、兵馬器械を備え、武事を講習する。兵庫(*3)を小代村に設け、兵器を納める。

葦田首刀伎雄を召し、刀剣鉾鏃を作らせ、
楯縫連楯彦を召し、楯・甲冑を縫わせ、
矢作連速鷹を召し、弓矢を作らせる。

黒野麿は、兵主神を兵庫に祀り、兵庫の守護神とする。
葦田首刀伎雄はその祖、天目一箇命を鍛冶の丘に祀り、葦田神社と申しまつる。
楯縫連楯彦はその祖、彦狭知命を楯縫の丘に祀り、楯縫神社と申しまつる。
矢作連速鷹はその祖、経津主命を矢作の丘に祀り、矢作神社と申しまつる。

第41代持統天皇5年夏6月 岡首黒野麿の子、広進四・岡首用野麿を七美郡司とする。

第42代文武天皇の大宝2年(702年)春3月 鹿田首道麿を主政に任じ、高家首菟道麿を主帳に任じ、共に大初位上(*4)を授かる。

郡司岡首用野麿を大領に任じ、従八位上を授く。
鹿田首道麿はその祖、雷大臣命を鹿田の丘に祀り、鹿田神社と申しまつる。(村社二柱神社:美方郡香美町村岡区村岡63-2鹿田区)
高家首菟道麿はその祖、天道根命を高井の丘に祀り、高井神社と申しまつる。(村社高井神社:美方郡香美町村岡区高井185)

第47代淡路廃帝(淳仁天皇)天平宝宇4年(760年)冬10月 従八位上・岡首用野麿の子、広野麿を大領に任じ、従八位下を授く。
熊野連吉射を主政に任じ、大初位上を授け、
耀山首丹磯城を主帳に任じ、少初位上を授く。

熊野連吉射はその祖、味饒田命ウマシニギタを平野の丘に祀り、久麻神社と称えまつる。(村社熊野神社:美方郡香美町小代区平野17)
耀山首丹磯城はその祖、素盞嗚命スサノオを耀山に祀り、耀山カガヤマ神社と申しまつる。(村社八坂神社:美方郡香美町村岡区耀山かかやま263-2)

第53代淳和天皇の天長4年(827年)冬12月 正八位下・豊日連伊知井を大領に任ずる。(豊日は今の市原)
豊日連伊知井はその祖、物部連豊日命を市原の丘に祀り、等余神社と称えまつる。(式内等余神社:美方郡香美町村岡区市原字豊田497-2)

天長5年(828年)夏5月 江首琢麿を主政に任じ、大初位上を授く。
山代直都自麿を主帳に任じ、少初位上を授く。
江首琢麿はその祖、久米津彦命を入江の丘に祀り、江神社と申しまつる。(江は今の入江。村社入江神社:美方郡香美町村岡区入江1669-2)
山代直都自麿はその祖、天御影命を兎束の丘に祀り、天御影神社と申しまつる。(村社八幡神社:香美町村岡区福岡216-1)

第59代宇多天皇の寛平2年(890年)夏5月 伊知井の子、正八位上・豊日連高井を大領に任ずる。
兎束臣義麿を主政に任じ、従八位下を授け、長巣(今の長須)村主(*5)正恵を主帳に任じ、大初位下を授く。
長巣村主正恵はその祖、天事代主命を長巣の丘に祀る。(村社長須神社:美方郡香美町村岡区長須340-2)

第61代朱雀天皇の承平5年(935年)秋7月 義麿の子、従八位上・兎束臣百足を大領に任ずる。
江首長麿を主政に任じ、大初位上を授け、豊日連長井を主帳に任じ、少初位上を授く。
兎束臣百足は、江首長麿・豊日連長井に命じ、神社神名帳を作らせ、郷社に納める。

(式内社8社・式外社11社 記載は省く)

右 国司の解状により、これを(但馬国府の国学寮へ)注進する。
七美大領・従八位上 兎束臣百足
天徳3年(959年)8月15日


[註]

*1 鳴尾魔志牢ナルオノマシラ

『国司文書別記 但馬郷名記抄』によると、七美郡駅家郷鳴尾村
鳴尾真志良潜居の地なり。八千矛神はこれを駆り出し、真志良は草に隠ったので、その地を「隠原」という。この隠原に火を放ち、これを焼いた。その地を「火出野」という(いま外野あり)。真志良は火を恐れて、森林より出てきたので「草出」という。八千矛神は真志良を征伐した。その地を鳴尾の多波礼山という。
後世当地方で怪異あれば、すなわち荒御魂神を勧請するはこの因に依る。

おそらく野生ザルか獣だろう。鉢伏山西麓の香美町小代区サネ山・水間・石寺・廣井にも荒御霊神社・荒魂神社がある。鉢伏山一帯には野生ザルあるいは熊・イノシシ・鹿が生息しており、田畑の作物や民が害を被っていただろうことは、但馬中の地域で現在でも同じである。

*2 郡司、大領・少領・主政・主帳 大宝令により、評が廃止されて郡が置かれ、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備される。郡司は、旧国造などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官。郡司として記す場合は大領または少領のことである。
*3  兵庫(やぐら) 櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。 木材などを高く積み上げた仮設や常設の建築物や構造物。
*4 大初位(だいしょい、だいそい) 律令制の官職の位階における位の一つ。正一位から少初位下までの従八位(または従九位)の下、少初位の上の位階である。
*5 村主(スグリ) 帰化人で、中国大陸および三韓に出自を持つ渡来人系氏族の姓(かばね)の一つ。古代朝鮮語の郷,村を意味するsu‐kur(足流)という語に由来する。


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6 第六巻・美含郡故事記 現代語

アメノホアカリ(天火明命)は后のアメノミチヒメ(天道姫命)といっしょに、

サカヘノアマツモノノベ(坂戸天物部命)・ナミツキノ 〃 (両槻天物部命)・フタタノ 〃 (二田天物部命)・シマヘノ 〃 (嶋戸天物部命)・タルヒノ 〃 (垂井天物部命)を率いて、天磐船アメノイワフネに乗り、高天原より丹波国に降りられる。

これより先に、トヨウケヒメ(豊受姫命)は高天原より降り、丹波国射狭那子嶽イサナゴダケ(*1)にあり、農耕を営まれる。

天火明命は垂井天物部命に、五穀蚕桑ゴコクサンソウの種子を求めさせる。豊受姫命は天熊人命に、種子を与え、かつ農耕のやり方を教えられる。
天火明命はすぐに射狭那子嶽イサナゴダケに行き、真名井を掘り、その水を引き、田畑を定め、ことごとく植える。その秋豊かに実る。

豊受姫命はこれを見て大いに喜び、「大変良い。」と大いに褒め、田庭に植えさせる。この地をのちに田庭タニワという。丹波タンバの名はこれに始まる。

のちに豊受姫命は丹波国与謝郡真名井原に斎きまつり、豊受大神宮と称えまつる。(籠神社奥宮 眞名井神社:京都府宮津市江尻)
そのあと、天火明命、は五穀蚕桑を国中に頒かち、大神におおみたから(蒼生)を幸福にした。

この時、オオナムチ(国作大巳貴命)・スクナビコナ(少彦名命)・ウカノミタマ(蒼魂命)は、諸国を巡って見て高志国(越の国)にとどまり、アメノホアカリを呼んで言った。

「あなたは、この国を治めるのがよい。」
アメノホアカリは、大いに喜び言った。
「永世です。青雲の志楽国」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる)
今の志楽村はこれである。(京都府舞鶴市志楽あり)

アメノホアカリは、のちタニマ(谿間)に入り、佐田稲飯原を開き、御田オダをなす。また天熊人命を夜父ヤブに遣わし、蚕桑の地を探させる。
天熊人命は、夜父の谿間に行き、桑を植え、蚕をう。谿間(但馬)の名はこれに始まる。

また垂井天物部命に、真名井を黄沼前キノサキ(*2)に掘らせ、御田を開き、稲を作らせる。それでこの地を御田井の吾田アガタという。小田井県オダイアガタと称するのはこれによる。(のち黄沼前県、城崎郡)

また竹野吾田タカノアガタを開く。これを竹野県という。また狭津サヅ吾田を開く。これを御井吾田ミイアガタという。美伊県と称するのはこれによる。

古老が伝えて云うには、
坂戸サカヘ天物部命(城崎郡佐々浦氏の遠祖)
両槻ナミツキ天物部命( 〃 桃島氏の 〃 )
二田フタタ天物部命( 〃 楫戸氏の 〃 )
嶋戸シマヘ天物部命( 〃 帆前氏の 〃 )
垂井タルイ天物部命( 〃 都自氏の 〃 )
を率い、天磐船アメノイワフネに乗り、谿間の海岸を廻る時、狭津川に黄色の泥水が流れ出て、御船を黄色にする。それでこの皮を黃船川という。(今の佐津川)

御船はイカリ山に泊まる。川の瀬戸を切り開き、瀬崎を築く。その水嶋山のうしろに漂う。それで水ヶ浦という。

第1代神武天皇3年(前658年)秋8月 小田井県主、胆杵磯饒穂命イキシニギホの子、武饒穂命タケニギホ美伊ミイ県主アガタヌシとする。
武饒穂命は大国主命の娘、美伊比咩ヒメ命を妻にし、武志摩命を生む。武饒穂命に従って越の国に帰る。

郷名は美含ミクミ郷という。美含は水汲みの意味である。井の水は浅く汲むべし。御井神社が鎮座する所。御井神は、オオナムチが稲葉八上姫に通い生まれた所。木俣神と申しまつり、加賀国白山に鎮座する。ゆえにまた、白山比咩神と称えまつる。

第2代綏靖天皇25年(前557年)夏5月 武饒穂命の子、武志摩命(または志麻命)を美伊県主とする。
武志摩命は、小田井県主、胆杵磯饒穂命イキシニギホの娘、香恵姫命を妻にし、武波爾タケハニ命を生む。

第4代懿徳天皇30年(前481年)秋7月 武志摩命の子、武波爾命を美伊県主とする。
武波爾命は、小田井県主、味饒田命ウマシニギタの娘、川口姫命を妻にし、石津来命イシズキを生む。

第5代孝昭天皇76年(前400年)春3月 武波爾命の子、石津来命を美伊県主とする。石津来命は、小田井県主、佐努命サノの娘、佐努津姫命を妻にし、武美努志命タケミノシを生む。

第6代孝安天皇65年(前328年)夏5月 石津来命の子、武美努志命を美伊県主とする。
武美努志命は、小田井県主、与佐伎命ヨサキの娘、佐伎津姫命を妻にし、大努乃命オオノノを生む。

第7代孝霊天皇60年(前231年)秋8月 武美努志命の子、大努乃命を美伊県主とする。
大努乃命は、小田井県主、布久比命の娘、耳井姫命を妻にし、宇比智命を生む。

第8代孝元天皇48年(前167年)夏6月 大努乃命の子、宇比智命を美伊県主とする。
宇比智命は、小田井県主、美々井命の娘、宇津志毘売命ウツシビメを妻にし、美伊毘古命ミイビコを生む。

第9代開化天皇40年(前118年)秋9月 丹比宿祢タジノスクネの遠祖、天忍男命アメノオシオの子、若倭部連ワカヤマトベノムラジの祖、武額明命タケヌカアカを美伊県主とする。
武額明命は、小田井県主、小口宿祢命の娘、吉江姫命を妻にし、武波麻命を生む。

第10代崇神天皇10年(前88年)秋9月 丹波国青葉山の賊、陸耳御笠クガミミノミカサが群盗を集め、民の物を略奪する。そのやからである狂の土蜘蛛ツチグモ多遅麻タヂマに入り、悪事を極める。多遅麻国造の天日楢杵命アメノヒナラキは皇都に申し上げる。

天皇は彦坐命ヒコイマスに勅して、これを討つように命じる。

(以下、気多郡故事記他と重複するので割愛する)

彦坐命は諸将を指揮して陸耳に迫る。その時彦坐命の甲冑が鳴動して光を発する。その海を名づけてヨロイ浦という。(美方郡香美町香住区鎧)

当芸利彦命トゲリヒコは陸耳に迫り、これを刺し殺す。それでその海を勢刺イキサノ海という。勢刺イキサを伊伎佐という。

彦坐命は、諸将とともに出雲国に至り、美保大神・八千矛神(出雲大社)を詣で戦功をお礼をし、伯耆・稲葉(因幡)の海上を経て、二方国を過ぎ、暴風に遭い、辛うじて諸寄の港に入る。それで難棹カネサシ諸寄モロヨセ港という。(村社為世永イヨナガ神社:美方郡新温泉町諸寄3239)

暴風が止むと、彦坐命は船を進めて、多遅麻の舟生水門フナフノミナトに入ると大アワビが船と化して王軍を導き、丹波国余謝浦島に至る。

彦坐命は船となった大アワビを拝して神霊とし、11月3日皇都に凱旋する。天皇はその功を賞して、丹波道(丹波国・但馬国・二方国)を賜う。

12月 彦坐命は諸将を率いて、多遅麻粟鹿県に下り、諸将を各地に置く。

15年(前83年)秋9月 美伊県主武額明命は、大国主命・玉櫛入彦命タマグシイリヒコを安来浦に祀り、安来坐神社という。(村社国主神社:美方郡香美町香住区安木1305-3)

28年(前70年)夏4月 武額明命は、美伊毘古命に命じて、美伊県主武饒穂命・美伊比売命を黄沼川キヌガワ(佐津川の古名)の上に祀る。(式内美伊神社:美方郡香美町香住区三川87-1)

武額明命はのち大倭国(大和国)に従う。

冬10月 武額明命の子、武波麻命を美伊県主とする。武波麻命は、天砺目命の娘、佐伊良姫命を妻にし、大佐古命を生む。

第11代垂仁天皇60年(31年)秋7月 武波麻命の子、大佐古命を美伊県主とする。
大佐古命は、武砺目命タケノトメの娘、狭依姫命を妻にし、吉備津彦命を生む。

第13代成務天皇5年(135年)秋9月 懿徳イトク天皇の皇子、当芸志毘古命の12世孫、春野命を竹野別タカノワケとし、竹野ムラに居るのでまたは竹野別命といい、その後裔を竹野別という。
当芸志毘古命は、河内師木シキ県主(*3)、息石耳命オキイシミミ(安寧天皇第一皇子)の娘、天豊津姫命の子である。竹野別命は、竹野彦命が大佐古命の娘、待宵姫命を妻にして生まれる。

第14代仲哀天皇元年(192年)夏4月 先帝の皇子、稚渟気命ワカヌケのために若倭部ワカヤマトベを定め、吉備津彦命にその部民ベミンを領させる。吉備津彦命は多遅麻若倭部を領し、舟生に居る。(今の香美町香住区浦上)吉備津彦命は、竹野彦命の娘、高野姫命を妻にし、若倭部命を生む。その後裔を若倭部という。

2年(193年) 天皇は皇后の息長帯姫命オキナガタラシヒメ(神功皇后)とともに越前笥飯宮エチゼンケヒミヤ(気比神宮)に行幸される。そしてのち、皇后を笥飯に置き、さらに南を巡行される。紀伊国に至る時、たまたま筑紫の熊襲クマソソムく。

天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后に教えて穴門アナト国において会うことを伝えられ、自ら海に及び穴門国に至る。

皇后は、越前角鹿ツヌガ(今の敦賀)より船で、北ノ海(日本海の古名)に取り、若狭・加佐・余謝・竹野タカノ海(丹後)を経て、多遅麻国三嶋水門ミナトに(*4)入り、内川(今の円山川)を遡り、粟鹿大神・夜父大神(養父神社)に詣でられる。ついで出石イヅシ川を遡り、伊豆志イヅシ大神(出石神社)に詣でられる。

伊豆志県主、須賀諸男モロオ命はその子、須義芳男命を皇后に従わせる。
須義芳男命は、豪勇で腕力があり、射狭浅太刀イササノタチを脇に差し随身する。それで荒木帯刀部タチハキベノ命という。
皇后は下って小田井県大神に詣で、水門に帰りお泊りになる。その夜、越前笥飯宮に坐す五十狭沙別大神イササワケノオオカミが夢に現れ、皇后に教える。
「船で海を渡るには、必ず船魂フナタマ神を祭るべし」
皇后は教えに従い船魂神を祀る。また御食を五十狭沙別大神にお供えする。
それでこの水門を気比浦という。

皇后の御船がまさに水門を出ようとする時、黄沼前キノサキ県主、勝日方命はその子、武日方命タケヒカタに教えて、皇后に従い先導をさせる。
建日方命は海童ワダツミ神を御船に祀り、仕えまつる。ゆえに御名を称えて水先主命という。

御船が伊技佐の海に至ると日が暮れる。この時五十狭沙別大神イササワケノオオカミ御火ミホを御崎に現す。それによって海面が明るくなる。それでこの御崎を伊佐々御崎という。御火は御船を導き、二方国の浦曲ウラワに至り留まる。その浦を名づけて御火浦ミホノウラという。(のち火を避け、尾となすため三尾浦という。新温泉町三尾)

御船は綱を陸上の松につなぐ。今その松を柱カカリの松という。ここを出て西に進み、塩屋浦に泊まり、ついに穴門国(長門国)に達する。

神功皇后3年(203年)夏5月 春野命の子、鹿島命を竹野別タカノワケとする。
夏6月 五十狭沙別大神を美伊県の伊伎佐イギサ山に祀り、椋椅部首クラハシベノオビトを神人とし、祝部を定める。それでこの山を称して大祝部山という。(式内伊伎佐神社:美方郡香美町香住区余部2746-2)

7年(207年)春正月3日 美伊県主吉備津彦命が亡くなる。舟生山に葬る。

50年(250年)秋8月 鹿島命の子、河原命を竹野別とする。

第16代仁徳天皇元年(313年)夏6月 若倭部命の孫、青島命の子、仁良山命を美伊県主とする。

30年(342年)春 美伊県を美含県とする。

第17代履中天皇4年(403年)秋8月 仁良山命の子、舟生命を美含県主とする。

第19代允恭天皇41年(452年)秋9月 舟生命の子、長井命を美含県主とする。

第21代雄略天皇17年(473年)春4月 出雲国土師連ハジノムラジの祖、阿笥アケ部属ミヤツコ、阿故氏人ら部属を率いて阿故谷に来て清器スエキを作る。阿故は赤土のこと。埴を延ばすことをヒクという。それでその所を蕩森ヒクノモリという。

夏5月 気多郡陶谷甕主は部属を率いてまた来る。スエ器・ハジ器を作る。
また小埦甕人オマリカメビト来る。清器を作る。
出石県埴野ハニノ邑の埴田陶人は陶居スイ邑に移住し、スエ器・土器を作る。のち土生ハブに移り、その業を営む。埴生邑は陶谷氏人がこの地に住み、その業をなす。
阿故氏人アコノウジビトは阿居王(一に吾笥アケ)を阿故谷の丘に祀り、阿故谷神社と申しまつる。(森神社・式内阿故谷神社:豊岡市竹野町轟356-1)
陶谷甕主はその祖、野見宿祢命を陶谷の丘に祀り、陶谷神社と申しまつる。(村社八幡神社:豊岡市竹野町鬼神谷無番地)
小埦甕人はその祖、建埦根命タケマリネを小埦の丘に祀り、小埦神社と申しまつる。(村社八坂神社:豊岡市竹野町小丸183-2)
埴田陶人はその祖、大襲盤命オオソバを陶居の丘に祀り、埴生田神社と申しまつる。(村社八坂神社:豊岡市竹野町奥須井無番地)

第22代清寧セイネイ天皇3年(482年)夏5月 桑原臣の祖、多奇市は勅を受け、多遅麻に下り、桑を植え、蚕を養い、絹を織り、これを貢上る。朝来県桑市邑、美含県桑原邑、長糸邑はこれである。

5年夏6月 桑原臣多奇市を美含県主とする。多奇市は崇神天皇の皇子、豊城入彦命トヨキイリヒコの八世孫である。

第24代仁賢ニンケン天皇2年(489年)秋8月 桑原臣多奇市は、その父の久邇布を桑原邑に祀り桑原神社という。(式内桑原神社:豊岡市竹野町桑野本1164)
崇神天皇は、紀伊国那珂郡荒川刀弁アラカワトベ命の娘、遠津綾目真細姫命オヅアヤメノサナウズメを妻にし、豊城入彦命を生む。
豊城入彦命は八綱田ヤツナタ命を生む。
八綱田命は彦狭島命ヒコサシマを生み、彦狭島命は大荒田別命オオアラタワケを生む。
大荒田別命は竹野彦命タカノヒコの娘、宇日比売ウヒヒメ命を妻にし、多奇波世命タキハゼ太多別命タダワケを生む。(太多別命は気多郡故事記では、多他毘古命)

多奇波世命は、若倭部青島命の娘、舟生姫命フナフヒメを妻にし、竹努乃命タカノノヒメを生む。
竹努乃命は河会命の娘、狭山姫命を妻にし、多久比命を生む。(豊岡市竹野町に宇日・田久日)
多久比命は、宇津毘古命の娘、宇津比売命を妻にし、久邇布命を生む。
久邇布命は大野命の娘、高比売命を妻にし、多奇市命を生む。
多奇市は雄略天皇8年夏6月 皇后のために桑木を大和の初瀬朝倉広原(今の奈良県桜井市)に作る。それで桑原臣を賜う。

第27代安閑天皇元年(534年)夏4月 桑原臣多奇市の子、佐自努公サジノキミを美含県主とする。

第29代欽明天皇32年(571年)春2月 佐自努公が亡くなる。在任38年、寿68。平田原に葬る。
春3月 佐自努公の子、佐須地公を美含県主とする。佐須地公は祠を建て、佐自努公を祀る。佐受神社はこれである。(式内佐受神社:美方郡香美町香住区米地字宮脇417-2)

第33代推古天皇35年(627年)春2月 佐須地公の子、香住彦カスミヒコを美含県主とする。
香住彦は市場を開き、貨物を交易する。

第39代天武テンム天皇の白凰2年(673年)秋8月 椋椅部連小柄を美含大領オオミヤツコ(美含郡司の最高職)とし、郡家(*5)を長井邑に置く。椋椅部連小柄は伊香色男命の16世孫である。

12年(683年)夏5月 美含大領・椋椅部連小柄は勅を受け、兵馬器械を備え、武事を講習し、兵庫ヤグラ(*6)を伊久刀イクトの丘に設け、兵器を納める。

嶋戸天物部命の末裔、原造義踏ハラノミヤツコヨシフミを召し、兵庫の典鑰テンリン(*7)とする。原造義踏ハラノミヤツコヨシフミ兵主ヒョウズ神を伊久刀の丘に祀り、兵庫の守護神とする。(村社兵主神社:美方郡香美町香住区九斗152-2)
また楯縫連タテヌイノムラジ彦麿を召し、楯を縫わせる。
葦田首アシダノオビト鞆雄トモオを召し、刀剣・ホコヤジリを鍛える。
矢作連ヤハギノムラジ鷹取を召し、弓矢を作らせる。

楯縫連彦麿はその祖、彦狭知命ヒコサシリを楯屋の丘に祀り、楯縫神社と申しまつる。浅香村(丹生地の古名)は楯縫氏の部属ミヤツコである。(村社多田神社:美方郡香美町香住区丹生地840 通称:田宮)
葦田首鞆雄はその祖、天目一箇命を鍛冶の丘に祀り、葦田神社と申しまつる。(村社竈戸カマド神社:美方郡香美町香住区上岡字上ノ山201)
矢作ヤハギ連鷹取はその祖、経津主フツヌシ命を矢作の丘に祀り、矢作神社と申しまつる。(兵主神社:美方郡香美町香住区隼人字宮前195-1)

13年(684年)秋7月 (美含郡司)大領の椋椅クラハシ部連小柄は、伊香色雄命を蚕原ウバラ(今の小原)の丘に祀り、氏神とする。伊香色雄命は饒速日命の6世孫である。(式内椋椅神社:美方郡香美町香住区小原827-1)

饒速日ニギハヤヒ命は、大和国鳥見毘古命トミビコの娘、御炊屋姫命ミカシキヤヒメを妻にし、宇摩志麻遅ウマシマジ命を生む。
宇摩志麻遅命は、彦湯支命ヒコユキを生み、彦湯支命は出石心命イヅシココロを生み、出石心命は大矢口命オオヤクチを生み、大矢口命は伊香色雄命イカシコオを生み、伊香色雄命は大水口命オオミナクチを生む。大水口命を森の丘に斎きまつる。(村社吉野神社:美方郡香美町香住区森989-1)

14年(685年)秋9月 竹野浜成は竹野別命を河島山に祀る。(式内鷹野神社:豊岡市竹野町竹野84-1)

第42代文武モンム天皇の庚子カノエネ4年(700年)春3月 二方国を廃し、但馬国に合わし、八郡とする。
朝来アサコ養父ヤブ出石イヅシ気多ケタ城崎キノサキ美含ミクミ七美シツミ二方フタカタはこれなり。
国府を気多郡国府市場コフノイチバに置き、これを司る。(現在の豊岡市日高町)

大宝2年(702年)夏4月 安来我孫ヤスキノアビを、美含郡の主政(*8)に任じ、大初位上ダイショイジョウ(*9)を授け、
凡海連オオシアマノムラジ寿美を主帳に任じ、大初位を授く。
安来我孫は大国主神の孫、天八現津彦命アメノヤウツヒコの末裔である。
昔、垂仁スイニン天皇の頃、県主の建額明命タケヌカアカが斎きまつる神、大国主神オオクニヌシ櫛入彦命タマクシイリヒコは安来村に坐し、社殿を造営し、祭祀を行う。
凡海連寿美はその祖、穂高見命を谷の丘に斎きまつり、沖神社と申しまつる。(村社沖浦神社:美方郡香美町香住区訓谷562-1)

慶雲3年(706年)秋7月 諸国に疫病が流行し、多くの人が死ぬ。美含大領の椋椅部連小柄は、
粟鹿アワガ大神(彦坐命)・五十狭沙別大神を伊伎佐山に祈る。
大新川命オオニイカワの15世孫、矢田部連守柄を美含大領に任じ、田租法を定める。
4年(707年)夏6月 矢田部連守柄はその祖、大新川命オオニイカワ法庭ノリバの丘に祀り、法庭神社と称えまつる。(式内法庭神社:美方郡香美町香住区下浜591-1)
矢田部連守柄は、饒速日命ヒギハヤヒの6世孫、伊香色雄命イカシコオの子、大新川命の末裔である。

第44代元正ゲンショウ天皇は天下に令して、地方の荒れ地を開かせ、三世一身の制を定める。
そうはいっても、三世が尽きれば、すぐに公に返すのが定めなので、これをもって開発をする者は少ない。

第45聖武ショウム天皇は、この制を改め、永く私領とする制を定められる。これにより、高位高官の人はもとより、伴造トモノミヤツコ(*9)・国造クニノミヤツコ(*10)らの旧族に至るまで、国守・郡司の官を罷め、その土地に住み、荒れ地を開き、土地を所有する。これが荘園のもとである。

神亀4年(727年) 大いに戸数が増える。それで口宣により郷里を置く。佐須・竹野・桑原・美含・香住。
また戸を編成するに満たないものは、特に余戸アマリベ・アマルベを置く。(*11)

5年(728年)夏5月 大領・従八位上・矢田部連守柄は、その同族の勇山イソヤマ連市牛麿・長谷山直柁麿を召し、余戸を開かせ吾田とする。(香美町香住区余部)

勇山連市牛麿は、その祖、出雲色雄命を伊伎佐社に祀る。出雲色雄命は饒速日命の3世孫である。
また大領・少領・主政・主帳らの子弟・同族は、各所に出向し、部民を督励し荒れ地を開く。
桑原臣善積は、河南谷を開き、その祖、桑原臣多奇市を星ヶ森山に祀り、星神社と申しまつる。(村社星神社:豊岡市竹野町川南谷86)
桑原臣善友は、苗原ナエハラを開き、天熊人命を苗原の丘に祀り、(苗原神社、今は桑原神社:豊岡市竹野町森本字苗原463-1)
杉・桧を杉谷に作り(村社産霊神社:豊岡市竹野町三原178-2)、熊野大隅命を杉山に祀る。(村社熊野神社:豊岡市竹野町須野谷611-1)
また水害を祈るため、瀬織津姫神を大川森に祀る。(村社大川神社:豊岡市竹野町御又80-1)

佐自努公正躬マサミは、谷村を開き、その祖、佐自努公を谷の丘に祀る。(式内佐受神社:美方郡香美町香住区米地字宮脇417-2)
苗原神社・神原神社・熊野神社・大川神社・佐受神社の初めである。
巨椋連栲津麿オグラノムラジタエツマロは、美含郷に来る。山毛欅ブナ山に入り、セン工(*12)を始め、その祖豊鉢命を巨椋山に祀り、巨椋神社と申しまつる。(大蔵神社:美方郡香美町香住区本見塚)

天平19年(747年)春3月 本郡の兵庫を竹野郷に遷し、武事を練習する。
葦田首鞆麿を兵庫の典りんとする。葦田首鞆麿は兵主神を兵庫の側に祀る。それでその地を芦田村という。(兵主神社:豊岡市竹野町芦谷小155)
美含大領従八位上・矢田部連守柄は、伊多首辰巳(*13)を召し、竹野郷に遣わし、金原の赤金谷鉱石を探させ、これを採掘させる。陶谷スエダニヒク・小埦・埴生(*14)の陶人らによって、これを発見させる。

伊多首辰巳はその祖、石凝姥命イシコリドメを大谷の丘に祀り、日御前ヒノミサキ神社と申しまつる。(村社日御前神社:豊岡市竹野町東大谷無番地)

夏6月 出雲原直饒津麿ニギツマロは三川山を開き、その祖、美伊県主武饒穂命・美伊毘売命を祀り、これを出雲原神社といい、また美伊神社という。(*15)

今木連正良は大野を開き、その祖、天西乎乃命アメノセオノを大野の丘に祀り、西乎乃神社と申しまつる。(村社三柱神社:美方郡香美町香住区大野322)

久斗首義氏は、久斗山を開き、大山祇神およびその祖、雷大臣命を久斗山に祀り、これを大杉神社と申しまつる。(村社大杉神社:美方郡新温泉町久斗山1279-2)

第46代孝謙コウケン天皇の天平宝宇2年(758年)春3月 大領矢田部連守柄が亡くなる。

矢田部連は大山に祀り、矢田部神社と申しまつる。(村社大山神社:美方郡香美町香住区矢田869-1)

崇神スジン天皇の皇子大入杵命オオイリキの末裔、多遅麻国造・能登臣の7世孫・正八位下、能登臣道麿を美含大領に任じ、郡家を竹野郷に置く。

夏5月 安来吾彦を主政に任じ、凡海連国依を主帳に任ずる。

秋8月 美含大領、能登臣道麿は大入杵命を土師の丘に祀る。大入杵命はまたの名を大色来命オオイロキといい、色来神社がこれである。能登臣の子孫は代々土師村にあり。(式内色来神社:豊岡市竹野町林字宮ノ谷1236-1、林は土師の転訛)

第50代柏原天皇の延暦10年(791年)夏6月 小山連義川を主政に任じ、道守臣国雄を主帳に任ずる。

小山連義川はその祖、櫛玉命を蕩森ヒクノモリの上に祀り、小山神社と申しまつる。(村社小山神社:豊岡市竹野町下塚493-1)

道守臣国雄はその祖、豊葉頬別命トヨハノツラワケを小森の丘に祀り、道守神社と申しまつる。(村社小守神社:豊岡市竹野町松本443-1)

第51代平城天皇の大同元年(806年)春3月 佐自努公を美含大領とし、郡家を佐須郷に置く。(佐須は今の美方郡香美町香住区佐津)

佐自努公は、2年(807年)春正月18日 氏子を率い、佐受神社に詣で、初めて高蔭祭を行う。これ以降、歳時を制して毎年となる。

第53代西院天皇の天長7年(830年)秋7月 大庭造仲雄を主政に任じ、新家首磯主を主帳に任ずる。(大庭は新温泉町浜坂の郷名、新家は香美町香住区上計)

大庭造仲雄はその祖、素盞嗚尊・櫛稲田姫命を釼山に祀り、大庭神社と申しまつる。(村社戸田神社:美方郡新温泉町戸田ヘダ571-1)

新家首磯主はその祖、宇摩志麻遅命を御影の丘に祀り、森本神社と申しまつる。(村社森本神社:美方郡香美町香住区上計175-2。上計を「アゲ」と訓むことから、新家はアラガ・アラゲといいアゲに転訛したとも考えられる)

第55代文徳天皇の仁寿2年(852年)秋7月 外従八位上・日下部良氏を美含権大領(*17)とする。日下部良氏は彦湯支命の末裔である。

3年(853年)秋9月 日下部良氏はその祖、彦湯支命を阿故谷に祀り、阿故谷神社と称えまつる。(村社石原神社(阿故谷神社):豊岡市竹野町阿金谷588-3)

良氏が亡くなる。年35。その妻、日置部小手子は、日下部良氏を影見の丘に斎きまつる。(日下部鏡宮。草飼は日下部の転訛)(村社鏡宮神社:豊岡市竹野町草飼無番地)

第56代水尾天皇の貞観10年(868年)夏6月 道守臣義雄を主政に任じ、小山連百川を主帳に任ずる。

貞観17年(875年)冬10月8日 但馬国の節婦、美含郡の日置部小手子(*18)を位二階に叙する。小手子は年16、美含権大領・従八位上、日下部良に従い、29歳にして夫が亡くなっても節を守り、再婚せず、晩年に至るまでその意志はますます固く、地元の民は褒め称えた。

第57代陽成天皇の元慶2年(878年)9月22日 但馬国美含郡の従七位上・若倭部氏世・貞氏・貞通ら三人に楓朝臣の姓を賜い、氏世を大領に任ずる。

3年4月3日 楓朝臣氏世はその祖、武額明命・吉備津彦命・高野姫命を舟生山に祀り、[舟丹]生神社(*19)と称えまつる。神浦川はその傍らを流れる。(式内丹生神社:美方郡香美町香住区浦上1185-2)

神戸五烟(*20)はその東にあり、神田はその南に並び、神浦山は東にそびえ、舟生港は北西にある。

第60代小野天皇の延喜22年(922年)春3月 佐自努公美主を主政に任じ、坂合部義直を主帳に任ずる。

佐自努公美主はその祖、佐自努公香住彦を香住の丘に祀り、坂合部義直はその祖、山迹子命を坂合の丘に祀る。香住神社・米子神社はこれである。

村社香住神社:美方郡香美町香住区香住241 米子神社(村社米粉神社):美方郡香美町香住区境368-1)

佐自努公美主は大領の命に依り、美含郡神社神名帳を作り、郷社に納める。

(神社記載一覧は割愛する)

第61代朱雀天皇の承平2年(932年)春3月 佐自努公近麿を美含大領に任ずる。近麿は佐自努公の末裔である。

第62代村上天皇の康保3年(966年)夏6月 佐自努公近道を美含大領に任じ、正八位下を授く。

右 国司の解状により、これを注進する。
美含大領 正八位下 佐自努公近道
安和2年(969年)3月24日


[註]

*1 射狭那子嶽( いさなごだけ) 京丹後市峰山町の比治山。麓に比沼麻奈為神社がある。
*2 黄沼前(きのさき) 黄沼前県で、のちの城崎郡 現在の豊岡市の大部分
*3 河内師木県(しきあがた) のちの河内国志紀郡。今の大阪府藤井寺市の大部分、八尾市・柏原市の一部
*4 三嶋水門 津居山港だが、西刀(瀬戸)水門とは書かず三嶋としているので、当時はそれより上流の楽々浦であったかもしれない。
*5 兵庫 櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。 木材などを高く積み上げた仮設や常設の建築物や構造物。
*6 典鑰(てんやく)とは、律令制において中務省に属した品官(ほんかん)である。和訓は「かぎのつかさ」。
*7 大領・少領・主政・主帳 大宝令により、評が廃止されて郡が置かれ、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備される。郡司は、旧国造などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官。郡司として記す場合は大領または少領のことである。
*8 大初位(だいしょい、だいそい) 律令制の官職の位階における位の一つ。正一位から少初位下までの従八位(または従九位)の下、少初位の上の位階である。
*9 伴造 伴造は中央の豪族で、伴造とされた豪族はそれぞれの職掌を持ち、傘下の部民を率いてヤマト王権の中枢に人的あるいは物的に奉仕した。
*10 国造 国造は古代日本の行政機構において地方を治める最高位の官職で、のちの国司にあたる。大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。
*11 余戸 古代日本の律令制の行政組織として国・郡・里(郷)があったことが知られている。里(郷)は50戸ごとに編成されており、これを満たさない集落を余戸と呼んで保長などに監督させたと言われている。余部は戸数に関わらずそのまま村名として残った例。漢字表記が異なるJR餘部駅は、「余」の旧字体で、同じJR姫新線の余部駅(よべえき)との重複を避けたため。
*12 鏇工 旋は「まわす」で、清器・土器を作る台のロクロを作る部民ではないか。
*13 伊多首辰巳 首(おびと)はその土地の頭またはその一族。伊多は気多郡伊多(井田)で、今の豊岡市日高町鶴岡
*14 陶谷スエダニヒク小埦オマリ埴生ハニュウ 陶谷は今の鬼神谷おじんだに・須谷、蕩はとどろき、小埦は小丸、埴生は羽入
*15 郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ) 郡司の役所。郡内の政務を行う所
*16 「同記」に記載する美含郡神社神名帳の社名に、美伊神社とは別に出雲原神社が記されているので別の社と思われる。
*17 権大領 職制にはないが、文徳期の頃には権大領の職階も置かれたものであろう。
*18 節婦、美含郡の日置部小手子 節婦とは節操をかたく守る女性。つまり貞節な女性。操の固い女性のこと。叙勲を受けるということは、当時としてもまだ29歳という若さで再婚もせず亡き夫を慕うような人は大変珍しかったのだろう。
*19 [舟丹]生神社 延喜式神名帳には式内丹生神社で「丹」の文字であるが、『国司文書 但馬故事記』では舟生フナフ神社・[舟丹]生神社。但馬故事記の方が古いし、柴山港はもとは舟生港であるので、現在の丹生神社という社号は、延喜式神名帳に舟を丹と書き間違えたか。のちに延喜式神名帳に丹生神社とあるものを間違いだと訴える間もなく約千年、いまさら式内丹生神社とあるものを舟生神社が正しいとして、社号標の式内丹生神社は、延喜式神名帳には式内丹生神社ですよと解釈すべきであろう。
*20 神戸五烟 神戸(かんべ)とは租庸調を納める神社領の民。神殿を耕し神社の雑事に仕える部落を指す。五烟とは戸数が五戸のこと。


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5 第五巻・出石郡故事記 現代語

オオナムチ(国作大巳貴命)は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県(二方)国を開き、多遅麻(但馬)に入り、伊曾布(のちの七美郡)・黄沼前(のちの城崎郡)・気多(気多郡、いまの豊岡市日高町)・津(のちの美含郡)・藪(養父)・水石(ミズシ、御出石とも記す。のちの出石郡)の県を開く。

オオナムチは、この郡(出石郡)にいた時に、地上に毎夜光るものがあり、オオナムチはその光をさがして、地面をしばらく掘ると、白石を得た。その白石は突然女神と化す。

オオナムチ「汝は誰なのだ」
女神「わたしは稲葉の八上姫と申します。
わたしの夫神は本妻を愛しています。それで御子を木の俣に置いて去ってしまいました。
とはいっても慕っております。ここにいて夫神の帰りを待っております。
一人の御子は大屋の御井のもとにおります。」
といいました。

オオナムチは、これを聞いて答えた。
「愛しい少女だ。わたしは深く愛し慕う。」

オオナムチと八上姫の間に、ミヅシクシカメタマ(御出石櫛甕玉命)を生まれる。
御出石櫛甕玉命は、アメノホアカリ(天火明命)の娘、アメノカグヤマトメ(天香山刀売命)を妻にし、アメノクニトモヒコ(天国知彦命)を生む。

第1代神武天皇は、御出石櫛甕玉命の子、天国知彦命を御出石県主とする。

6年(前655年)春3月、天国知彦命は、国作大巳貴命・御出石櫛甕玉命を水石丘に斎き祀り、御出石神社と称しまつる。(式内御出石神社(名神大):豊岡市出石町桐野986、水石神社:豊岡市但東町水石 447)
天国知彦命は、小田井県主・イキシニギホ(生石饒穂命)(または稲年饒穂命、城崎郡故事記には瞻杵磯丹穂命、美含郡〃には胆杵磯丹杵穂命と記す)の娘、ニギシミミ(饒石耳命)を妻にし、アメノタダチ(天多他知命)を生む。

第2代綏靖スイゼイ天皇6年(前32-15年)夏4月、天国知彦命の子、天多他知命を御出石県主とする。
天多他知命は、美伊県主の武饒穂命の娘、福井毘売命を妻にし、アメノハガマ(天波賀麻命)を生む。

第4代懿徳イトク天皇7年(実年西暦1-17)3月春2月 天多他知命の子、天波賀麻命を御出石県主とする。
天波賀麻命は、丹波国造の祖、真太玉命の娘、ユキヨヒメ(幸世毘売命、あるいはサチヨヒメ)を妻にし、アメノフトミミ(天太耳命)を生む。

第5代孝昭天皇40年(18-59年)秋7月 天波賀麻命の子、天太耳命を御出石県主とする。
天太耳命は、小田井県主の佐努命の娘、サイビメ(佐依毘売命)を妻にし、マタオ(麻多烏命)を生む。

第6代孝安天皇53年(実年西暦60-110年) 新羅の王子、天日槍命が帰化する。
天日槍命はウガヤフクアエズ(鵜草葺不合命)の御子、イナイ(稲飯命)の5世孫である。
ウガヤフクアエズは、海神、トヨタマ(豊玉命)の娘・タマヨリヒメ(玉依姫命)を妻にし、イツセ(五瀬命)・イナイ(稲飯命)・トヨミケ(豊御食沼命)・サノ(狭野命)を生む。

父君が崩御された後、世嗣よつぎのサノ(狭野命)は、兄たちとともに話し合い、皇都を中州なかつくに*1)に遷したいと願い、船師(*2)を率いて、浪速津なにはつ(大阪湾)に至り、山跡川(大和川)をさかのぼり、河内の国・草香津くさかづ(東大阪市日下)に泊まる。

まさに山跡(大和)に入ろうとした時、山跡国登見ヤマトノクニノトミ(今の奈良市登美ヶ丘)の酋長、ナガスネヒコ(長髄彦)は、天津神の子、ニギハヤヒ(饒速日命)を奉じて、兵を起こし、皇軍を穴舎衛坂クサカエザカ(今の東大阪市日下)にて迎え討つ。

しかし、皇軍に利はなかった。サノ(狭野命)の兄、イツセ(五瀬命)に流れ矢があたり亡くなられてしまう。世嗣の狭野命は、兄たちとともに退いて、海路で紀の国(和歌山県)に出ようとしたとき、暴風に逢われる。イナイ、トヨミケは、小船に乗り漂流され、イナイは、シラギ(新羅)(*3)に上り、国王となり、その国に留まられる。
トヨミケは、海に身を投げて亡くなられる。

世嗣狭野命は、ついに熊野に上陸し、イツセを熊野碕に葬り、進んで他の諸賊を討伐し、ついでナガスネヒコを征伐された。

ニギハヤヒ(饒速日命)の子、ウマシマジ(宇摩志麻遅命)は、父に勧めてナガスネヒコを斬り、出(い)でて地上に降りられると、国はことごとく平和になる。
世嗣狭野命は、辛酉(かのととり)の年(*4)、春正月元日、大和橿原宮で即位し、天下を治められる。これを神武天皇と称する。

天皇は、オオナムチの子、コトシロヌシ(事代主命)の娘、ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)を立てて皇后とし、
オオナムチの子、アメノヒカタクシヒカタ(天日方櫛日方命)を、申食国政大夫オスクニノマツリゴトモウスマエツキミと(*5)し、政事を補佐させ、
道臣命・大久米命は大伴部・大久米部を率い、宮門を護衛し、
ウマシマジは内物部を率い。矛楯を備え、殿内を宿衛し、
天冨命は斉部を率い、天璽・鏡・剣を神殿に奉安し、
天種子命は天ツ神の寿詞を奏し、
また国造・県主を置き、地方の政事を行わせる。

アメノヒボコ(『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」)は、八種ヤクサ神宝カンダカラを携え、御船に乗り、秋津州アキツシマ(本州の古名)に来る。筑紫ツクシ(九州北部)より穴門アナト(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間ハリマ国(播磨)に至り、宍粟シソウ邑(今の宍粟市一宮町)に泊まる。人々は、この事を孝安天皇にお知らせする。

天皇は、すぐに三輪君の祖・オオトモヌシ(大友主命)と、倭直やまとのあたえの祖・ナガオチ(長尾市命)を針間国に遣わし、来日した理由を問うようにいわれた。

ヒボコは、謹んで二人に向かって話した。

「わたしは、新羅王の子で、我が祖は、秋津州の王子・イナイ(稲飯命)。そしてわたしに至り、五世におよぶ。
ただいま、秋津州に帰りたくなり、わが国(新羅)を弟の知古に譲り、この国に来ました。願わくば、一ウネの田を賜り、御国の民となりたい」と。

二人は帰り、この事を天皇に奉じる。
天皇はミコトノリ(天皇のおおせ、命令)して、針間国宍粟しさわ・しそう邑と淡路国出浅いでさ邑とをヒボコに与える。

しかし天日槍は、再び奏してう。
「もし、天皇の恩をいただけるのであれば、自ら諸国を視察し、意にかなうところを選ばせてください」と。
天皇はそれを許された。

ヒボコは、菟道川(宇治川)をさかのぼり、北に入り、しばらく近江国の吾名あな邑に留まる。さらに道を変えて、若狭を経て、西の多遅摩国(但馬)に入り、出島いずしま(*6)に止まり、住処スミカを定める。
ところで、近江国の鏡谷陶人かがみだにのすえとは、天日槍の従者で、よく新羅風の陶器を作る。

さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜る。(但馬を与える)
61年(前332年)春2月、ヒボコを多遅摩国造とする。
ヒボコは、御出石県主ミズシアガタヌシ・アメノフトミミ(天太耳命)の娘・マタオ(麻多鳥命)を妻にし、アメノモロスク(天諸杉命)を生む。(『古事記』では但馬諸助(多遅摩母呂須玖)とあるので、ここでは諸杉をモロスクとする)

第7代孝霊コウレイ天皇38年(前253年)夏6月 天日槍命の子・天諸杉命を多遅麻国造タヂマクニノミヤツコとする。
天諸杉命は、丹波国造、真太味間ウマシマ命の娘、マエツミ(前津見命)を妻にし、アメノヒネ(天日根)命を生む。

40年(前251年)秋9月 天諸杉命は天日槍命を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝ヤクサノカンダカラを納む。(但馬国一宮 出石神社:兵庫県豊岡市出石町宮内99)

第8代孝元天皇32年(149-177年)冬10月 天諸杉命の子・アメノヒネ(天日根命)を多遅麻国造とする。
天日根命は、二県国造の布伎穂田中フキホタナカ命の娘、オオトミビメ(大富毘売命)を妻にし、ヒナラキ(天日楢杵命)を生む。
天日根命は天諸杉命を出石丘(*7)に斎き祀る。(式内諸杉神社:豊岡市出石町内町28)

第9代開化天皇59年(178-207年)秋7月 天日根命の子、天日楢杵命を多遅麻国造とする。
天日楢杵命は、伊曾布県主の弖良賀和比遅テラガノワヒヂ命(弖良賀は今の新温泉町照来)の娘、大比遅比売オオヒジヒメ命を妻にし、スガヒコ(天清彦命)を生む。

第10代崇神スジン天皇10年(208-241年)秋9月 丹波国青葉山の賊、陸耳クガミミ御笠ミカサは、群盗を集め、良民を害する。その党の狂の土蜘蛛は多遅麻に入り、略奪を行う。
黄沼前県主のアナメキ(穴目杵命)は使いを馳せてこのことを天皇にお知らせする。

天皇は開化天皇の皇子、ヒコイマス(彦坐命)にこれを討つように命じる。
彦坐命は丹波に下り、これらの賊徒を多遅麻伊技佐イギサ御碕の海上にて討ち、これを誅殺する。狂の土蜘蛛は従って平らぐ。

67年(前31年)夏5月 天日楢杵命の子、スガヒコ(天清彦命)を多遅麻国造とする。

第11代垂仁天皇88年(西暦59年)秋7月初め (天皇は)群臣に勅して、
「むかし新羅王・天日槍命が初めて帰来した時に携えてきた宝物が、いま多遅麻国の出石社(出石神社)にあると聞く。我はこれをぜひ見てみたい。よろしく持って参れ。」と。

群臣はこの勅を受けて、使いを多遅麻に遣わし、清彦(多遅麻国造)にこれを奉った。
清彦はそれに応じ、
羽太玉ハフトノタマ一個・足高玉アシタカノタマ一個・鵜鹿々赤石玉ウカカノアカシノタマ一個・出石刀子イヅシノコカタナ*8)一口・出石杵イヅシノホコ(桙ほこの誤記ではないか?)一枝・日鏡ヒカガミ一面・熊神籬クマノヒモロギ一具・射狭浅太刀イササノタチ一口
を携え、皇都に上る。

清彦は、しばらくして神宝を奉ったが、考えて、ひとつの神宝は祖先に対して申し訳がないと、すぐに出石刀子を袍中ホウチュウ*9)に隠し、残りを献上した。
天皇は大いに歓喜し、酒饌シュセン(酒と肴)を清彦に振る舞った。たまたまその出石刀子が袍中からこぼれ、帝の御前にあらわれた。

天皇はこれを見て清彦に申された。
「その刀子は、何の刀子であるか?」
清彦は、お言葉に対して隠すことができず、

「これもまた神宝の一つでございます」と申し上げた。
天皇は「神宝がその中より離れたか」と云われた。
これもまた他の神宝と共に宝庫に納めた。

それから後、天皇が宝庫を開かせると、刀子がなくなっている。
使いを多遅麻に遣わして、これを清彦に問うた。
清彦は「ある夜、刀子が私の家に至っておりました。これを神庫に納め、翌朝は改めておりません。」

天皇はこれを聞いて、その霊異をかしこみ、強いてこれを求めることはされなかった。その後、刀子は自ら淡路(島)に至った。

島の人は祠を建ててこれを祀った。これを世に剣ノ神と云う。(*10

天清彦命は、大和・当麻タイマのメイヒメ(当麻咩斐毘売命)を妻にし、
タヂマモリ(『古事記』では多遅麻毛理命・『日本書紀』では田道間守)・タヂマヒダカ(多遅麻日高命)・スガノモロオ(須賀諸男命)・スガノカマドヒメ(須賀竈比咩命)・ユラトメ(由良度売命)は多遅麻毛理命を生む。

タヂマモリは、黄沼前県主、久流比命の娘、アサツビメ(阿佐津毘売命)を妻にし、橘守タチバナモリ命を生む。

90年(西暦61年)春2月 (後漢光武帝の世)タヂマモリを常世国に、非時(ときじく)の香果(『日本書紀』は香菓(かくのみ)・『古事記』は木実(このみ)と記す)を求めに遣わした。タヂマモリは、常世国に至り9年が経った。

第12代景行天皇元年(71年)春3月 タヂマモリは常世国(*11)より帰国する。しかし、垂仁天皇はすでに崩御された後であった。タヂマモリは嘆き悲しんで天皇の陵で自殺した。

夏4月 タヂマモリの弟、タヂマヒダカを多遅麻国造とする。タヂマヒダカはユラトメ(由良度売命)を妻にし、カツラギノタカヌキヒメ(葛城高額姫命)を生む。

葛城高額姫命は、息長宿祢オキナガノスクネ命に嫁ぎ、息長帯姫オキナガタラシヒメ命・虚空津姫ソラツヒメ命・息長彦オキナガヒコ命を生む。葛城高額姫命は、いわゆる神功皇后である。

第13代成務天皇5年(135年)秋8月 須賀諸男命を出石県主とする。須賀諸男命は、美伊県主、竹野別命の妹、多津賀姫命を妻にし、須義芳男命を生む。

第14代仲哀チュウアイ天皇2年(193年) 天皇は皇后の息長帯姫オキナガタラシヒメ命(神功皇后)と百人の群臣とともに越前笥飯ケイ宮(気比神宮)に行幸される。そして、皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡行し紀伊に至られる。この時、たまたま熊襲クマソがそむいた。(九州南部)

天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后と穴門で会うことを教え、自らは海から穴門に至られる。

皇后は越前角鹿(今の敦賀)より御船で北海キタノウミ(日本海の当時の名)に取り、若狭(丹波の誤り)の加佐・与佐・竹野タカノ海(今の京丹後市丹後町竹野)を経て、多遅麻タヂマ国の三嶋水門ミシマミナト*12)に入り、内川(今の円山川)を遡り、粟鹿大神・養父大神に詣でられる。ついで出石川を遡り、伊豆志大神(出石神社)に詣でられる。

伊豆志県主の須賀諸男命は、子の須義芳男命を皇后に従わせる。
須義芳男命は、豪勇にして力があり、射狭浅太刀を脇に差し随身する。これを荒木帯刀部命という。

皇后は下って、小田井県大神(神社)に詣で、水門ミナトに帰り泊まられる。
ある夜、越前笥飯宮の五十狭沙別大神が夢に現れ、皇后に教えて曰く、
「船で海を渡るには、当然住吉大神を御船に奉れ」と。

皇后は謹んで教えにしたがい、
底筒男神ソコツウオノカミ中筒男神ナカツツオノカミ表筒男神ウワツツオノカミを御船に祀られた。船魂大神フナタマノオオカミである。
いま住吉大神を神倉カグラ山に祀るのは、これがもとである。
また御食ミケ五十狭沙別イササワケ大神に奉る。それでこの地を気比浦ケヒノウラという。のちに香飯ケイ大前神13世の孫、香飯毘古命は五十狭沙別大神・仲哀天皇・神功皇后をこの地に斎きまつるという。(式内気比神社:豊岡市気比字宮代286)

皇后の御船がまさに水門ミナトを出ようとする時、黄沼前県主の賀都日方武田背命カツヒカタタケダセは、子の武身主命を皇后に従い、嚮導キョウドウ*13)をする。それで武身主命のまたの名を水先主命という。

御船が美伊(のちの美含郡)の伊佐々の御碕に至り日が暮れる。五十狭沙別大神は御火を御碕に現し、これによって海面が明るくなる。それで伊佐々の御碕という。
御火は御船を導き、二方の浦曲に至り留まる。それでその地を御火浦という。
五十狭沙別大神を御碕に祀るのはこれに依る。(式内伊伎佐神社:兵庫県美方郡香美町香住区余部字宮内2746-2)

皇后はついに穴門国に達しられる。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、海上鎮護の神とする。水先主命は水先宮に坐す。水先主命の子を海部直とするのはこれに依る。

神功皇后6年(206年)秋9月 須賀諸男命の子、須義芳男命を出石県主とする。須義芳男命は皇后に従い、新羅征伐の功あり。皇后は特に厚遇を加えた。

第15代応神天皇40年(309年)春正月 須義芳男命の子・日足命を出石県主とする。日足命は須義芳男命を荒木山に祀る。須義神社である。(式内須義神社:豊岡市出石町荒木273)

第16代仁徳天皇40年(352年)夏4月 出石県を郡とする。
67年春3月 日足命の子・磯部臣命を出石郡司とする。

(同記されていないが、同じ国司文書 但馬神社系譜伝に、式内日出神社 祭神:日足命 豊岡市但東町畑山329)

第21代雄略天皇2年(458年)秋8月 磯部臣命の子、埴野命を出石郡司とする。
埴野命は磯部臣命を出石丘に祀る。(式内石部神社:豊岡市出石町下谷62)

17年(473年)春3月初め 天皇は土師連らに勅して、青器を朝夕の御膳ミケを盛る清器スエキ(須恵器)を献上させる。
これにおいて、土師連の祖・吾笥アケは、ただちに、摂津国来佐々キササ村(大阪府豊能郡能勢町宿野)、山背ヤマシロ国内村(京都府宇治市)、俯見フシミ村(京都市伏見)、伊勢国藤形村(三重県津市)および丹波・但馬・因幡の私民部シミンベを献上し、贄土師部ニエハジベという。

丹波国天田郡土師ハジ村(京都府福知山市土師)・因幡国智頭郡土師村(鳥取県八頭郡智頭町埴師)、
但馬国出石郡埴野ハニノ村・養父郡土田ハンダ村・気多郡陶谷スダニ村・美含ミクミ阿故谷アコダニ村(今の豊岡市竹野町阿金谷)である。
美含郡陶居スエイ村は、同郡埴野村埴田の陶人が移住して、陶器・土器を作る所。(*14)その子孫が埴生に移りその業を営む。

この郡の贄埴師が居る所を挻師ヒキシ村という。(のちの豊岡市但東町矢根)
埴田の陶人が居る所を埴田山という。(のちの 〃 畑山)
清器を作る所を御出石村という。(いまの豊岡市但東町水石か?)鋺師マリシ陶人スエヒトは此の所に居る。
贄埴師部は野見宿祢を挺師村に祀り、(今の豊岡市但東町矢根)
埴田陶人は阿笥命を埴田山に祀り、(今の 〃 畑)
鋺師陶人はその祖、高麗国人宝輪王を弖良坂テラサカ山に祀る。
賀茂神社・埴田神社・鋺師神社はこれなり。

賀茂神社:豊岡市但東町矢根943
埴田神社は三柱神社:豊岡市但東町畑594
鋺師神社は天満神社:豊岡市但東町奥矢根1097)

第26代継体天皇13年(519年)春2月 彦坐命の末裔、鴨県主桐野命を出石郡司とする。

11年春3月 桐野命はその祖、鴨県主命を埴野の丘に祀る。鴨県主命は(平安京の)左京の人である。(式内桐野神社:豊岡市出石町桐野614、式内御出石神社:豊岡市出石町桐野986)

第29代欽明天皇30年(568年)冬11月 桐野命の子、日野久世命を出石郡司とする。

第36代推古天皇15年(606年)秋10月 屯倉を出石郡に置き、米・粟を貯え、貧民救済に備える。タヂマモリの7世孫、中島公はその屯倉を司る。それで三宅といい、氏とする。

34年(626年)秋10月 天下大いに飢餓し、屯倉を開き救済する。
中島に三宅吉士(*15)の姓を賜う。中島公がその祖、タヂマモリを屯倉の丘に祀り、中島神社という。(式内中嶋神社:豊岡市三宅1)

第37代孝徳天皇の大化2年(646年)秋9月 小錦下・三宅吉士入石を出石郡司とする。

第40代天武天皇4年(675年)秋7月初め 小錦上・大伴連国麿を大使とし、小錦下・三宅吉士入石を副使とし、新羅に差遣する。

12年(683年)冬10月 三宅吉士神床は姓の連を賜う。

これより先、夏閏4月、三宅吉士神床は勅を受け、子弟豪族を集め、兵馬器械を備え、陣法博士大生部了オホフベノサトルを招き、武事を講習す。かつ兵庫(*16)を高橋村に設け、兵器を収める。
大生部了は大兵主神を兵庫の側に祀る。(式内大生部兵主神社:豊岡市但東町薬王寺848)
大兵主神は素戔嗚命・甕鎚命・経津主命・宇麻志摩(遅)地命・天忍日命なり。

13年(684年)冬12月 三宅吉士神床に姓の宿祢を賜る。

第41代持統天皇3年(巳丑)(689年)秋7月 三宅吉士神床は、陣法博士大生部了オホフベノサトルを率い、養父郡更杵村に至り、一国の壮丁(*17)の四分の一を招集し、武事を講習し、その地に兵庫を設ける。また大兵主神を祀る。これを更杵村大兵主神社という。
三宅吉士神床の子、博床を更杵村に留め、大生部了の子、広とともに軍事を司らせる。
また、兵器を作るために、楯縫吉彦を召し、楯を作らせる。楯縫吉彦はその祖、彦狭知命を兵庫の側に祀り、楯縫神社という。
博床の子孫を糸井連という。

第42代文武天皇庚子4年(701年)秋10月 孝元天皇の皇子・大彦命の末裔、高橋臣義成を出石郡司とする。高橋臣義成は、大彦命を手谷の丘に祀り、手谷神社と称す。(式内手谷神社:豊岡市但東町河本885)

第45代聖武天皇の天平19年(747年)春3月 佐々貴山君大佐岐を出石郡司とする。高橋臣の一族である。
夏4月 忍阪連貢を出石主政とする。忍阪連貢はその祖、天火明命を赤樫の丘に祀る。小坂郷はその所領である。(式内小坂神社:豊岡市出石町三木ミツキ字宮脇1、式内小坂神社:豊岡市出石町森井59)
下村主東里を出石主帳とする。東里はその祖、(後漢光武帝の七世孫)慎近王を赤端の丘に祀る。資母郷はその所領である。(式内須流神社:豊岡市但東町赤花632)

第48代孝謙天皇の神護景雲2年(768年)春3月9日 久畑山が一夜にして生ずる。(*18

第50代柏原天皇の延暦3年(784年)夏6月 佐々貴山君波佐麻を出石郡司とし、
伊福部宿祢弘を出石主政とし、
葛井宿祢比遅を出石主帳とし、
佐々貴山君波佐麻はその祖、佐々貴山君を射阪の丘に祀り、(式内佐々伎神社:豊岡市但東町佐々木48)
伊福部宿祢弘はその祖、天香久山命を出石の丘に祀り、(伊福部神社:豊岡市出石町中村809)
葛井宿祢比遅はその祖、味散君(*19)を藤ヶ森に祀る。(式内比遅神社:豊岡市但東町口藤字山姥547)

第54代深草天皇の承和12年(845年)秋7月 但馬国出石郡無位出石神に従五位下を授く。
また但馬国出石郡無位菅神に正六位上を授く。国司らの解状による。

16年(849年)秋8月 小野朝臣吉人を出石郡司とし、
安牟加首虫生を出石主政とする。
小野朝臣吉人はその祖、天帯彦国押人命を嘉麻土の丘に祀り、(式内小野神社:豊岡市出石町口小野210-2)
安牟加首虫生はその祖、物部十千根命を資母郷に祀る。(式内安牟加神社:豊岡市但東町虫生)

第56代水尾天皇の貞観10年(868年)冬12月27日 但馬国従五位上出石神に正五位下を授く。

閏12月21日 但馬国正六位上菅神に従五位下を授く。新羅征伐の功による。

16年(874年)春3月14日 但馬国正五位下出石神に五位上を授く。

第59代宇多天皇の寛平5年(893年)冬12月 小野朝臣吉麿を出石郡司とし、正八位下を授く。

第60代小野天皇の延喜3年(903年)春正月 安牟加首玉生を主政に任じ、従八位下を授け、
葛井宿祢比遅城を主帳に任じ、大初位下を授く。

右 国司の解状により、これを注進する。
出石(郡司)大領 正八位上 小野朝臣吉麿


[註]

天皇在位年は、長浜浩明氏の実年換算を参考にしている
*1 中洲・葦原中国(あしはらのなかつくに)
日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土のことである。
*2 船師 江戸時代から明治初期にかけて、廻船を所有して海運活動を行った商人。船の運行に長けた人々のことだろう。
*3 新羅 稲飯命の頃に、半島南部は韓といって、空白地帯に縄文人や弥生人の倭人が住んでいた。三韓(馬韓・弁韓・辰韓)以前で当然国として弁韓に伽倻・任那など12のクニがあった。新羅国も12のクニがあったとされており、弁韓と辰韓は入り乱れており、伽倻に近いところに新羅というまだ小さなクニがあったかも知れない。やがて北部の中国の朝貢国高句麗がその後押しで南下し。漢族・ワイ族など朝鮮系の入植が進み、倭人の子孫との間に婚姻も進む。日本列島は朝鮮渡来人から発展したのではなく、まったく逆であり、半島が倭人が王となってから発展したので、倭に朝貢していた。その半島に渡った子孫の中に帰国して人もいただろう。)
*4  辛酉(かのととり)の日 西暦年を60で割って干支の組み合わせの58番目
*5 申食国政大夫 後の大連(土師氏、弓削氏など職能をもって天皇家に使える氏族)と大臣(多くは、蘇我氏、平群氏、巨勢氏など、地名を氏族名とし、大和朝廷の勢力圏に入る前は、それぞれの地域の支配者だったと考えられる氏族)の前身。
*6 出島 今の出石町伊豆・嶋のことではないかと思っている。
*7 出石丘 諸杉神社は今は出石町内町だが、当初は小坂村水上の丘に祀られて、古くは諸枌(もろすき)神社と書かれていた。それを天正2年(1574年)に但馬国守護山名氏が居城を此隅山(小盗山)から出石有子山に移すにあたり、城の守護神として遷座したとされる。
*8 刀子(とうす) 削るなど加工の用途に用いられる万能工具
*9 袍(ほう) 訓:わたいれ・ぬのこ・うわぎ。昔の束帯の上着。
*10 出石神社(生石オイシ神社とも言う。良湊神社が管理) 兵庫県洲本市由良生石崎
*11 常世国 海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷
*12 三嶋水門ミシマミナト
*13 嚮導キョウドウ 先立ちをして案内すること
*14  第一巻・気多郡では、「18年(474)春4月 気多郡陶谷村(今の豊岡市日高町奈佐路)の人、陶谷甕主スダニノカメヌシと出雲国阿故谷の人、阿故氏人、小碗氏人らは、美含郡に入り、阿故谷・陶谷(今の〃須谷)・埴生(今の〃羽入)・小碗(今の〃小丸)にて、陶器・清(須恵)器の類を作り、部落をなす。」
*15 吉士(きし) 姓の一種で、帰化人に賜った姓。新羅の巻十七等の第14を吉士といったことから、これをとって蕃人の姓としたものと思われる。
*16 兵庫
*17 壮丁 成年に達した男。一人前の働き盛りの男子。労役や軍役に服せられる者。
*18 久畑山が一夜にして生ずる。 不明だが天変地異が起きたということか。
*19 味散君(みさ) 百済国都慕王十四世の孫、塩君の子