楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城
天正八年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に際して、ときの城主垣屋峰信は織田勢に抗戦、敗れて討死したという。その後、秀吉政権下の有子山城主の支配化におかれ、 現在みられる縄張りはそのおりに改修されたものと考えられている。
宵田村には市が開かれ、気多郡の集積地として栄えました。「宵田表の戦い」で羽柴軍により降参し、豊臣方へつきます。
「郷土の城ものがたり-但馬編」では、このような話が書かれてあります。
宵田城主垣屋隠岐守峯信は、天正八年(1580)、羽柴秀吉が但馬征伐に向かってきてからは恐れおののき、心安らぐ日はありませんでした。
ある日、魚売りが江原村を行商していました。そのころは商人が津居山港から歩いたのではなく、円山川を上下して船で行き来しました。商人は売り声を張り上げて歩いていました。その日は、カキ・どこう・このしろの三種類であったので「かきや・このしろ・どこう」とふれました。
秀吉が今日攻めてくるか、明日攻めてくるかと、びくびくしている時ですから、この売り声が「垣屋この城どこう(退陣せい)」と聞こえてしまいました。そこで、これは秀吉の征伐の前触れと、てっきり思いこんでしまい、一族を引き連れて楽々前城へ逃げました。
佐田から宵田までに道場の風穴といわれるところがあり、道場の人々は、夏ここを冷蔵庫の代用に使ったといわれています。ところが、昭和30年12月、宵田城近くに岩中発電所工事が進められ、昭和31年12月に完成、道場から水を取り、山の中を水道トンネルにしました。この工事中、城の抜け穴と思われる穴を埋めたところ、この風穴は冷たい風がぴたりと止まったそうです。城の抜け穴を通ってきた冷風だったのではないでしょうか。考古的な価値がさけばれなかった頃ですので、今となっては悔やまれます。
宵田城 南方向から 下は国道312号城山トンネル
その年の五月、征伐に来た秀吉軍のうち、斉藤石見守近幸、小田垣土佐守らが大軍を率いて宵田城を攻めた時には、城中は音なしの構えどころか、一人残らず楽々前城へ退き、もぬけの殻であったといわれています。そこで秀吉の命により、宮部善祥房の家来の伊藤与左右衛門父子を城代として守らせました。
楽々前城では、父子家臣ともども籠城しましたが、ついに二百二十年続いた垣屋氏は城とともに滅んでしまいました。
しかし、天正八年(1580)、第二次但馬征伐で秀吉の弟秀長と宮部善祥房が但馬に軍を進めたとき、はじめて秀吉軍と敵対しましたが、宵田表の戦いなどのあと秀吉軍に従いました。そして、「但州・因州境目」の重要拠点岩経城主に起用され、因幡鳥取城攻撃には主力部隊として活躍しています。
垣屋氏と関ヶ原の戦い
垣屋光成の子が恒総で、父と同じく秀吉に仕えました。恒総は天正十五年(1587)の九州征伐、同十八年の小田原征伐、さらに文禄の役(朝鮮出兵)にも出陣し、一万石を与えられ、因幡桐山城の城主となりました。関ヶ原の合戦で垣屋隠岐守恒総は、因幡国若桜の木下備中守と一緒に大阪に着陣し、西軍に属します。諸将と共に伏見城、大津城を攻め、やがて関ヶ原へ向かわんとしていましたが、既に戦が始まり、どうやら西軍の旗色が好くないとの情報が伝わります。垣屋としては為すすべもなく、高野山に逃れて日頃師檀の関係を結んでいた僧侶の許に身を寄せました。
やがて天下の赦免があろうかと心待ちにしていたのですが、徳川軍の検使が来て自害すべしとの命を伝えたので自刃しました。こうして垣屋は、関東から但馬にやってきて、二百年の年月を積み重ね、但馬を追われて因幡に新住の地を得たものの、それは二十年しか保てませんでした。留守の桐山城では城主を失い、鳥取城同様にこの城も攻められるのかと勘違いして、家中の者が隠岐守恒総の内室や子供を引き連れて、但馬の故地気多郡西気谷を目指したといいます。
また幸いにも垣屋駿河守家系統である垣屋豊実が東軍についていたため、江戸時代に至って竹野轟(とどろき)城主垣屋家(駿河守)の家系は、徳川重臣 脇坂氏の家老になります。駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としています。このように垣屋は生き残っているのであり、滅亡したと記述している諸所の文献は間違いであるといわざるを得ないのです。現実に子孫の方は多く但馬におられます。
関ヶ原の戦いの頃、日本の人口は、500万人の状態が続いていました。農耕の開始に次ぐ人口革命の時期であり、戦国大名の規模の大きな領内開発、小農民の自立に伴う「皆婚社会」化による出生率の上昇などが主たる要因と考えられ、約3倍に膨れあがり1200万人を超えます。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会