第2章 1.記録に残された天日槍の足取り

この章では、ヒボコが辿った足取りを、

(史書の)アメノヒボコに関連する記事は、八世紀の初めに編纂された『古事記』および『日本書紀』(以下『記』『紀』、合わせて『記紀』)に記録されたものが、現在伝えられる最古のものである。

『記』が少し早くて和銅五年(712)、『紀』がその八年後の養老四年(720)、ほとんど同じ頃の成立だ。じつは『記紀』は共にそれまで各氏族に伝わっていた「帝紀」(天皇や皇后、皇子女の系譜)・「旧辞」(昔物語)を元にして、それを天皇家および国の歴史にふさわしく編集し直したものだったから、最古といわれるけれど厳密には誤りである。原典は、六世紀の前半、継体・欽明天皇の頃には最初に文章化されていたと推定されている。(中略)

それにヒボコの渡来伝承は、さらにいくつかの神話をベースにして成立したものであり、その起源をたどっていくと海を渡り、朝鮮半島を北上し、やがて大陸へとつながっていく。

(中略)

日本史は朝鮮半島や中国に起源があるものだという歴史学者の思い込みがあるが、この書が発売された平成9年(1997)、まだ20年前でさえ、そういう固定概念が大勢を占めていたのだから、仕方がない。

以降の解釈は、編者の想像を含んでおり、またこの他にヒボコについて記録された『播磨国風土記』にあるヒボコと伊和大神の土地争いについては第3章にゆずる。

 

1.記紀に記された天日槍の足取り

『古事記』

応神天皇記 [現代語訳]

今よりもっともっと昔、新羅の国王の子の天之日矛が渡来した。

新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女がひとり昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事をうかがっていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかととがめられたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。

天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛がおごって女をののいると、とうとうたまりかねて、

「私はもう親たちの国へ帰ります。」と言って、天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。

天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。この七代目の孫にあたる高額媛という方がお生みになられたのが息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)です。

また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

  • 珠 2貫
  • 浪振る比礼(なみふるひれ)
  • 浪切る比礼(なみきるひれ)
  • 風振る比礼(かぜふるひれ)
  • 風切る比礼(かぜきるひれ)
  • 奥津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)

であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという(兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定)。

 

『日本書紀』

『日本書紀』垂仁紀3年条(二十六)

昔有一人 乘艇而泊于年但馬國 因問曰 汝何國人也 對曰 新羅王子 名曰 天日槍 則留于但馬 娶其國前津耳女 一云 前津見 一云 太耳 麻拖能烏 生 但馬諸助 是清彥之祖父也

[現代語訳] 昔、一人がいました。おふねに乗って但馬国に泊まりました。それで(但馬国の人がその船に乗っている人に)問いました。
「お前はどこの国の人だ?」
答えていいました。
「新羅の王こしきの子で、名を天日槍といいます」
但馬に留まって、その国の前津耳まえつみみ、ある伝によると前津見まえつみ、ある伝によると太耳ふとみみの、娘の麻拕能烏またのおを娶めとって但馬諸助たじまのもろすく(但馬故事記は天諸杉命)を生みました。これが清彦すがひこ(5代多遅麻国造) の祖父です。

『日本書紀』では、垂仁天皇3年(BC27年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが、羽太はふとの玉を一つ、足高あしたかの玉を一つ、鵜鹿鹿うかか赤石あかいしの玉を一つ、出石の小刀を一つ、出石のほこを一つ、日鏡ひかがみを一つ、熊の神籬ひもろぎ[*1]を一揃え謁見してきた。(八種神宝)

それを但馬の国に納めて神宝とした。

一説によると、三輪君みわのきみ[*3]の祖先にあたる大友主おおともぬし[*4]と、倭直やまとのあたい[*5]の祖先にあたる長尾市ながおち[*6]を遣わした。大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古ちこに譲ってやって来ました。」

天皇は、初めは、播磨はりま宍粟邑しそうむら[*7]と淡路あわじ出浅邑いでさのむら[*8]を与えようとしたが、「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡さかのぼり、北に入り、近江国の吾名邑あなむら、若狭国を経て但馬国に住処すみかを定めた。近江国の鏡邑かがみむらの谷の陶人すえびとは、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋いずしま[*9]の人、太耳の娘で麻多烏またおを娶り、但馬諸助もろすくをもうけた。諸助は但馬日楢杵ひならきを生んだ。日楢杵は清彦すがひこを生んだ。また清彦は田道間守たじまもりを生んだという。

『日本書紀』によると、ヒボコはひとりの童女阿加流比売アカルビメ神を追って日本にやってくるのであるが、その童女はヒボコに「私は親の国に帰る」と叫ぶのだ。

『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、アカルビメは、新羅王の子であるヒボコ(アメノヒボコ)の妻となっている。この話は『日本書紀』のツヌガアラシト来日説話とそっくりなのである。

[註]
*1…神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
*2…八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られている。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられるという。
「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いもの。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれている。
*3 三輪君(みわのきみ)…初めは姓(カバネ)の三輪君だったが、大神氏と名乗る。大神神社(奈良県桜井市三輪)をまつる大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族。天武天皇13年(684年)11月に朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあった。三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。
*4 大友主(おおともぬし)…「日本書紀」にみえる豪族のひとつ。三輪(みわ)氏の祖。
*5 倭直(やまとのあたい)…椎根津彦を祖とする。のち倭氏
*6 長尾市(ながおち)…市磯長尾市(いちしのながおち)。大倭直の祖。名称の「市磯」は、大和国十市郡の地名(奈良県桜井市池之内付近)とされる。出石神社代々の神官家は長尾家。
*7 穴栗邑…兵庫県宍粟市
*8 出浅邑 (いでさのむら)…「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
*9 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石町の今の伊豆・嶋。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。または、出石の古名である御出石(ミズシ・水石とも書いた)をさすのかも知れない。

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天火明命 谿間に来たり

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弘仁5年(814)-天延3年(975)にわたり、但馬国府の多数の国学者によって編纂された『国司文書・但馬故事記たじまこじき』は、第一巻・気多郡故事記から第八巻・二方郡の但馬国8郡に分けて編纂されている。
出石いずし郡・七美しつみ郡・二方ふたかた郡を除いて5巻の書き出しは、人皇1代神武天皇より先に、必ず「天照国照彦天火明命あまてるくにてるあめのほあかりのみことは・・・」ではじまる。

実年で神武天皇の在位年について実態は明らかではないものの、上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧

によると、紀元前のBC660年から582年とすれば、少なくともそれより前となる。であれば、弥生前期の紀元前660年以前のこととなる。

あとの2巻の出石郡は、国作大巳貴命くにつくりおおなむちのみことが出雲国から、伯耆ほうき稲葉いなば・二方国を開き、多遅麻たぢまに入り、伊曾布いそう(のち七美)・黄沼前(城崎)きのさき気多けた・津(おそらく津居山あたり)・薮(養父)やぶ水石(御出石)みずしあがたを開きませり。(中略)人皇一代神武天皇は、御出石櫛甕玉命くしかめたまのみことの子・天国知彦あめのくにともひこ命をもって(初代)御出石県主と為し給う。(中略)
人皇6代孝安天皇53年、新羅王天日槍あめのひぼこのみこと帰化す。多遅麻を賜う。61年、天日槍命をもって(初代)多遅摩国造くにのみやつこと為す。
七美郡・二方郡はは素盞鳴尊すさのおおのみことから始まる)

『第一巻・気多郡故事記』 天照国照彦天火明命は国造大巳貴命の勅を奉じ、両槻天物部命なみつきのあめのもののべのみことの子・佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
佐久津彦命は篠生原ささいくはらに御津井を掘り、水をそそぎ、御田おた・みたを作る。後世その地を名づけて、佐田稲生原さたいないはら・いくはらと云う。いま佐田伊原と称す。気多郡佐々前ささくま邑むら是なり。(のち楽々前郷。いまの豊岡市日高町佐田と道場の山沿い・式内佐久神社)

『第二巻・朝来郡故事記』 天火明命は丹波国加佐郡志楽国→この地(朝来郡)に来たり。真名井を掘り、御田を開きて、その水を灌ぎ給いしかば、即ち垂り穂の稲の甘美稲秋かんびとうしゅう野面のづら狭莫々然しないぬ
故れ此の地を名づけて、比地ひち真名井まないと云う。(比地は朝来あさこの古い県名。比地県→朝来郡)

『第三巻・養父郡故事記』 天照国照彦饒速日にぎはやひ天火明命は、その妃天道姫命あめのみちひめのみこととともに坂戸さかへの天物部命・二田ふたたの 〃 ・嶋戸しまへの 〃 ・垂樋たるひの 〃 ・両槻なみつきの 〃 ・天磐船命あめのいわふねのみこと天揖取部命あめのかじとりべのみこと佐岐津彦さきつひこ命を率い、天照大神あまてらすおおみかみの勅を奉じ、天の磐船に乗り、田庭の真名井原に降り・・・(中略)天火明命これより西して谿間たにま・たぢまに来たり。清明すが宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。垂樋天物部命をして、真名井を掘り、御田に灌がしむ。即ちその秋垂穂の八握穂やつかほ莫々然しないぬ。故れ其の地を名づけて、豊岡原と云い、真名井を名づけて、御田井おだいと云う(のち小田井・式内小田井県神社)。
天火明命は、また南して佐々前原ささくまはらに至り、磐船いわふね宮に止まる。(日高町道場に磐舩神社あり)
佐久津彦命をして、篠生原に就かしめ御田を開き、御津川を掘り、水を灌がしむ。後世その地を真田さだの稲飯原と云う。いま佐田伊原と称す。気多郡佐々前村これなり。
天火明命は。また天熊人命を夜父に遣わし、蚕桑の地を相せむ。天熊人命夜父の谿間に就き、桑を植え蚕を養う。
故れ此の地を谿間の屋岡県と云う。谿間たにまの号なこれに始まる。

『第四巻・城崎郡故事記』 天照国照彦饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種とくさの瑞宝みずたからを授かり、妃天道姫命とともに、田庭の真名井に降り、(以下養父郡とほぼ同じ)

『第六巻・美含みくみ郡故事記』 天火明命は妃天道姫命とともに、坂戸さかへの天物部命・両槻 〃 ・二田 〃 ・嶋戸 〃 ・垂井 〃 を率いて、天磐船に乗り、高天原より丹波国に降り給う。(中略)

『第一巻・気多郡故事記』を除き、天火明命は高天原から丹波国に降りて、御田を作ったのち、谿間に入り、佐田稲飯原を開き御田と為すとしている。また天熊人命を夜父(のち養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。谿間の名これに始まる。
豊受姫命とようけひめのみことはこれを見て、大いに歓喜びて、田庭たにはに植えたり。この地をのち田庭と云う。丹波のこれに始まる。

文献では主に「丹波」が使われているが、一部には「旦波」(『古事記』の一部)・「但波」(『正倉院文書』)の表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている。
『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている。[ウィキペディア]

丹波を最初は田庭と書かれていたことから、いつごろから田庭の訓読みの「たには・わ」が、丹波を音読みで「たんば」と変化したたのかは分からないが、山陰から北陸に共通する口をはっきりと開けない方言からみても、発音上「たには」→「たんば」と訛り、「たんば」を漢字にするときに丹波と書くようになったのだろうか。丹波国府が平城京・平安京に近い桑田郡(いまの亀岡市)に遷され、丹波の中心が丹波となり、北部は丹後・西部は但馬として分国された。

但馬も『国司文書・但馬故事記』には谿間とあり、「たにま」か、多遅麻と記すので「たぢま」と読んだようだし、のちに但馬と書く。これも音読みでは「たんば」でもある。たにはが訛って「たには」→「たぢま」→「たじま」に変わったのかも知れない。元々同じ大丹波で、丹波(加佐郡がルーツ)は、丹後となり、南部のみ丹波と三国に分国された。

谷間「たにま」と田庭「たには」、丹波「たんば」・但馬「たじま」を音読みすると「たんば」と同じで音が似ていること、『和訓栞』では丹波を「谷端」、丹と但はカナが誕生するまでの万葉仮名であり、深い意味はないとしても、すでに「たんば」と呼ばれていたから丹と但。旦と当てられたのであろう。

『校補但馬考』に但馬は、「但遅麻」(舊事紀)、「多遅摩・麻」(『古事記』)、「田道間」(『日本書紀』)、「谿間」『先代旧事本紀大成経(舊事大成経)』とす。ただ但馬と云うのみぞ、古来定まりたる本名にして、その他は、詞(ことば)の通ずる文字を用いたるなり。
と記している。

このように「たには」→「たにま」が「たんば」へ、多遅麻「たぢま」、但馬(「たじま」と変化したルーツは同じ「たにわ」ではないかと思える例が多い。漢字の文字が伝わる有史以前にあった地名を万葉仮名に当てはめたとすでに述べた。律令制では国名から土地々にあったふさわしい好字二文字を当てて書いているが、『和名抄』では「丹波」の読みを「太迩波(たには)」としているので平安期までは、少なくとも「たんば」ではなく「たには(わ)」と読んでいたことがわかる。但馬は「太知萬」

但馬故事記が云う谿間とは、屋岡(八鹿)辺であることは揺るぎない。
養父市の円山川の山を背に谷間地はさまじがある。国道9号線が通る。谿間はおそらく養父神社や大藪古墳群から養父市八鹿町あたりだろう。

兵庫県養父市堀畑550

*『国史文書 但馬故事記』

但馬国府に任じられた歴代の国司・官人たちが数年の歳月をかけて編纂された公文書なのである。偽書として無視する学者もあるが「但馬故事記序」の書き出しにこう記されている。

其ノ間、年を経ること158、月を積むこと、1896、稿を替えること、79回の多に及ぶ。(中略)
然して夫れ、旧事記、古事記、日本書紀は、帝都の旧史なり。此の書は、但馬の旧史なり。
故に帝都の旧史に欠有れば、即ち此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。焉。
然りいえども此の書、神武帝以来、推古帝に至るの記事書く。年月実に怪詭を以って之を書かざれば、即ち窺うべからず。
(そうはいっても、この書は神武帝から推古帝の記事を書くのだから、年月は実に怪しさをもって書いていることを否定出来ない。)
故、暫く古伝旧記に依り之を填(うず)め補い、少しも私意を加えず。また故意に削らず。しかして、編集するのみ。

『国史文書 但馬故事記』註解を執筆した吾郷清彦氏はこう述べている。
「この国史文書は、(現存している)『出雲国風土記』に比し、勝るとも劣らない価値ある古文書だ。この文書は左記三種の古記録、計22巻より成る。
『但馬故事記』(『但記』) 八巻
『古事大観録』       六巻
『但馬神社系譜伝』     八巻
このほかに、『但馬国司文書別記・但馬郷名記抄』八巻、『但馬世継記』八巻、『但馬秘鍵抄』などがある。
地方の上古代史書のうちで『甲斐古蹟考』とともに東西の横綱として高く評価されるべきものだ。」

現代でも歴史を知る姿勢として十分通じるべき範として見習うべきことを、奈良時代国府が置かれ、すでに平安時代初期に記紀にも欠落があり、此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。と述べられていることに、日本の役人の賢明さを再認識するのである。記録が乏しい神武帝以来、推古帝に至る記事を書いているのは貴重である。

「瀬戸の岩戸」を切り開いた国造り伝承は縄文海進だった

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黄沼前海(キノサキノウミ)

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんより
縄文時代の豊岡盆地 (Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました)

天日槍(あめのひぼこ)

天日槍(あめのひぼこ、以下ヒボコ)は、但馬国一の宮・出石(いずし)神社のご祭神で、但馬に住んでいる人なら知らない人はまずいないだろう。(以下、ヒボコ)

ヒボコは、出石神社由緒略記には、その当時「黄沼前海きのさきのうみ」という入江湖だった円山川の河口をふさいでいた瀬戸の岩戸を切り開いて干拓し、豊岡盆地を耕地にしたと記されている。

”国造りにまつわるお話”

アメノヒボコは但馬国を得た後、豊岡(とよおか)周辺を中心とした円山川まるやまがわ流域を開拓したらしい。そして亡くなった後は、出石神社いずしじんじゃの祭神として祭られることになった。

但馬一宮の出石神社は、出石町宮内にある。この場所は出石町の中心部よりも少し北にあたり、此隅山このすみやまからのびる尾根が出石川の右岸に至り、左岸にも山が迫って、懐のような地形になっている。神社はその奥の一段高い場所に建っている。

このあたりから下流は、たいへん洪水が多い場所である。2004年におきた台風23号による豊岡市の大水害は記憶に新しいところだが、出石神社のあたりを発掘してみると、低湿地にたまる粘土や腐植物層と、洪水でたまった砂の層が厚く積み重なっている所が多い。

そんな場所であるから、古代、この地を開拓した人々は、非常な苦労を強いられたことだろう。『出石神社由来記』には、アメノヒボコが「瀬戸の岩戸」を切り開いて、湖だった豊岡周辺を耕地にしたと記されているという。そのアメノヒボコは、神となって今も自分が開拓した平野をにらんでいるのだ。

去年の伝説紀行に登場したアメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのだろう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思える。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

また、豊岡市の小田井懸神社に伝わる五社明神の国造りも、土地を治める五人の神様が円山川のものすごく大きな河口の岩を切り開いて開削したと伝える。

小田井懸神社 「五社明神の国造り」 (豊岡市小田井)

大昔、まだ豊岡とよおかのあたりが、一面にどろの海だったころのことです。

人々は十分な土地がなくて、住むのにも耕すのにも困っていました。そのうえ悪いけものが多く、田畑をあらしたり、子供をおそったりするので、人々はたいへん苦しんでいました。この土地を治める五人の神様は、そのようすを見て、なんとかしてもっと広く、住みよい所にしたいものだと考えました。

そこで神様たちは、床尾山とこのおさんに登って、どろの海を見わたしてみました。すると、来日口くるひぐちのあたりに、ものすごく大きな岩があって水をせき止めています。

「あの大岩が、水をせき止めているのだな」
「あれを切り開けば、どろ水は海へ流れるにちがいない」
「そうすれば、もっと広い土地ができるだろう」
「それはよい考えだ。どろの海がなくなれば、たくさんの人が安心して暮らせる」

神様たちはさっそく相談して、大岩を切り開くことにしました。

大岩を断ち割り、切り開くと、どろ海の水はごうごうと音を立てて、海の方へ流れ始めました。神様たちはたいそう喜んで、そのようすを見ていました。

ところが、水が少なくなり始めたどろ海のまん中から、とつぜんおそろしい大蛇だいじゃが頭を出して、ものすごいうなり声を上げながら、切り開かれた岩へ泳ぎはじめました。そして、来日口に横たわって水の流れをせき止めてしまったのです。

神様たちはおどろきました。

「この大蛇は、どろの海の主にちがいない」
「これを追いはらわねば、いつまでたっても水はなくならないぞ」

神様たちがそろって、大蛇を追いはらおうとすると、大蛇はすぐにどろにもぐってにげてしまいます。あきらめてひきあげると、大蛇はまたあらわれて、水をせき止めてしまいます。神様たちはたいそうおこりました。

すきをみて大蛇に飛びかかり、神様たちは、とうとう大蛇を岸に引きずり上げてしまいました。そして頭と尻尾しっぽをつかんで、まっぷたつに引きちぎろうとしましたが、大蛇もそうはさせまいと大暴れします。それどころか、太くて長い体を神様たちに巻き付けて、しめころそうとするのでした。

五人の神様と大蛇は、上になったり下になったりしながら、長い間戦いました。大蛇が転がるたびに、地面は地震じしんのようにゆれます。けれども五人が力をあわせ、死にものぐるいでたたかいましたので、大蛇もしだいにつかれてきました。そこで神様たちが、大蛇の頭と尻尾にとびかかって、えいっと力をこめて引っ張りますと、さしもの大蛇も真っ二つになってしまいました。

こうして、どろの海の水は全部日本海へと流れ出し、後には豊かな広い土地が残りました。そしてどろの海のまわりにはびこっていた悪いけものたちも、みなにげ出してしまいましたので、人々はたいへん喜び、それからは安心して暮らせるようになったということです。
このできごとをお祝いして、毎年八月に、わらで大蛇の姿をした太いつなをつくり、村人みんなでひっぱってちぎるというお祭りが、行われるようになったということです。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)には、こう記されている。

人皇17代仁徳天皇10年秋8月、水先主命みずさきぬしのみことの子・海部直命あまべのあたえのみことをもって、城崎郡司きのさきぐんじ兼海部直あまべのあたえと為す。

海部直命は諸田の水害を憂い、御子みこ・西刀宿祢命せとのすくねのみことに命じて、西戸水門せとすいもんを浚渫しゅんせつせしむ。

故に御田多生さわなるゆえ、功有るという。海部直命は水先主命を深坂丘に葬る。(式内深坂神社)

*浚渫…港湾・河川・運河などの底面を浚(さら)って土砂などを取り去る土木工事のこと

縄文海進と日本列島の誕生

「縄文海進」とは、約7000年前ころ(縄文時代に含まれる)に氷河時代が終わると、氷が溶けて海水面が上がり、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られた。その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作った。大陸から日本列島が離れて現在とほぼ同じ地形になる。

気温が上昇し、暖流が日本海に流れこんだので、いままで針葉樹が多かった日本列島にクリやドングリなど食べられる実をつける広葉樹が増えた。やがて山々が実り、豊かな植物採集の場になったのである。

最終氷期の最寒冷期後、約19000年前から始まった海面上昇は、河川が上流から運んでくる土砂の堆積による沖積層より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで浸食された河谷には海が入り込んでいた。

各地にある国生みや入り江開削の神話・伝承は、地球温暖化による縄文海進が神懸かり的な現象と見えて伝わったのではないでしょうか。

兵庫県北部最大の河川である円山川まるやまがわが日本海に注ぐ河口から国府平野以北の円山川流域は水面下であった。『国史文書別記・但馬郷名記抄』によれば、その頃の豊岡盆地と国府平野部は、「黄沼前海きのさきのうみ」といわれる入り江(潟湖)であった。豊岡市塩津や大磯おおぞという地名や、円山川の支流大浜川一帯は森津から江野まで入江で、小江神社のある江野も古くは小江といった。田結郷大浜荘といった。奈佐も古くは渚郷が奈佐郷となったもので入江の渚からきているのだろう。東岸も同様で、「黄沼前郷は古くは黄沼海なり。昔は塩津大磯より下(しも)、三島に至る一帯は入江なり。 黄沼は泥の水たまりなり。故に黄沼というなり。

この章ではくわしく触れないが、平安期に編纂された『国史文書別記 但馬郷名記抄』城崎郡をみると、当時の地形の名残が読み取れる。

新墾田にいはりた郷(新田郷) 江岸(今の江本)・志保津(今の塩津)・清明島

黄沼前郷(のち城崎郷・豊岡旧市街地) 黄沼島

田結郷 大浜・赤石島・鴨居島・結浦島・鳥島(としま・今の戸島)・三島・小島(おしま)・小江(今の江野)・渚浦・干磯(ひのそ)浜・打水浦・大渓島(今の湯島?)・茂々島(今の桃島)・戸浦など

出石郡出石郷 出島(のち伊豆・嶋)

城崎郡・出石郡の円山川およびその支流域には、ずいぶん島や入江がついた地名が多く見受けられる。なかには現在のどこに相当するのか見当がつかない地名もある。平安期にはこうした島・入江があったのか、昔の地名がまだ残っていたのか、平安時代にも、平安海進という、8世紀から12世紀にかけて発生した大規模な海水準の上昇(海進現象)があったようだ。ロットネスト海進とも呼ばれているが、日本における当該時期が平安時代と重なるためにこの名称が用いられている。

2012年1月6日

中嶋神社と三宅

中嶋神社と三宅

中嶋神社は豊岡市三宅に鎮座する。豊岡市三宅は、古くは出石郡安美郷で、屯倉が置かれたことに由来する。

宿南保先生「但馬史研究」第31号 平成20年3月 の考察を抜粋してみた。

天日槍命(あめのひぼこのみこと)の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国から「非時(ときじく)の香の木の実」(橘)を持ち返ったと記される田道間守命(たじまもりのみこと)を主祭神とし、天湯河棚神(あめのゆがわたなのかみ)を配祀する。そこから菓子の神・菓祖として崇敬される。また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから養蚕の神ともされる。

天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神である。天湯河棚神(天湯河板挙命)は鳥取造の祖である。一説には、日本書紀に記される、垂仁天皇の命により天湯河板挙命が鵠を捕えた和那美之水門の近くに天湯河棚神を祀ったものであるという。

中嶋神社は、天日槍(日矛)を祀る但馬一宮・出石神社とともに立派な社で、この地が古くから屯倉(三宅)としてヤマト政権の直轄地にあることが重要であろう。また、但馬の出石・城崎(豊岡)・気多(日高町)には天日槍ゆかりの神社が多い。

現在の社殿は、応永年間の火災の後、正長元年(1428年)に再建されたもので、室町中期の特色をよく示しているものとして重要文化財に指定されている。
国司文書 但馬故事記によれば、第33代推古天皇15年(607年)、田道間守の七世の子孫である三宅吉士*1が、祖神として田道間守(たじまもり)を祀ったのに始まる。「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからという。中古、安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した。

中島神社と田道間守(たじまもり)については別ページに詳しく触れているのでミヤケについてにしぼる。

拙者註
*1 『但馬故事記』文
人皇36代推古天皇15年秋10月、屯倉を出石郡に置き、米粟を蔵し、貧民救恤きゅうじゅつの用に供う。多遅麻毛理の七世孫・中島公その屯倉を司る。故に家を三宅と云い、氏と為せり。(「世継記」には10世)
34年秋10月、天下大いに餓ゆ、故に屯倉を開き、救恤す。
中島に三宅吉士の姓を賜う。中島公はその祖・多遅麻毛理命を屯倉丘に祀り、中島神社と云う。

(救恤 貧乏人・被災者などを救い、恵むこと。)

豊岡市三宅と奈良三宅周辺

垂仁天皇と但馬

さて垂仁天皇は、実在する初代天皇とされる崇神天皇の第3皇子で、『記・紀』には崇神天皇と垂仁天皇の代に、他の天皇では記述がないのに、丹波(いまの丹後が中心)と但馬の記述が圧倒している。しかし、それらの事績は総じて起源譚の性格が強いと、その史実性を疑問視する説もある。

しかし、他には残された史料がないから、それに従い記述すると、崇神天皇の第3皇子。生母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。皇后は丹波からで最初の皇后は垂仁天皇5年に焼死したとされる狭穂姫命(彦坐王の女)で、口が利けなかった誉津別命をもうけている。そして全国で唯一のコウノトリにゆかりの久久比(クグヒ)神社が低い山の北の豊岡市三江にある。狭穂姫命の後の皇后には同じく丹波から日葉酢媛命(彦坐王の子・丹波道主王の女)、妃は丹波からは日葉酢媛の妹の渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)と3人が続きそのあと他にも3名あるが本題に関係ないのでここでは割愛する。

奈良県垂仁天皇御陵

垂仁天皇は、『延喜式』諸陵寮に拠れば、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」として見える。現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。

現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かっての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。

現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。
全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。

弥生時代中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。ここに唐古・鍵遺跡の特質がみられる。

集落南部で青銅器の製作。古墳時代前期に衰退している。遺跡中央部に前方後円墳が造られ、墓域となる。

但馬と奈良との天日槍の因果関係の謎を解明する

ここでの本題は出石と大和に共通する三宅という地名である。奈良県三宅町と田原本町には天日槍と但馬に関わりのありそうな事跡が多いことである。
郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。
平成16年5月に『和田山町史』を執筆した筆者は、『川西町史』と『田原本町史』の古代編に惹かれていて、読みふけった。両町には、半島からの渡来人の足跡が色濃く残っていることを知った。その中には天日槍伝承をもつ氏族集団もいる。その後、同氏族に関して、

1,彼らの渡来は古墳時代のことであるのに、出石には日槍の伝承を持つ氏族の古墳と伝えられるもおのはない。ヤマトに存在するのだろうか。

2,日槍伝承を持つ氏族がヤマトへ移住するに至った理由は何であっただろうか。その間に斡旋者が介在していたのだろうか。
上記の疑問がフツフツとわいてきて、その解明に取りかかりたいと思うようになった。この思いを導き出したのは『川西町史』に盛られた諸項である。(中略)

1.大和盆地における古墳の分布状況

(大和の)主要古墳群は盆地の周辺部に集中的に分布している。ヤマト朝廷を構成した大和の古代氏族は早くにこの地を占拠して開拓し、やがてはヤマト国家の基を築く。そして巨大古墳群を築造する。

これに対し、地図の中央部、川西、三宅、田原本の三町が所在する中央部は古墳の分布がほとんどないところから、古墳の空白地帯といった感すらする。前時代までは低湿地であったため大規模な古墳を造る在地勢力の存在は考えにくいとみられていた。そこへいきなり「島の山古墳」「河合大塚山古墳」といった巨大古墳が出現しているものであるから、『川西町史』は驚きの口調をもって解説している。

「島の山古墳」は川西町の西方域に所在し、満々と水を貯えた周濠の中に大きな島が横たわっている状態にあるところから「島の山古墳」と呼ばれてきたのであった。東西から西北に延びる標高48mの微高地の北端に営まれていて、墳丘の全長190m、後円部の径98m、同高17.42mの前方後円墳である。築造時期は古墳時代前期末、年代でいうと四世紀末ごろに相当するという。200m近い規模をもつ規模で、(大和地方で)宮内庁の陵墓及び陵墓参考地や国の史跡にも指定されていないものは、この島の山古墳が唯一のものといわれており、逆にそのことからもこの古墳が大王もしくはそれに準ずる程度の人の古墳と推定されている。

しかし大王もしくはそれに準ずる程度の人びとの墳墓が集まっているとされる大和・河内の他の墳墓と大きく異なるところがある。それはかなり低地にあること、島の山古墳の一帯では同古墳につづく同規模のものが造営されていないこと、他の古墳では、その地域にすでに在地勢力が存在していたことを窺わせる小規模な古墳が存在するものであるが、またそれに続く大型古墳もなく、系譜的に断絶していることを表しているという。

では「島の山古墳」は、どのようなねらいをもってこの場所に築造したのだろうか。『川西町史』はそのことを詳しく論述している。

2.「倭のミヤケ」と川西・三宅・田原本三町域

「島の山古墳」の被葬者像については、これまでに出されている見解の多くが、「倭のミヤケ」よの関係に言及しているところから、『川西町史』でも「倭のミヤケ」との関係に解析の重点が置かれている。

ミヤケとは、「ヤマト王権が多様な目的を果たすために地方官である国造(くにのみやつこ)等の領内に置いた政治的(軍事も含む)・経済的拠点である。ミヤケが設置された歴史的意義については、ヤマト王権が初めて地方に打ち込んだくさびであり、ここを拠点に国造・伴造(とものみやつこ)などの地方官制を運用し、王権が必要とする物資の調達・集積や、よう役労働・兵役への徴発を行ったとされる(熊谷公男『大王から天皇へ』講談社)」との定義と歴史的意義を紹介したうえ、ミヤケが設置された時期は、ヤマト王権が誕生した四世紀末から、ヤマト王権の機構が整う六世紀中ごろまでの間であると述べている。

つづいて、多くの場合、それぞれのミヤケで地域や管理形態の特徴から類型化されている前期・後期の二つのタイプを挙げたのち、倭のミヤケの性格・位置・範囲等を述べている。

1)前期(開墾地系)ミヤケ

四世紀末から六世紀までに設置されたミヤケで、特徴としては大王によって開発された直轄的性格をもつことから、開墾地系といわれ、その管理は現地の国造もしくは地方豪族に委ねられている形態である。

2)後期(貢進地系)ミヤケ

その特徴は、国造等の地方豪族がヤマト王権にいったん反抗し、その後制圧されるに及んで改めて恭順の意を表すために、それまで自分が支配していた領地の一部を献上し王権のものとする。このタイプのミヤケは貢進地系といわれ、その管理については王権から直接管理者が派遣されて行われることになり、このことが律令的地方支配
の前提をなしたとされる。

川西・三宅・田原本の三町域が関係するミヤケとしては、「倭(ヤマト)のミヤケ」が考えられている。このことについて『川西町史』は次のように述べている。

「仁徳天皇即位前記には、“倭の屯田”の来歴について知っている人物として、“倭の直(やまとのあたい)”とは倭国造のことであるから、この一族がミヤケの来歴について尋ねられるということは、倭国造一族が倭のミヤケの管理を担当していたためであろう。このことから“倭のミヤケ”は前期ミヤケの一つに位置づけられる。」
(中略)
糸井造(みやつこ)や三宅連(むらじ)の出自や役割については後に述べるが、天日槍の伝承をもつ集団の中から、抜きん出て名の現れているこの両名は、造・連といった姓(カバネ)から、伴造に補せられた可能性が考えられるところから、彼らがミヤケ古墳群のいずれかの古墳に葬られていることの確証が得られたなら、天日槍伝承をもつ氏族の古墳は出石地域には確認されていないけれども、大和盆地のミヤケ古墳群が彼らの葬地ということができることになる。

ミヤケの開発に当たって、ヤマト王権は意図的にそこに渡来人の集団を設置していたことが隋所に見られる。渡来人は大陸や朝鮮半島からそれまでにない技量や知識などを携えて来ているので、その新しい技量を生かした生産活動の拠点をミヤケ周辺に構えさせて、ヤマト政権はその勢力を利用して組織や経済基盤を強固なものとする狙いがあったと考えられる。川西町域およびその周辺には渡来人に関係する神社や土木工事などの史跡がかなり濃密に分布しており、それらをつぶさに考察してみると、ミヤケの歴史的役割や意義、この地域の特色が浮かび上がってくるように思うので、改めて取り上げることにしよう。

3.三町域にみられる渡来人の足跡

さらに『川西町史』から引用させていただこう。

渡来人は朝鮮半島の情勢変化に伴い、ある程度まとまった集団を形成して来航する場合が多いと見て、その集中渡来の時期として、『川西町史』は次の三つピークを挙げている。

第一波は四世紀末から五世紀初めに、高句麗が「広開土王」の名をもつ好太王に率いられて南方に領土を拡大したことにより、主に朝鮮半島南部の人びとが五世紀前半にかけて渡来したもので、『日本書紀』では応神天皇のころにそれに関する記事が見られる。その時渡来したとされる人びとには、後に有力な豪族となる東(倭)漢(やまとのあや)氏の祖・阿知使(あちのおみ)主や西文(かわちふみ)氏の祖・王仁(ワニ)、秦氏の祖・弓月(ゆづき)君がいる。この時伝えられたとされるものや渡来談話を見ると、本来この時代にはないものがあるので、次に紹介する第二波の渡来に関係した氏族が、自分たちの始原を古いものであると示すために作った説話がかなり混じっている可能性がある。しかし第二波の渡来人を「今来(いまき・新しくやって来たの意)の漢人」と呼び、東漢氏や西文氏、秦氏が支配下においていることから、やはり五世紀後半以前に日本列島に渡来し、ヤマト王権のもとに組織されていたグループがあったものとされている。その人たちの出身地は、東漢氏や西文氏の場合は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)(『日本書紀』では任那)、秦氏は新羅と考えられている。

渡来の第二波は、五世紀後期に高句麗が百済の漢城(現ソウル)とう都を陥落させたことにより圧迫を受けた多くの人びとの渡来が顕著な時期で、『記・紀』にいう雄略天皇の治世に当たる。この時期の渡来人は須恵器や鞍(くら)といった生活や武具関係の工業技術を持った人びとが多く、ヤマト王権は東漢氏や西文氏等の渡来氏族の支配下に置き、部民制をとり陶部(すえつくりべ)や鞍作部(くらつくりべ)という職業部を組織し、労働と製品を確保する体制をとった。

渡来の最後の波は、七世紀中ごろになり、唐が勢力を拡大し、それと組んだ新羅が強大化することで、高句麗・百済が相次いで滅亡し、白村江(はくすきえ)の戦いで敗れ、王族も含む各種の階層の人びとがわが国に政治亡命してきた時期である。
渡来人が太子道沿いの地域に設置され、その技術を活用して開発や生産が行われたことを示す列証を『川西町史』が挙げている。

田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏んいつながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。『日本書紀』応神天皇七年九月の条に、「高麗人・任那人・新羅人、並びに来朝り。時に武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて、池を名づけて韓人池(からひといけ)と号ふ」とある。

川西町域にも渡来人の活動を推定させる史跡が二つある。糸井神社と比売久波(ひめくわ)神社である。現在は結崎市場垣内の寺川の右岸に鎮座する。『奈良県史』は、「古来、当社の祭神や創祀について諸説があって判然としない面もある」としている。糸井神社の社務所が出している「由来について」には、「ご祭神については豊鋤入姫命、また一説には綾羽呉羽の機織りの神とも伝えている」と微妙な表現をしている。豊鋤入姫命とは、崇神天皇の時代にそれまで宮殿に祀られていた天照大神を、倭の笠縫邑に移して祀らせた祭にその祭祀を託されたとされる姫命である。

糸井造と三宅連

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造

新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

豊岡市三宅は、旧名穴見村で、土師口という字がついたバス停があり、天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

また同じ更杵村(寺内)には、佐伎都比古阿流知命神社という式内社がある。この神社は、中世には山王権現を祭神とし、山王社と呼ばれていたが、主祭神は、社号の通り、佐伎都比古阿流知命。『日本書記』垂仁天皇八十八年紀に以下の一文がある。「新羅の国の王子、名を天日槍という」と答えた。その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り但馬諸助を産んだ。この前津耳が、佐伎都比古命であり佐伎都比古阿流知命は、その妻であるという。一説には、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるという。いずれにしろ、延喜当時の祭神は、佐伎都比古命と阿流知命の二柱だったのだろう。

『古事記』には、「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚した」としている。であるから、佐伎都比古命は天日槍で阿流知命は阿加流比売神(アカルヒメ)だと思う。

この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』の著者の桜井勉である。「日槍の子孫、糸井姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」としている。実のところ、よく分からないというのが本音といってよかろう。

ただし、日槍伝承をもつ集団の子孫が大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者達がヤマトに糸井神社を建立、但馬に残った者達が寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。豊岡の三宅に落ち着いた者達についても同様の経過があったとみれば、豊岡市の人たちは納得が得られよう。(中略)

更杵村大兵主神社は中世にはほとんど廃絶に近い状態となっていたのだろう。このため明治期の式内社指定からははずれ、隣の林垣区の十六柱神社が式内社に指定医されている。いまでは寺内区の七、八戸が氏子となって更杵神社と称する小社を建立し、寺内区内に祀っている。

以上のように、更杵村という小さな村の村域とその隣接地に三社もの式内社が存在していたというのは、更杵村が古代にはきわめて重要な役割を果たしていたことを物語る証であろうか。円山川を隔てた対岸に但馬最大で近畿地方でも5本の指に入る規模の前方後円墳である池田古墳が存在している。但馬の首長が埋葬されたのではないかといわれているが、そのお膝元ともいっていい場所に更杵村は存在する。この地理的条件が、更杵村に多くの式内社を存在させる理由になったと考える。

この場合、畿内中枢部から派遣されてきたヤマト王権の首長が、天日槍伝承集団の分派をヤマトへ移住させる仲介役を果たしたとの仮説を立ててアプローチしてみてはどうだろう。

中島神社が鎮座する豊岡市三宅はかつては出石郡神美村ですぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市市場)がある。奥野にはもう一つの大生部兵主神社があり、一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの穴見郷戸主大生部兵主神社と有庫神社を祀るようになったようだ。

どちらも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

また、出石郡但東町薬王寺にも大生部兵主神社があり奥野とともに論社であるとしている。出石町鍛冶屋には伊福部神社、気多郡伊福(いふ・現豊岡市日高町鶴岡)という鍛冶に関わる神社・地名が残り、入佐山古墳の石棺からは被葬者とともに納められたであろう砂鉄が見つかっていて、鉄に関わる渡来系の由来が残るのである。

天日槍伝承をもつ集団のヤマト移住先は大和盆地の中央部、川西町など三町域のあたりだろうということは前に述べた。ヤマト王権の支配という面から見たこの辺りの政治・経済的な立地条件について『川西町史』は、次のように述べている。「この地が五世紀のヤマト王権の直接的な支配が及ぶ最先端部にあたり、それまでほとんど手つかずのまま残されている広大な平地であったため、灌漑・水利の面等で新しい技術やそれを身につけた人たちを投入すれば、未開の低湿地は肥沃な耕地に生まれ変わり、王権にとって重要な経済的拠点になる、ということである」。

天日槍の伝承をもつ集団はこの地に打ってつけの人たちであったことが理解できよう。この地に投入された人を語る一つになるか知れないのが、大和盆地に散在する国名集落である。三宅町には上但馬・但馬といった地名が現存する。同町には他の国名集落として石見・三河が存在する。

(中略)

以上のような展開は、五世紀初頭のころを意識して想定を試みた。以上のような空想的経過が、もし部分的にも認められるところがあったなら、天日槍の(円山川開削という架空の)開発伝承は、但馬では神話という架空に近い単なる物語であるけれども、大和盆地においては彼らの活動が実施に移された史実であったということができよう。

実はこの投稿を見たのが昨日であった。しかし、それまで勝手に素人で数年間進めてきた但馬史というほどのものではないが、歴史探索は遠からず近いものであったと思う。田原本町に但馬や石見・三河などという国名地名があることは少年時代から地図好きだったので不思議に思って知っていた。

おそらく『記・紀』編集当時、このようなヤマトに根付いた地方集団の伝承を多く取り入れたのではないかと考えれば、神功皇后や崇神・垂仁天皇などの時代の主たる節目に当たり、丹波(但馬・丹後を含む)が頻繁に登場することがむしろ納得がいくのである。

(一部補正しています)

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但馬に集中する兵主神の謎

兵主(ひょうず)とは?

兵主神社(ひょうずじんじゃ)ってご存じですか?

兵主とは、「つわものぬし=武士」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表しています。

大国主は天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。
大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表します。大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) 、大物主神(オオモノヌシ)、大國魂大神(オホクニタマ)。

但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社です。田道間守や天日槍関係の神社を数える方が圧倒的に少ないのです。

兵主神社は、関西以西のしかも但馬国に集中しています。しかし、かつては但馬と同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみなのですが、不思議と但馬には式内社7社、式外社7社、計14社と但馬国に集中しているのです。

兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。宇佐八幡や全国的には最多の八幡神社で知られる八幡神も武神ですが、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。

大国主

『古事記』『日本書紀』では八千矛神とは大国主の別名である。須佐之男(スサノオ)の別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す。矛(ほこ)は武力の象徴で、武神としての性格を表している。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされている。大国主とは出雲や但馬、越など各国の王の総称であり、個人名ではないと思う。但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社だし、全国的に天皇家よりも物部・大国主系の神社が圧倒している。

大国主は国津神の総称で多くの別名を持っています。

出雲の大国主神でも触れましたが、大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

・大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 – 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(オウ=・旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。

・大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) -大国主の若い頃の名前
・大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称
・大名持神(オオナムチノミコト)
・八千矛神(ヤチホコノカミ) – 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
・葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) – 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す
・大物主神(オオモノヌシ)
・大國魂大神(オホクニタマ)
・顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)
・国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
・所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) - 出雲国風土記における尊称

国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰され、また「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透しています。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。

二つある天孫降臨

記紀神話をみると、天孫降臨と東遷という神話を持つ氏族が二つあります。大王家(おおきみけ)と物部氏(もののべうじ)である。大王家の神話では、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降臨し、それから四代後(その間に1,792,470余年が経過したという)磐余彦(いわれひこ)が大和へ東遷した。「神武紀」に明記されている物部氏の祖先伝承では、「祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内の河上の哮峯(いかるがのたけ)に降臨し、その後まもなく大和の鳥見の白庭山へ移った。」と記しています。哮は音読みで「コウ(カウ)」、訓読みで「たける、ほえる」。兵主は哮神とも。

式内小田井懸神社(豊岡市小田井町)の祭神国作大己貴命(くにつくりおほなむち)ですが、『播磨国風土記』では、その子が饒速日命(にぎはやひのみこと)とあります。兵主神は、もとは日本の神様ではなく、中国大陸の山東省の神様(鉄の神=蚩尤)だそうだ。秦氏ゆかりの神である。

延喜式神名帳で認められた式内社に現れる古社で、兵主神については色々と説があるそうですが、八千矛神(ヤチホコノカミ)だという説が有力です。延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内神社が18社記載されており、但馬各地に祀られた重要な神であったようです。但馬国は、奈良時代までは丹波国(丹後王国)といわれる北近畿一円のクニで、九州北部・出雲や若狭・越国(越前から越後)同様に太古から日本海を介して朝鮮半島南部との交易があった国です。

兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)です。

貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。伊福部神社(豊岡市出石町)など伊福部という青銅器鋳造をおこなった部民で山陰各所に伊福部にちなむ神社があります。大変多い八幡神社も、八神の秦氏が八幡となったと勝手に想像します。

滋賀県野洲市の兵主大社のように、八千軍(やちぐさ)という呼称からきたと思われる「八千矛神」は、「矛」を介在して、ヒボコ(天日槍)の伝承が近江に残っていることとから関わりがあるように思いますが、八千矛の名称そのものが、オオナモチ(大己貴命)の別称であることは『日本書紀』に記されているので、葦原色許男神(葦原醜男)と称せられた大国主神であろう。天日槍がオオクニヌシと同一神でない限り、ヒボコと兵主神は同一神ではないように思います。但馬国を開拓した伝説は天日槍以外の他の大己貴命を祀る但馬の神社と共通しています。

それはまた、丹後の浦島太郎伝承や佐賀など全国に伝わる徐福の伝説、秦の始皇帝の命で、常世の国(日本列島)に不死の薬を採りにきた徐福の伝説に共通する。

ここで、伽耶=韓神は、もともとそのルーツは秦氏が半島南部の鉄の産地・伽耶に住み着き、また出雲にたたら製鉄を伝えて同化した?スサノオが但馬に稲作をもたらし切り開いた渡来系人と縄文人が融合したのが弥生人だったと思えるのです。

「延喜式神名帳」記載の式内社兵主神社一覧

(壱岐→山陰→兵庫→近江→三河→畿内→大和への移動か?)

大和國城上郡奈良県桜井市穴師1065穴師坐兵主神社兵主神(御食津神)、大兵主神、若御魂神(稲田姫命)
和泉國和泉郡大阪府岸和田市西之内町蛇淵兵主神社八千鉾大神
参河國賀茂郡愛知県豊田市荒井町松嶋兵主神社大物主命、三穗津姫命
近江國野洲郡滋賀県野洲市五条兵主大社八千矛神
伊香郡滋賀県長浜市高月町横山兵主神社素盞嗚尊
丹波國氷上郡兵庫県丹波市春日町黒井兵主神社大己貴大神、少名彦大神、天香山神
但馬國朝來郡兵庫県朝来市山東町柿坪兵主神社大己貴命
養父郡兵庫県朝来市和田山町寺内更杵村大兵主神社素盞嗚尊
兵庫県豊岡市日高町浅倉兵主神社大己貴命
氣多郡兵庫県豊岡市日高町久斗久刀寸兵主神社素盞嗚尊、大己貴命
出石郡兵庫県豊岡市奥野大生部兵主神社大己貴命
兵庫県豊岡市但東町薬王寺大生部兵主神社武速素盞嗚命
城崎郡兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城兵主神社速須佐男神
兵庫県豊岡市赤石兵主神社二座速須佐之男命
因幡國巨濃郡鳥取県岩美郡岩美町河崎佐弥乃兵主神社
鳥取県岩美郡岩美町浦富許野乃兵主神社大國主神、素盞嗚尊
播磨國餝磨郡兵庫県姫路市本町射楯兵主神社二座射楯大神(五十猛尊)
兵主大神(伊和大神、大国主命)
多可郡兵庫県西脇市黒田庄町岡兵主神社大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命
壹岐嶋壹岐郡長崎県壱岐市芦辺町深江兵主神社素盞嗚尊 大己貴神 事代主神

式外兵主神社一覧 平成祭礼CDから

青森県むつ市大湊上町337 兵主神社「伊弉諾命」
千葉県東葛飾郡沼南町手賀1418 兵主八幡両神社「經津主命、譽田別命」
福井県丹生郡清水町山内 兵主神
滋賀県野洲郡中主町下提 下提神社
京都市伏見区中島鳥羽離宮町 城南宮摂社兵主神社「大國主命」
奈良市春日野町 春日大社摂社若宮社末社兵主社

播磨
兵庫県姫路市辻井4-4-3  行矢射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神」
兵庫県姫路市飾磨区阿成 早川神社「兵主神」
兵庫県姫路市夢前町山之内戊549 兵主神社「大國主命」
兵庫県西脇市黒田庄町岡字二ノ門 兵主神社「大穴貴命」
兵庫県佐用郡佐用町奧海 奧海神社摂社兵主神社「大名持命」
兵庫県姫路市安富町三森平谷 安志姫神社「安志姫命」
兵庫県佐用郡佐用町奥海1281 奥海神社の兵主神社「大名持命」

但馬
兵庫県豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
兵庫県美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡浜坂町田井字村中448 兵主神社「?」
兵庫県美方郡浜坂町指杭字御城338 兵主神社「?」
兵庫県美方郡温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
兵庫県美方郡浜坂町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

島根県簸川郡斐川町大字学頭2830 兵主神社「大國玉命」
岡山県岡山市阿津2783 兵主神社「素盞嗚命」
鹿児島県揖宿郡頴娃町別府6827 射楯兵主神社「素盞嗚命、宇氣母知命」
鹿児島県姶良郡姶良町脇元1818 兵主神社「素戔嗚尊」
奈良市春日野町160 春日大社の兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」
香川県大川郡大川町富田中114 富田神社の兵主神社「大己貴命」
福岡県筑後市大字津島1117 村上社の兵主神社「毘沙門天」
福岡県大川市大字北古賀字神前28 天満宮の兵主社「大己貴命」

■但馬国式内社

但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 素盞嗚尊
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代不詳

■式外社

但馬國美含郡 豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町田井字村中448 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町指杭字御城338 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)である。

貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。天日槍を祀る出石神社を取り囲むようにして重要路に祀られているように見えますが、郡境に土地の守り神として配祀されたのではないでしょうか。

ちなみに同じく武神である八幡神は、日本独自で信仰される神です。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言います。八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位です。一方、岡田荘司氏らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるといいます。

概 要

但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社やその子孫の神社が出石郡近辺に集中しており、そのまわりを兵主神社が取り囲むように建っている。全国でも関西以西のしかも但馬国に集中している。

但馬国はかつて同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみで、近江国と但馬国に集中して多いのです。八幡社の式内社は皆無。関西で見ても岩清水八幡宮、近江國高嶋郡の八幡神社(祭神:譽田別命)のみです。

また、神功皇后は天日槍の子孫であるとされているので、ずっとヤマト朝廷が但馬を平定するために出石神社を置いたのではないかと考えてきた。古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされている。ただし、古い記録には養父水谷神社と表示されているから元々ひとつであり、現在の奥米冶にある水谷神社はのちに遷されたのかもしれない。

但馬に圧倒的に多い兵主神社の謎

兵主神は、『史記封禅書』に見られる、「天主・地主・兵主・陽主・陰主・月主・日主・四時主」の一とされている武神。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。

大己貴命を祭神とする神社は、出石神社をはじめとする天日槍ゆかりの神社を除くと、粟鹿、養父、小田井、絹巻の五社を筆頭に他にもたくさんあります。でな何故但馬では好んで兵主と名づけたのでしょう。

■但馬の式内古社で大己貴命を祭神とする主な神社

養父神社:創祀年代は不詳だが、社伝によると崇神天皇三十年(紀元前118年)の鎮座。
祭神:倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命
和奈美神社 大己貴命 天湯河板挙命 兵庫県養父市八鹿町下網場156
小田井縣神社:創祀年代は不詳だが、第十代崇神天皇の御代(紀元前148年~紀元前29年1月9日)谿羽(丹波)道主命が国作大己貴命及び天火明命を祀った。久刀寸兵主神社と同じ祭神。
などと比較しても久刀寸兵主神社は、古い神社ということになります。
石部神社 大己貴命 兵庫県朝来市山東町滝田字マリ559  創祀年代は不詳
気多神社 大己貴命 但馬國総社 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
石部神社 天日方奇日方命
大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命
兵庫県豊岡市出石町下谷62
桑原神社 稻倉魂神 大己貴命 兵庫県豊岡市竹野町森本字苗原463-1

徐福(鉄の神=蚩尤)→半島・伽耶(韓神)→出雲・但馬(大国主)→ヤマト朝廷成立(武神)

ということで、物部氏の大国主(別名:大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命・葦原色許男神など)の治める出雲連合の・小国但馬に、あとから天日槍が現れたのではないかと想像していた。しかし、兵主神社もまた、速須佐男や大己貴命を祀る神社だった。

アメノヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。

この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。

それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。

もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。

しかしこれは、伽耶(任那)は鉄の産地で交易商人だったらしいが、伽耶滅亡直前の欽明天皇二年(541)、任那と新羅が謀略をめぐらし、百済がこれを深く責め罵ったという記事が載り、欽明天皇四年には、天皇から出された詔勅、「任那日本府とともに任那を復興せよ」を楯に、百済は任那に対し、任那復興会議への出席を呼びかけるが、任那はこれを三度断り続けたという。

それでも翌年11月、任那復興会議がようやく開かれ、新羅と阿羅(伽耶の小国)の国境に城を築き、任那に兵を集めて新羅を駆逐するための策が練られたが、結局、任那は、この決定を無視するのである。

さらに、欽明天皇九年四月には、高句麗の百済への攻撃に対し、任那と阿羅は結託して救援に向かわなかった。任那日本府は、なぜか天皇家に逆らい、命令を無視し続け、とてもヤマト朝廷の出先機関とは思えないのだ。
また、文書作成のころは、半島南部は562年、伽耶は新羅に滅ぼされ、新羅・百済になっているが、崇神天皇・垂仁天皇の物語の頃はまだ新羅は存在していない。「記紀・風土記」完成は704年から712年ころで、伽耶滅亡は150年近い昔のことだ。伽耶は忘れられたか、または故意に新羅と記した可能性もあるからだ。作者が、朝廷にのヒボコは、伽耶の人であるのに新羅と記しているからであって、同一であろうと信じている。

-出典: 「神奈備へようこそ」
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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天日槍とゆかりの神社というこじつけとその真相

「天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社は、出石神社と御出石神社を囲むように周辺に集中しています。」

  1. 耳井神社/豊岡市宮井 アメノヒボコの妻が多遅摩前津見(タヂママヘツミ)
  2. 諸杉もろすぎ神社/出石町内町 アメノヒボコの子 多遅摩母呂須玖(タヂマモロスク)
  3. 比遅神社/但東町口藤 多遅摩斐泥(タヂマヒネ)
  4. 多麻良岐たまらぎ神社/日高町猪爪 多遅摩比那良岐(タヂマヒナラキ) 第三子
  5. 中嶋神社/豊岡市三宅 曾孫が、菓子の神とされるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)
  6. 日出神社/但東町畑山 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)、清日子(スガヒコ)
  7. 須義神社/出石町荒木 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)の娘が菅竃由良度美(スガカマノユラトミ)/
    一節には清日子(スガヒコ)の娘とあります。
  8. 鷹貫神社/日高町竹貫 葛城高貫比売命(神功皇后の母で、 多遅摩比多訶と菅竈由良度美の子として誕生)

以上のこのようなヒボコゆかりの神社とされている神社のうち、『国司文書 但馬故事記』出石郡故事記によれば、アメノヒボコに関係するのは、
諸杉神社日出神社須義神社・中嶋神社
のみである。

いずれも旧出石郡内であり、『国司文書 但馬故事記』出石郡故事記以外の郡故事記には、ヒボコについては全く記されていない通り、城崎郡の耳井神社や気多郡の多麻良岐神社と鷹貫神社はヒボコと無関係なのだ。

耳井神社をヒボコの妻が前津耳と「耳」というだけで錯覚したのか?御祭神、耳井神社の御祭神は耳井命と言って城崎郡司であり、前津耳を祀っていない。

多麻良岐神社を多摩比那良岐(タヂマヒナラキ)としているが、
竹貫区が神社の現在の御祭神は、鷹野姫命=葛城高額比賣命としていることにある。
もちろん、神社の御祭神は長い時間の中でに変遷していった例はたくさんあり、誰を祀ろうが区の自由であることだ。

『国司文書 但馬故事記』気多郡故事記には、
気多県主の当芸利彦命、又の名を武貫彦命 竹野別(現豊岡市竹野町)の祖、気多県主を祀るとある。

但馬国一の宮 出石神社(いずしじんじゃ)


兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99
伊豆志坐神社八座座[イツシノ](並名神大)
式内社 旧國幣中社 但馬國一宮
【国指定重要文化財】
祭神:天日槍命 出石八前大神
御出石(みいずし)神社
豊岡市出石町桐野986
名神大 式内社 旧村社
御祭神 日矛神 配祀:伊豆志袁登売(出石乙女)神
お菓子の神様-中嶋神社
【国指定重要文化財】
祭神:主祭神:田道間守命(たじまもりのみこと・多遅麻毛理命) 配祀:天湯河棚神(あまのゆかわたなのかみ)
住所:兵庫県豊岡市三宅1

2009/08/29

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初代多遅麻国造 天日槍(あめのひぼこ)

初代多遅麻国造 天日槍(あめのひぼこ)

天日槍伝説

『日本書紀』では、以下のように記している。

日本書紀垂仁天皇三年の条

《垂仁天皇三年(甲午前二七)三月》三年春三月。新羅王子日槍来帰焉。将来物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。并七物。則蔵于但馬国。常為神物也。〈 一云。初日槍。乗艇泊于播磨国。在於完粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主与倭直祖長尾市於播磨。而問日槍曰。汝也誰人。且何国人也。日槍対曰。僕新羅国主之子也。然聞日本国有聖皇。則以己国授弟知古而化帰之。仍貢献物葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。胆狭浅大刀。并八物。仍詔日槍曰。播磨国宍粟邑。淡路嶋出浅邑。是二邑。汝任意居之。時ヒボコ啓之曰。臣将住処。若垂天恩。聴臣情願地者。臣親歴視諸国。則合于臣心欲被給。乃聴之。於是。日槍自菟道河泝之。北入近江国吾名邑、而暫住。復更自近江。経若狭国、西到但馬国、則定住処也。是以近江国鏡谷陶人。則日槍之従人也。故ヒボコ娶但馬国出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。清彦生田道間守也。 〉

垂仁天皇3年(紀元前31年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが謁見してきた。
持参してきた物は羽太(はふと)の玉を一つ、足高(あしたか)の玉を一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉を一つ、出石(いずし)の小刀を一つ、出石の桙(ほこ)を一つ、日鏡(ひかがみ)を一つ、熊の神籬(ひもろぎ)[*1]を一揃え、胆狭浅(いささ)の太刀合わせて八種類[*2]であった。

一説によると、ヒボコは船に泊まっていたが播磨国宍粟邑にいた。ヒボコの噂を聞いた天皇は、三輪君の祖先にあたる大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖先にあたる長尾市(ながおち)を遣わした。初めは、播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしたが、大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古(ちこ)に譲ってやって来ました。」

天皇はこれを受けて言った。「播磨国穴栗村(しそうむら)[*3]か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)[*4]に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、北に入り、近江国の吾名邑、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋(イズシ・出石)[*5]の人、太耳の娘で麻多烏(またお)を娶り、但馬諸助(もろすく)をもうけた。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。また清彦は田道間守(たじまもり)を生んだという。

阿加流比売神(アカルヒメノカミ)

阿加流比売神は、『古事記』では、以下のように記しています。

古事記 「昔、新羅の阿具奴摩、阿具沼(アグヌマ:大韓民国慶州市)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。

ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、ヒボコと出会った。天日槍は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。」

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国である倭国(日本)に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾(ヒメコソ)神社[*6]に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見(マエツミ)と結婚した。

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述があります。
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島(ヒメジマ)」と名附けた。
『日本書紀』では、アメノヒボコの渡来前に意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が渡来し、この説話の前半部分、阿加流比売神が日本に渡りそれを追いかける部分の主人公。都怒我阿羅斯等は3年後に帰国したとされています。

[註]

*1 神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
*2 八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られている。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられるという。
「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いもの。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれている。
*3 穴栗邑…兵庫県宍粟市
*4 出浅邑 (いでさのむら) 「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
*5 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。
*6 比売碁曾(ヒメコソ)神社 大阪市東成区にある式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社の論社の一つ。(もうひとつは高津宮摂社・比売古曽神社)下照比売命を主祭神とし、速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀する。ただし、江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社であった。

但馬国の成立

丹波国から但馬国、丹後国が分国した記録は、7世紀、丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。しかし、国名がみえる最も古い記録が天武天皇4年(675年)であって、その頃誕生したかどうかではない。

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)は天日槍命についてくわしい。
第六代孝安天皇の61年春2月、天日槍を以って、多遅摩国造と為す。
これが但馬国8郡全8巻中、県主の上に多遅摩国造が置かれた最初の記録となる。初代の多遅摩国造が天日槍である。第六代孝安天皇の実年は、BC392-291とすると、紀元前300年頃に但馬国が丹波国から分国されたことになるので、675年より約千年前である。

自ブログに「天日槍(あめのひぼこ)の謎」として載せています。

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