日本海沿岸部では最大規模の前方後円墳 網野銚子山古墳
網野町では、網野銚子山古墳があります。日本海に注ぐ二級河川福田川の下流右岸の丘陵にも連なる台地上に築かれています。築造時期は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)と推定され、日本海沿岸部の前方後円墳で最大の規模を誇ります。隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長100m) という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれることが多いです。
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 |
目 次 |
くわしくは出雲大社 http://www.izumooyashiro.or.jp/をご覧ください。
島根県出雲市大社町杵築東195
式内社(名神大) 出雲国一宮 旧社格は官幣大社
近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。
御祭神 「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」
古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評されました。もともとは杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていましたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称しました。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列しています。
出雲大社は「天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、所造天下大神宮(あめのしたつくらししおおかみのみや)、杵築大社(きずきのおおやしろ)ともいわれています。
祭神大国主命は「大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)」などの別名で呼ばれています。
わが国最古の神社建築を誇り、古来より伊勢神宮と並び称されてきました。神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。
「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。
「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。
巨大な注連縄
オオクニヌシノカミは、生きとし生けるものに生きる力を与える「母なる大地」的な神であるところから「縁結びの神」と讃えられています。
むかしから大地が秘めている生成の力を「ムスビ」という言葉であらわし「産霊」という文字をこれにあてています。この神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える「えにし」を結んでいただけるのです。
「オオクニヌシノカミほど多くの苦難を克服された神はない。人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。あの福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。」
縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。
【国宝】 本殿
陰暦の10月を神無(かんな)月という。全国の神々がみな出雲大社に集まり、国々では神さまが留守になるので、むかしから10月を神無月というのだという。そこで出雲では全国の神々が来られるからこの月を神有(在)月とよんでいる。この言葉は室町時代の辞書『下学集』に見えているので、かなり古くからこういう信仰が人々の間にはあったと思われ、また十月という文字を組みあわせると「有」という字になるというので、大社の古い手箱の散らし紋にも、亀甲紋の中に「有」の字が描かれている。
創建伝承
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られています。以下はその主なものでありますが、
古代本殿 島根県立古代出雲歴史博物館展示物
これは豊岡市久々久比(ククヒ)神社や鳥取部の伝承と同じです。
島根県立古代出雲歴史博物館展示物
現在の本殿は延享元年(1744年)に作られました。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさですが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられています。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。平安時代の「口遊」(源為憲著、天禄元年・970成立)には、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで「一番出雲大社、二番東大寺大仏、三番京太極殿」を意味し、その巨大性を示す有力な証となっています。
16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もありますが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ないそうです。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もあります。
平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まりました。
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くわしくは出雲大社 http://www.izumooyashiro.or.jp/をご覧ください。
島根県出雲市大社町杵築東195
式内社(名神大) 出雲国一宮 旧社格は官幣大社
近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。
御祭神 「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」
古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評されました。もともとは杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていましたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称しました。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列しています。
出雲大社は「天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、所造天下大神宮(あめのしたつくらししおおかみのみや)、杵築大社(きずきのおおやしろ)ともいわれています。
祭神大国主命は「大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)」などの別名で呼ばれています。
わが国最古の神社建築を誇り、古来より伊勢神宮と並び称されてきました。神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。
「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。
「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。
巨大な注連縄
オオクニヌシノカミは、生きとし生けるものに生きる力を与える「母なる大地」的な神であるところから「縁結びの神」と讃えられています。
むかしから大地が秘めている生成の力を「ムスビ」という言葉であらわし「産霊」という文字をこれにあてています。この神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える「えにし」を結んでいただけるのです。
「オオクニヌシノカミほど多くの苦難を克服された神はない。人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。あの福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。」
縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。
【国宝】 本殿
陰暦の10月を神無(かんな)月という。全国の神々がみな出雲大社に集まり、国々では神さまが留守になるので、むかしから10月を神無月というのだという。そこで出雲では全国の神々が来られるからこの月を神有(在)月とよんでいる。この言葉は室町時代の辞書『下学集』に見えているので、かなり古くからこういう信仰が人々の間にはあったと思われ、また十月という文字を組みあわせると「有」という字になるというので、大社の古い手箱の散らし紋にも、亀甲紋の中に「有」の字が描かれている。
創建伝承
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られています。以下はその主なものでありますが、
古代本殿 島根県立古代出雲歴史博物館展示物
これは豊岡市久々久比(ククヒ)神社や鳥取部の伝承と同じです。
島根県立古代出雲歴史博物館展示物
現在の本殿は延享元年(1744年)に作られました。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさですが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられています。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。平安時代の「口遊」(源為憲著、天禄元年・970成立)には、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで「一番出雲大社、二番東大寺大仏、三番京太極殿」を意味し、その巨大性を示す有力な証となっています。
16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もありますが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ないそうです。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もあります。
平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まりました。
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『古事記』『日本書紀』については「奈良時代」でくわしく書きますが、『古事記』が献上されたのは712(和銅4)年、『日本書紀』がその八年後の720(養老4)年です。大化改新以来の新たな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。しかし、『古事記』と『日本書紀』との関係には分からない点が多く、たとえば、『日本書紀』に『古事記』編纂の記録が残っていないなど、多くの謎があります。江戸時代に『古事記』を解明してその功績が今に残る本居宣長は『日本書紀』を漢意の書として中国風の思惟の影響を受けたものとして低く見ています。「日本」という呼称自体が他者(中国大陸)を意識したものであることをその理由の一つとしますが、『古事記』よりも八年も後に編纂されたにも関わらず、時代に逆行するように漢文体の表記であり、明らかに中国の人々が読みやすいように対外的に工夫したねらいが感じ取れます。『記紀』とは違う出雲神話
それに対して『古事記』は変体漢文(漢字の意味を借りてやまと言葉として分かりやすいように表記する方法)で書かれ、文字を持たない段階で、ことばの意味を残そうとしているとみえます。死のとらえ方や、他界、生と死、いわば人生のとらえ方という問題にも関わっているようです。大らかな日本人の生き方を見るという見方は、自己意識の発生の場面で、大きく異なる二つの書物をもったことはその後の思想史に大きな意味を持つことになったのは確かです。
高天原(たかまがはら)の神の降臨から、突然のように話が飛び、この国土はすでにオオクニヌシ(大国主)のものであり、そうなった経緯が描かれています。高天原のアマテラスはその葦原中国(あしはらのなかつくに)を支配することを望んで、使者を送り、服属を促します。何度かの失敗のあと、オオクニヌシは国を譲ることに同意しますが、同意しない二人の息子と天つ神との戦いのあと、結局は天孫ニニギノミコトが天降り、国土の支配者となります。後の天皇はアマテラスの血縁的な直系であることをしめしています。国土としての葦原中国の安定までの過程が、天上的なものと地上的なものとの二重の起源をもつとされ、津田左右吉は「政治的作為が痕跡として残っている」といっています。
以上のように、冒頭の神話は、この国土の支配者はだれかという神話的説明となっています。このあとは、海彦山彦神話、されに続いてアマテラスの子孫の、海の族との親密な関係が神話として語られます。
『古事記』には、高天原、葦原中国にかぎらず、さまざまな異なる世界が描かれています。そこには多様な対称軸が見られます。高天原、中国(なかつくに)、根の国を上中下の三層構造と見る見方があります。しかし、それ以外の他界も描かれています。『古事記』は、現実を複層的にとらえる神話的思想を根底に、秩序の生成が同時に反秩序によって支えられていることをしめしています。最も奥にある神が何者であるかは明らかにされていません。
なぜか『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても、官人に教養として記憶されています。『古事記』と『日本書紀』とはその叙述の仕方に大きな差がみられます。『古事記』は本文が一つの主題で貫かれていますが、『日本書紀』の神代の部分は、筋をもった本文を掲げてはいますが、それに続き複数の異なる伝承を「一書曰く」として並列して掲げています。そのなかには『古事記』に一致するものもあれば、そうでないものもあります。記紀神話といってもそれぞれの神話は、その叙述態度・様相がかなり異にしています。『古事記』の八年後に複数の異なる伝承を「一書曰く」」として並列しているのは、どうも『古事記』に掲げられた内容には異論や諸説があることが各国に命じた『風土記』の提出によって分かってきて、各地に残された神話の部分を並列することで国同士の言い分に収拾をつけようとしたのではないかと、そう勝手に想像します。そうであれば、大和朝廷の権威は中央集権国家とはいいつつも、絶対君主的なものでもないように思います。
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天平5年成立時出雲国風土記 上(R)/島根県立古代出雲歴史博物館
『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもので、おそらくは『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものと思われます。国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。
『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、
が挙げられています。
完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。
風土記は60の国々にその由来や地名、産物などを朝廷に報告させるために国司に命じて記されたものですが、現存しているわずか5つの風土記の中でも、出雲風土記だけが写本の際に省かれたりせず唯一完全な状態で記録が残っています。現存する写本は70種程ありますが、その中で最も古いと考えられるのは慶長2年(1597年)に細川幽斎が書写したとされるもの(通称:細川本)です。また倉野憲司が所蔵していた写本(通称:倉野本)も、奥付を欠いてはいますがほぼ同時期に書写されたと考えられています。尾張徳川家により寄進されたと伝えられる日御碕神社所蔵の写本(寛永11年(1634年)書写、通称:日御碕本)は島根県の文化財に指定されています。
その中で、すでに出雲が朝鮮半島の百済や北陸の越の国と交易していたと記されています。また、青森県三内丸山遺跡で、富山県の糸魚川で採れるものとされる黒曜石[*1]の飾り物が見つかりました。
ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになったスサノオノミコトの孫の孫、つまりスサノオノミコトから数えて6代目にオオクニヌシノカミが誕生しました。
たくさんの兄弟の末っ子としてオオクニヌシは出雲に生まれ、出雲に育ちましたが、何かにつけてお兄さんたちからいじわるな仕打ちを受けていました。 しかし、そんな兄たちのいじめにも負けず、オオクニヌシは心やさしき神として成長していきました。-隠岐の島にいた白ウサギは、なんとかして向こう岸に渡りたいと思って、海岸にいたサメに、自分の仲間とサメの仲間とどちらが多いか比べてみようと声をかけ、向こう岸までサメを並ばせました。そして、サメの数を数えるふりをして背中を渡って行ったのです。あと少しで岸に着くというときになって、白ウサギも油断したのでしょう。 サメをだましたことをしゃべってしまいサメにつかまって、全身の皮をすっかりはがされてしまいます。
これは、隠岐の島を治めていた白兎に例えられる豪族が、因幡を攻めようとして失敗し、オオクニヌシが助けて隠岐の島を穏やかに平定したのち、プロポーズした兄たちには見向きもせず、オオクニヌシノカミを夫に選んだ因幡の八上比売(やかみひめ)はウサギが予言したとおりオオクニヌシはヤガミヒメを得ます。これは隠岐の豪族が穏やかに因幡にオオクニヌシと協力せよと伝え、隠岐・因幡を平定したということではないでしょうか。
「八束水臣津野命」(やつかみずおみつぬのみこと、以下、ヤツカミズオミツヌ)が、「新羅」と「北門」や「越」の岬から引っ張ってきた土地によって、小さな「出雲」が大きく縫い広められたといいます。これらの国は高句麗族の支配していた土地なのでした。
この後、さらに東出雲地方から、「越」まで軍を進め、高句麗族を制圧したスサノオ(実は、オオナムチ命を軍師に任命している)は、故郷である南朝鮮の鉄資源を求めて、渡航していったのだと思います。スサノオの武勇は、海を渡り朝鮮半島にまで、伝わっていたことでしょう。
スサノオ族を、日本列島に追いやった、朝鮮半島の高句麗族は、大した抵抗もみせずに分散していったのでしょう。こうして、北九州から「越」にかけてと、朝鮮南部との日本海文化圏を形成していったのだろうと思われます。
国引き神話は、出雲国に伝わる神話の一つです。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれています。なぜその部分を省いて記されなかったのか分かりませんが、オオクニヌシに国を譲らせたことはしっかりと記します。
出雲の神様、ヤツカミヅオミヅヌノミコト(八束水臣津野命)は
「この国は幅の狭い若い国だ。 初めに小さくつくりすぎた。 縫い合わせてもう少し大きな国にしよう」
と他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうと言いました。
そこで、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、「朝鮮半島の新羅の岬を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が小津(こづ)の切れ目からの支豆支の御埼(きづきのみさき)[*1]で、引いてきた綱が薗の長浜、そして綱の杭にしたのが三瓶山です。
次に、「北方の佐伎の国(さきのくに)[*2]を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が多久川の切れ目からの狭田の国(さだのくに)です。
その次に、「北方の良波の国(よなみのくに)[*3]を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。その土地が宇波(うなみ)の切れ目からの闇見の国(くらみのくに)です。
最後に、「北陸の都都(つつ)の岬[*4]を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が三穂の埼(みほのさき)で、引いてきた綱が弓ヶ浜半島、そして綱の杭にしたのが大山です。
4度の国引きで大事業を終えたヤツカミヅオミヅヌノミコトは、「おゑ」という叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し、意宇(おう)の杜になりました。そのときからこの地を「意宇(おう)」と呼ぶようになりました。
こうしてできたのが現在の島根半島であるといいます。
オオクニヌシノカミは、にぎやかになった出雲で、高天原(たかまがはら)から降りて来たスクナヒコナノミコトとともに、国づくりに励みました。 山に植林したり、堤防をつくったり、橋を架けたりと、人々が住みやすい国にしていったのです。 また、馬や牛も増え、アワもよく実るようになり、出雲は豊かな国へと発展していきました。
[*1]杵築崎(きづきざき)、出雲市大社町日御碕
[*2]佐伎の国(さきのくに)…宍道湖北側平田市付近とされる
[*3]東は松江市手角町から、西は 松江市鹿島町東部とされる
[*4]北陸の都都(つつ)…能登半島珠洲とされる
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高天原を追放されたスサノヲは流浪の果てに、出雲において大蛇を退治し、須賀の宮におさまって妻を求める歌をうたいます。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」
出雲地方の伝承的な歌謡であったこの歌が、『古事記』の中で最初に掲げられた歌です。
『古事記』上巻には、このスサノヲの物語に続いてオオクニヌシ(大国主神)神話が続きます。オオクニヌシの事跡の出雲との関係や出雲大社との関連から、出雲系神話といわれ、また登場する神々を出雲系の神々とよびます。
この部分は、すでにオオクニヌシの支配していたこの国土が、天下ってきた高天原の神の支配に交替するという劇的な構成から、大和朝廷に拮抗ないし対立する出雲での権力の存在を示す物語であるというような歴史的事実と結びつけた見解などさまざまに論じられる物語となっています。上巻特有のごつごつした違和感に満ちた世界が展開すると同時に、他方で人間の「情」のありように通じるもの、たとえば後世なら「仁」や「愛」あるいは「やさしさ」といったことばで本来表現されるべき事柄が描かれてもいます。オオクニヌシの物語は、前半と後半では趣が異なります。前半は美しい因幡のヤガミヒメを獲得しようと旅立つ兄たちのあとに荷を背負って追うさえない神でした。白ウサギにやさしさを施すとウサギの予言通り姫を得ることになります。しかし、兄弟神の怒りを買い、試練にたたされ死に追いやられます。そのたびに彼は母神やカミムスビや貝の女神たちなどの力で復活しますが、最後には迫害を避けるため、母神の配慮で根の国のスサノヲのもとにおくられます。そこでもスサノヲに試練を与えられますが、恋仲となったスサノヲの娘スセリビメの助けを得て脱出し、スベリビメと手を携え呪術能力を得てこの世に帰還します。迫害した兄弟神たちを退治し、支配者となります。
支配者としてのオオクニヌシは、国作りを単独では行えず、スクナビコナ(小彦名神)という海の向こうから渡ってきた小身の神の協力を得て、支配します。後にスクナビコナは海の向こうに去り、、オオクニヌシは国土の未完であることを嘆きます。
さて、このオオクニヌシは多くの神話的神の重ね絵とされます。事実、物語の展開のなかでその呼称を何度か変えます。『日本書紀』では、人々に「恩頼(みたまのふゆ)」を与えたと簡潔に書かれています。他方『古事記』では、複雑ですが民衆的なレベルでの神、あるいは支配者の理想像という古層をとくによく伝えているといえるでしょう。
しかし、オオクニヌシ神話は国土の完成のあとは一転して、色好みのこの神の女性遍歴と、妻であるスセリビメの嫉妬と、二人の和解の物語となります。
このように、出雲系の神話は、その政治性とは別に、その叙情性において、『風土記』にも登場するオオクニヌシの姿には、民衆に「恩頼(みたまのふゆ)」をほどこした神として、支配ないし支配者によせる集団的な願望のようなものが込められているともいえます。出雲系とくに、オオクニヌシ神話は、その後高天原の神に国の支配を譲るという形で書かれ、天皇の物語のなかで、重要な位置を占めます。政治神話と異なる側面をみせるのが、この神話の後半の愛の遍歴の部分です。そこでは濃厚に歌謡が情の世界と関わり、神の世界から、人間の情の描写へとの橋渡しの意味を持った部分を形成しています。
大国主の神話では、スサノオの子孫であるオオナムヂが、根の国のスサノオの家までやって来ると、スサノオの娘であるスセリビメに一目惚れするが、スサノオはオオナムヂに様々な試練を与える。オオナムヂはそれを克服し、スサノオはオオナムヂがスセリビメを妻とすることを認め、オオナムヂに大国主という名を贈った。
『古事記』ではヌナカワヒメへの妻問いの話とされている。正妻であるスサノオの娘のスセリビメについては、記述がない。オオナムヂは、スサノオの後にスクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など、一寸法師のモデルとも、他多数。)と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させます。国土を天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となります。『古事記』によれば、オホクニヌシの国土造成に際し、アメノカガミノフネに乗って波間より来訪したスクナビコナが、オホナムヂの命によって葦原中国の国づくりに参加しました。『古事記』では、「越八口(オロチ)」を退治したのはスサノヲとなっていますが、『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には「越八口(オロチ)」をオホナムヂ(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとあります。大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。
また、「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透している。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。大国主を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)で、他に大神神社(奈良県桜井市)、気多大社(石川県羽咋市)、気多本宮(同七尾市)、大國魂神社(東京都府中市)のほか、全国の出雲神社で祀られています。大嘗祭(天皇が即位後、最初に行う新嘗祭)の時、物部氏が宮門の威儀に立ち、大楯を楯、弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行い、悪霊を追放する役目を務めました。この呪術にたけ、部門の棟梁であった物部氏が、のちの“モノノフ=武士”の原型でもあるといいます。スサノオの後に少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させます。国土を天孫・瓊瓊杵尊に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となります。因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に大きく記載されています。『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には「越八口(オロチ)」を大穴持(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとある。
山陰はもともと出雲の大国主命が開いた国でありました。
大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。
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『出雲国風土記』では、国引き神話のヤツカミズオミツヌこそ、出雲国の名付け神になっている。それは、ヤツカミズオミツヌが、この地を「八雲立つ出雲」と呼んだから、というものであるが、和歌こそ詠んでないものの『古事記』に記されたスサノオのそれと、まったく同じ内容である。ヤツカミズオミツヌは『古事記』こそ、スサノオの四世孫としているが、案外、スサノオの別名ではなかろうか。
それはスサノオの「出雲」における呼称なのかも知れない。
『古事記』によれば、オオナムチはスサノオから、生大刀、生弓矢、玉飾りのついた琴を奪って逃げ、スサノオは、それを許している。これは、オオナムチを、軍師に命じたことに他ならない。この時スサノオは、50歳にさしかかってしたと思う。オオナムチが軍師になれたのは、スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)が、オオナムチに惚れてしまったという、『古事記』の記述を信用するしかないが、以外にも、本当なのかも知れない。いずれにしても、スサノオの後押しがなければ、不可能な話であろう。
軍師であるからには、スサノオの率いて来た、「物部」の大軍を自由に使ってもいいわけだ。オオナムチは、「越」の八口を討ったと、『出雲国風土記』は記している。この記述が、「越」の高句麗族の最後の時だ。
これにより「出雲」・「越」とも平定され、スサノオは、その後、南朝鮮に渡り、先に述べたとおり、南朝鮮を含めた日本海文化圏を、形成していくのである。
この文化圏は、鉄資源を元手にした通商連合であった。貿易を生業としていたのである。
通商を生業とした、早い話が商売人は、江戸時代の堺衆がそうであったように、何者にも屈しない、強い結束力を備えていたのであるが、一度、メリットが無くなれば簡単に崩壊してしまう。
オオナムチは、スサノオの後押しもあって、最大の貿易相手である「少彦名命」(すくなひこなのみこと、おそらく朝鮮半島の「昔」《すく》姓の一族。以下、スクナヒコナ)と、共同して貿易に携わり、国土経営をしていたのであるが、そのスクナヒコナは、常世の国に行ってしまう。すなわち、死んだのである。
この結果、オオナムチは、スポンサーを失ってしまうこととなった。
オオナムチは、『古事記』によれば様々な地方の女性を妻にしている。
スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)を始め、「因幡」の「八上姫」(やがみひめ)、「越」の「沼川姫」(ぬまかわひめ)、「宗像」の「多紀理姫」(たぎりひめ)、「鳥取」の「鳥取神」(ととりかみ)、「神屋楯姫」(かむやたてひめ)がそうである。
これらの女性出身地からみても、海を通じた交流の様子が窺い知れる。
「神屋楯姫」の出身地は明記されていないが、オオナムチの地元、「意宇国」であろうか。
この頃の、オオナムチの勢力範囲は、「大和」までに拡大していたらしい。
『古事記』には、「出雲」から「大和」(倭国)にオオクニヌシが、出張していく様子が記されている。このことは、「須勢理姫」との歌のやりとりとともに記されているのだが、「須整理姫」が、オオクニヌシに対して「八千矛神」と呼びかけているので、「大和」を勢力範囲にしたのは、スサノオだったのかも知れない。「八千矛神」とは、神社伝承学によれば、スサノオのことであった。
「昔」姓の「少彦名命」が亡くなることにより、スポンサーを失ってしまったオオナムチは、南朝鮮の資金源(鉄資源)を、絶たれてしまう可能性があった。もともと、南朝鮮の鉄資源は、スサノオ族が押さえていたのだが、その後、高句麗族に奪われた。スサノオは、「統一奴国」を成し遂げ、高句麗族を追放することにより、再び南朝鮮の鉄資源を奪取した、と推測している。その地盤をオオナムチが受け継いでいたのであるが、「昔」族は、スサノオ族と同郷であろう。「昔」族もスサノオ族もともに、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと、以下、タカミムスビ)を、崇める一族であったのである。
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今日では、意図的な改変や創作がかなり加えられてはいるものの、そのようなものの見方をする古代の人たちがいたことに注目する文化的背景を考察する考え方が主流となっています。
『記紀』には、有名な「イザナギとイザナミ」「スサノオ」「ヤマタノオロチ」「国造り」「国譲り」「因幡の白うさぎ」など、出雲神話が多く占めています。
スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する一柱の神です。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記されています。
『古事記』では三貴子の末子に当たります。また、日本においてはインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)と素戔嗚尊(以下スサノオ)と習合し同一視されることもあります。しかしながら、スサノオの与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらすおおみかみ)、月を神格化した月夜見尊(つくよみのにこと)とは少々異なっており、議論の的となっています。
『古事記』によれば、神産みにおいてイザナギが黄泉の国(よみのくに)から帰還し、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊(みそぎ)を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする。『日本書紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。
天照大神は高天原を、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、スサノオには夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神イザナミのいる根の国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。そこでスサノオは根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神はスサノオが高天原に攻め入って来たのではと考えて武装してスサノオに応対し、スサノオは疑いを解くために誓約を行う。誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノオは高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。そのため、スサノオは高天原を追放されて葦原中国へ降った。
3.スサノオの神社 |
■スサノオ系図 伊邪那美命〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓伊邪那岐命●両神で (いざなみのみこと) ┃ (いざなきのみこと)伊弉諾神宮 ┃ [三貴神] ┃ 多賀神社/白山比咩神社 ┃ ┏━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┓ 綿津見大神 大山津見神 須佐之男命 月読命 天照大御神 (わたつみのおおかみ)(おおやまつみのかみ)(すさのおのみこと)(つくよみのみこと)(あまてらすおおみかみ) 海を支配 月の神、夜を支配 日の神、高天原を支配 ●須佐神社/八重垣神社 ●伊勢神宮(皇大神宮) 氷川神社/八坂神社/日御碕神社など ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 須佐之男命=誓約=天照大御神 ┗━宗像三神(田心姫神・湍津姫神・市杵島姫命)●宗像神社/厳島神社 別名:多紀理毘売命・多岐都比売命・狭依毘売 足名椎=手名椎 『古事記』 須佐之男命===┳==櫛名田比売(クシナダヒメ) ┃ 八島士奴美神 大山津見神 ┃ ===┳==神大市比売命┫ ┣大歳神 ┃ ┗宇迦之御魂神 ┃ ┃ 木花知流比売命===┳=八島士奴美神 ┃ 布波母遅久須奴神==日河比売命 ┃ 深淵之水夜礼花神 大国主命(記)=┳=八上比売命(因幡国) ┃ 木股神 ===沼河比売命(高志国) =┳=多紀理毘売命 ┗━アヂスキタカヒコネ(賀茂大神)・タカヒメ(シタテルヒメ) =┳=カムヤタテヒメ ┗━事代主命●美保神社 =┳=鳥取比売(トトリヒメ) ┗━トリナルミ 『日本書紀』 須佐之男命 [紀三神]●伊太祁曽神社 ┣大屋津姫命(オオヤツヒメ)三神●大屋津媛神社 ┣五十猛神(紀) ┗抓津姫命(ツマツヒメ)(紀) ┣━ ━天之冬衣命━ = 須勢理毘売命(記) ┃ 大己貴命┃●三島神社/長田神社 大物主命 ┃ ┗━大己貴命(紀) ●出雲大社/大神神社/氷川神社 日吉神社/気多大社/伊和神社 大洗磯前神社/低鹿神社 等 [伝承] 大国主命=┳=沼河比売命(高志国) ┗建御名方命●諏訪神社 雲国一の宮熊野大社 熊野大神櫛御気野命の御神名は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別神名である。 須佐神社(すさじんじゃ) 通称 須佐大宮 御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)稲田比売命(いなたひめのみこと)、足摩槌命(あしなづちのみこと)、手摩槌命(てなづちのみこと) 須我神社(すがじんじゃ) 通称 日本初宮(にほんはつのみや) 簸の川上に於いて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、稲田姫と共にこの須賀の地に至り、美しい雲の立ち昇るのを見て、「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる この八重垣を」と歌い、日本で始めての宮殿を作り、鎮った。 天照大神の弟神。簸の川上にて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、 日御碕神社(ひのみさきじんじゃ) 神の宮(かみのみや) 素盞嗚尊(すさのおのみこと) 出雲の国造りをなされた素盞嗚尊は、根の国にわたり熊成の峰に登ると「吾の神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と仰せられ、柏の葉を投げ、占いをされた。すると柏の葉は風に舞い、やがて日御碕の現社地背後の「隠ヶ丘」に止った。これにより素盞嗚尊の五世の孫、天葺根命(あめのふきねのみこと)はここを素盞嗚尊の神魂の鎮まる処として斎き祀ったといわれています。日御碕神社の神紋、三ツ柏もこれに由来し、神域の付近からは柏の葉を印した「神紋石(ごもんせき)」と称される化石も出土しています。 3.イザナギとイザナミ世界の最初に高天原[*1]で、別天津神・神世七代という神々が生まれた。 これにおののいたイザナギは逃げた。イザナギは、黄泉のケガレを嫌って、禊をした。この時も、様々な神々が生まれた。左目を洗った時に生まれた神がアマテラス(日の神、高天原を支配)[*3]・右目を洗った時にツクヨミ(月の神、夜を支配)[*4]・鼻を洗った時にスサノオ(海原を支配)が成り、この三柱の神は三貴子(みはしらのうずのみこ)[*5]と呼ばれ、イザナギによって世界の支配を命じられた。 4.アマテラスとスサノオスサノオ[*6]は、イザナミのいる根の国へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。そして、アマテラスの治める高天原へと登っていく。アマテラスは、スサノオが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えて、スサノオを迎えた。スサノオは、アマテラスの疑いを解くために、各の身につけている物などで子(神)を産みその性別によりスサノオは身の潔白を証明した。これによりアマテラスはスサノオを許したが、スサノオが高天原で乱暴を働いたため、アマテラスは、天岩戸に隠れた。日の神であるアマテラスが隠れてしまったために、太陽が出なくなってしまい、神々は困った。そこで、計略でアマテラスを天岩戸から出した。スサノオは、下界(葦原中国)に追放された。 5.ヤマタノオロチスサノオは、出雲の国の肥河(斐伊川)の上流の鳥髪(とりかみ、現奥出雲町鳥上)に降り立った。川上から箸が流れてきたので、川上に人がいると思って川を上ってみると老夫婦が泣いていた。その夫婦はオオヤマツミの子のアシナヅチとテナヅチであった。夫婦には8人の娘がいたが、毎年古志[*7]からヤマタノオロチ[*8]がやって来て娘を食べてしまった。今年もオロチのやって来る時期が近付き、このままでは最後に残った末娘のクシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)も食べられてしまうので、泣いているのであった。スサノオは、クシナダヒメを妻として貰い受けることを条件に、ヤマタノオロチ退治を請け負った。 オロチは8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。オロチが酔ってその場で寝てしまうと、スサノオは十拳剣(とつかのつるぎ)[*9]を抜いてオロチを切り刻んだ。尾を切り刻んだとき、剣の刃が欠けた。剣で尾を裂いてみると大刀が出てきた。これは不思議なものだと思い、アマテラス(天照大神)にこの大刀を献上した。これが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)[*10]のちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。 スサノオは、八岐大蛇に食われることになっていた国津神の娘クシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)を助け妻とする。宮殿を作る地を探して出雲の須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。そこで 「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」[*11]と詠んだ。その地で大国主命(『日本書紀』では大已貴神(おおあなむちのかみ)、『古事記』では大国主命はスサノオの6代後の子孫としている)などを産ませ、その後、根の国へ向かったと言う。 『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書では、天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(イソタケル)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った。八岐大蛇を退治した。そのとき五十猛神が天から持ち帰った木々の種を、韓(から、朝鮮)の地には植えず、大八洲(おおやしま、本州のこと)に植えたので、大八州は山の地になったと言う。 アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も大国主の為の宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束する。この宮殿は後の出雲大社である。 6.ヤマタノオロチの解明オロチ[*8]は水を支配する竜神を、クシナダヒメは稲田を表しているとみられています。すなわち、毎年娘をさらうのは河川の氾濫の象徴であり、それが退治されたことは、治水を表しているとする。また大蛇が毎年娘をさらって行ったということは、神に対して一人の処女が生贄としてささげられていたということであり、その野蛮な風習を廃しえたことも表しています。あるいはこの当時、出雲国は実際に越国(高志・北陸地方)[*7]との交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の地名説話において「越の八口」を平定したと記されており、これがこの神話の原型ではないかという説もある。高志=越とみる向きには、福井県に『高志(こし)』『九頭竜(くずりゅう)』という名称や地名が残っていることが挙げられる(例:高志高校、九頭竜川など)。 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)[*10]は、出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされています。してみると天叢雲剣は鉄製であり、十拳剣(とつかのつるぎ)が天叢雲剣に当たって欠けたということは、対する十拳剣は青銅製であったことを類推させる。十束剣は日本神話に登場する剣。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されます。 様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされます。当時としては最先端の技術であった製鉄、またはその結晶である鉄剣を「アマテラスに献上した」というのは、その頃の出雲と大和の関係を推し量る上で興味深いエピソードであると言える。 また、オロチの腹が血でただれているのは、砂鉄(あるいは鉱毒)で川が濁った様子を表しているとする説もある。また、たたら吹きには大量の木炭を必要とするため、川の上流の木が伐採しつくされた結果洪水が起きたことを象徴しているともされます。 古志が越国(北陸地方)であるとする説は、この当時、出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、越国を平定しています。 『出雲風土記』の大原郡神原郷に、「神原郷 郡家正北九里。古老傳云「所造天下大神之 御財 積置給 處」。則、可レ謂「神財郷」。而、今人 猶 誤 云「神原郷」耳」とあります。 これを、「神原の郷は、郡家の正北九里。古老の伝えに云うには、天の下 造らしし大神(スサノオ)の御財を積置き給いし処なり。即ち神財郷(かむたからのさと)と云うべし。今の人は誤って聞き神原郷(かむはらのさと)と云う」と。本来は神財郷(かむたからのさと)と呼んでいたことになります。 長男・八島野尊や部下の豪族らは、スサノオの遺骸を熊野山に埋葬し、建国の偉業を偲んで祭祀を始めた(須我神社・雲南市大東町須賀)とみられ、近くの加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町)や荒神谷遺跡(島根県簸川郡斐川町)から出土した紀元前2世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣・銅矛は、まさにスサノオ祭祀の遺物とも考えられます。荒神谷遺跡の小字名は神庭(カンバ)。荒神谷とは荒ぶる神、すなわちスサノオのことで、字神庭というのもスサノオを祭祀する場所をさしているものではないでしょうか。 天平五(733)年に撰録された出雲風土記は、すでに荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになります。 [註]
2.高句麗(こうくり)と「越」高句麗(こうくり、紀元前37年頃 – 668年)は扶余系民族による国家であり、最盛期は中国大陸東北部(満州南部)から朝鮮半島の大部分を領土としていました。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。唐と新羅の連合軍により滅ぼされました。『三国史記』高句麗本紀・始祖東明王紀には、高句麗の王族の姓を「高」(こう/コ)としています。「高志」と書いたのもつながりが読みとれます。後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられます。起源は中国の古墳壁画に求められますが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されています。百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する高句麗の日本語での古名は「こま」です。 『記紀』には、「越」の中心地である能登半島に、「高句麗国」の使節が、いつも到着するところであったとも記しています。この頃の「高句麗国」は、建国後約70年経過しており、国力も充分で時の勢いもありました。「高句麗」は、「こうくり」と発音されますが、実際には、「コーリ」であり、「やっぱり」が、「やっぱし」になるように、「り」は、簡単に「し」と音韻変化することから、ヤマタノオロチの「オロチ」とは「高句麗」の人・高句麗族のことをさすという説もあります。 もともと、スサノオ族は、牛頭山を聖山として、「高木の神」を崇めていた「伽耶」の製鉄集団の支配階級でした。これに関しては、後述しますが、朝鮮半島を南下してくる高句麗族の勢力に押され、日本列島に亡命して来たのですが、高句麗族は、既に、日本列島まで達していたのです。 しかも、すでに「越」から「出雲」に至る地方を支配していたのです。 つまり、「越」(新潟県)からきた高句麗族が、「出雲」の斐伊川の水利のよい平野で、稲作に従事していた人々から、毎年、収穫されたばかりの稲を、奪っていく暴挙が、七年もの間続いていたと言うのです。 朴氏は、稲作に従事していた人々を「伽耶」の人であると述べていますが、もしそうであれば、スサノオ族とほとんど同じ時期に朝鮮半島から来た渡来者の別集団であるとも考えられます。 スサノオ族は、南下する高句麗族の迫害から逃れるための日本列島への亡命であったでしょうが、出雲地方にも同民族が、同じ理由で亡命していたと考えることもできます。スサノオの「出雲」進出も、鉄資源の確保とともに増加する「統一奴国」の人口に対応するため、肥沃な耕作地帯を開拓する目的があったと思われます。結局は、戦争をしかけていったのでしょう。 毎年、「越」の高句麗族に悩まされ、支配され続けてきた、「出雲」の人々にとってみれば、「物部」の大軍を率いて九州北部からやってきた若きスサノオの姿に、怖れを抱きながらも、ついには、高句麗族追放のためにともに戦う決心をしたのではないでしょうか。 「出雲」の人々は、航海術に長け「統一奴国」を成し遂げたスサノオの敵にまわることはせず、スサノオと「出雲」は、同化されていったのではないでしょうか。ここで、両者は取引に応じました。スサノオに「出雲」の統治権を約束する代わりに、高句麗族を討つことです。取引に応じたスサノオは、その年の秋、何も知らない高志の高句麗族を迎え撃ち、西出雲を支配下に治めたのです。それがヤマタノオロチ退治で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)こと天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、高句麗族からの戦利品ではないでしょうか。 スサノオの讃え名は「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと) と言い、現在は、島根県八雲村の「熊野神社」に祀られています。「出雲」の神と言えば、出雲大社の「大国主命」(おおくにぬしのみこと、以下、オオクニヌシ)を連想しますが、「出雲国」で、もっとも尊い神と言えば、「大穴持命」(おおなむちのみこと、以下、オオナムチ)と「熊野加武呂乃命」(くまのかむろぎのみこと)なのです。 |
目 次 |
出雲を語る上でます、『出雲風土記』や『記紀』に登場するヤマタノオロチで有名なスサノオ(素戔嗚尊)です。
黒岩重吾氏は、出雲の東西の争いが『日本書紀』崇神紀にある、出雲振根と飯入根の兄弟の争う話に結晶したと述べています。
荒神谷遺跡から出土した銅鉾は、九州佐賀のケンミ谷遺跡から出ている銅鉾と同じものです。したがって、西部の王は九州北部と交流があったと考えていいとしています。要するに、西の荒神谷周辺の王「振根」と、東の安来の王「飯入根、甘美韓日狭」との闘争です。出雲振根はスサノオの原型で、近畿や吉備勢力に味方して、東の意宇(おう)から出雲を統一したと思われる甘美韓日狭(うましからひさ)らがオオクニヌシであると考えてもそんなに不自然ではないといいます。
弥生後期、吉備と近畿地方とは密接な関係にありましたが、出雲進出は吉備独自の判断だったのかも知れません。吉備津彦は吉備国の王で、ヤマトと同名を結んでいたとは思われますが、『日本書紀』のように、吉備津彦が崇神の命を受けて出雲を討ったとなると、“初めにヤマトありき”となってしまいます。崇神の命で出雲に向かったというのは創作でしょう。
さて、黒岩重吾氏は、問題なのは、出雲を支配していた振根=スサノオ、甘美韓日狭=大国主の王一族の出自です。
ヒトデのような特異な形の四隅突出型方墳は出雲独特で、倭人が手がけたとはどうにも思えない、高句麗の将軍塚古墳、新羅の土廣墓にも四隅が突出した墳墓がありますが、弥生前期に高句麗から出雲へ渡ってきた一族かも知れない。
スサノオ神話でも、斐伊川上流へ新羅から天降ったという点です。振根、飯入根らの出雲一族も、渡来系が渡来系と婚姻関係を結んだ一族の可能性がある。わざわざスサノオを新羅から天降ったとしない、といいます。
もちろん、秦から徐福が渡来してきたのと同様に、スサノオが一人で渡来したわけではなく、一族(スサノオ族とする)による集団渡来であったはずである。渡来した原因は、日本海側の鉄資源を求めての渡来であったのかも知れないが、朝鮮半島を南下してくる高句麗族に、抵抗しきれなくなったのが最大の原因だと考えられる。
東シナ海を船に乗って、たどり着く地と言えば海流に乗って、済州(チェジュ)島・壱岐・対馬を経て、まず九州北部のどこかへ落ち着いたとするのが自然でしょう。
『魏志東夷伝』をみると、紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部は、三韓といわれる「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」に分かれており、その弁韓は12国に分かれており、後に伽耶(任那)となる南朝鮮では鉄の一大産地であり、「倭」や「楽浪郡」などもこの地で鉄を求めていたようです。スサノオ一族は、南朝鮮にいて製鉄に従事していた一族であり、支配階級であったのでしょう。
スサノオ一族の文明は、魏(中国)の影響を受け、その当時の日本列島の文明よりも発達していたことは間違いなく、農業・漁業・航海術に長けていたスサノオ一族が、ようやく計画的な稲作もはじめかけていたものの、漁労や狩猟中心で暮らしてきた九州の土着の勢力らを包括していくには、そう時間のかかることではなかったと思われます。
当時の日本列島の文明よりも、発達していた朝鮮半島の、農業・漁業・製鉄・航海術に長けていたスサノオ一族が、九州北部や出雲の豪族間との合議・融合によって連合体としてクニ連合を形成していったのではないでしょうか。もし、武力鎮圧によって隷属的に支配下においたのならば、必ずや中国の歴史のように、王が変わると、日本列島へ逃亡・離散するような歴史が残っているはずだからです。
1世紀ころ、百余国もあった日本列島の国(といっても西日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国」が、徐々に頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。
スサノオ尊の建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。
スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だった。
南九州では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いた。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させた。
政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみられる。
スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られている。神のなかの祖神(おやがみ)である。
大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られた。
当時の天皇は、記紀に
中国の史書・宋史の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、素戔嗚尊(須佐之男尊)を国王としてはっきりと記している。
ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。
そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。
『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神「素戔嗚尊」(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、これは、どういうわけなのでしょうか。
「命」・「尊」と書いて、ともに「みこと」と読みます。『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ
以外は、「命」と明確に区別しています。『日本書紀』自らが、そう注釈しているのだから間違いはありません。
『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。
原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。
それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。
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つまり、ここですぐ想像できるのは斐伊川支流の荒神谷(簸川郡斐川町)で発見された358本もの大量の銅剣や銅鐸・銅矛です。
荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土した組合わせは、これまでに例のないものでした。しかも、358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。
これらは、九州「奴国」を統一した王スサノオは、九州地方の政情が安定したのをみて、出雲まで進んできて、スサノオがオオムナチ(大己貴尊・大穴牟遲命)とムカツヒメ(向津姫)に後を托し、故郷・出雲に帰り、紀元前124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられます。オオムナチは出雲の大国主となって出雲の統治を任された。ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神・須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られ、社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている(AD2004年現在)といいます。
資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけた。越・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し出雲神政国家連合を創建した。国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略とした。
邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。
例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘があるそうです。「弥生」、「神無月」など旧暦の名称や、和歌[*1]、相撲の起源などもここに求められるという説もあります。
ただし、宗教でまとめ上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしています。
現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆(ほうき)国と考えるのが妥当であり、出雲国府跡が松江市大草町であることからも、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされています。その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造(くにのみやつこ)家は現松江市東部にあり、その本幹である出雲大社を中心に宗教的活動を行いました。
神話に登場する国譲り神話は、この国造家がその権威を大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡(おうぐん)の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の出雲市大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となった経緯を神話として今に伝えていると考えられています。
神政合議政体を維持できたのは、同盟国との共有化しうる神話制作の巧みさが指摘されていますが、一方で縄文時代に始まった黒耀石[*2]の流れを汲む圧倒的な玉石加工(玉造)や鉄や銅の金属製造技巧(たたら)を蓄え、その交易によってその優位性を形成したとの見方もあります。
四隅突出型方墳
大規模な西谷古墳群や荒島墳墓群などの、隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる独特の出雲の墳墓の形が、弥生時代中期から中国山地から出雲・伯耆・因幡、時代を日本海を北上して、少し遅れて越前(福井県嶺北)・越中(富山)へとその広がりを持っている(但馬・丹後・若狭の方形墓のものとは異なる)。3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっていた。
山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、政治的勢力の同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、吉備の場合も同様なことが考えられます。日本海側を中心に約90基が確認されています。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られています。墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、サイズは後の前期古墳のサイズに近づいていたなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。このことから、山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考えるものもおり、出雲国造家とのつながりを指摘するものもいます。
造山古墳1号墳(島根県安来市)は一辺60mの古墳時代前期のもので、この時代のものとしては全国でも最大級の方墳で、近隣には、大成古墳もあり造山1号墳同様、古墳時代前期に築造、全国最大規模の方墳。
荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。
また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出しました。
出雲西部の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語りますが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説はありません。
その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開しました。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえます。
さらに、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もあります。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説があります(前田晴人氏など)。
朝鮮半島北部にあった中国の植民地の楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと思われ、壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示しています。楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められています。
また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もあります。「古事記」、「日本書紀」の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺えます。
初代奴国王から、王位を受け継いだスサノオを、推定15歳としますが、スサノオの死亡年齢から推定すれば、このとき10~20歳であったと思われます。幼き王に、一国を治めるだけの力があろうはずがなく、当然、参謀格の武将なり智将なりが、政治を司っていたものと思われます。彼らは、「もののふ」と呼ばれる武闘派であり、呪術集団でもありました。もちろん推定でしかありませんが、その中でも、卓越した指導力を発揮した者こそ、後の「物部氏」「蘇我氏」です。
スサノオを王とした「奴国」は、107年までに九州全土をほぼ掌握したものと思われます。スサノオ尊、その息子・「大歳」(おおとし=のちにニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と改める)とともに、鹿児島県に至るまで、九州地方の神社に広く祀られています。
そしてその年、「奴国」を「倭面土」(ヤマトと読める説も、首都の意味である)とした一大国家・「統一奴国」の国王帥升(すいしょう)となったスサノオは、「後漢」の首都、洛陽におもむき、孝安帝に面会を求めたのです。
この時の推定年齢は、20~30歳でしょう。大国・「後漢」の皇帝に直接面会を求めるという大胆な発想は、血気盛んなこの若さでないとできないことだと思います。ちなみに、生口(せいこう)[*1]を160人つれてと、『後漢書』は記しています。
スサノオは、その勢いに任せて、関門海峡を渡り「出雲」へと向かったのではないでしょうか。「出雲」の鉄資源の噂を、どこからか聞いたのかも知れません。ところが、その地は既に、八岐大蛇(やまたのおろち、以下、ヤマタノオロチ)が支配する土地でした。
『記紀』神話では、高天原を追われたスサノオが、出雲の地で、ヤマタノオロチの人身御供にされようとしていた、「櫛稲田姫」(くしいなだひめ)を救うためにヤマタノオロチを倒して、夫婦になったと記しています。『古事記』では、「高志」(こし)のヤマタノオロチとしています。「高志」とは「越」であり、今の、新潟県のことではないかというのが有力です。
また、『日本原紀』の著者である朴炳植氏によれば、「越」とは、「高句麗」のことであり、朝鮮半島から日本海を渡って、高句麗人が住み着いていた地が、「越」であるといいます。ヤマタノオロチとは、大勢の「オリ」とか「オロ」と呼ばれた、「越」の人々であるらしく、それを裏付けているとしています。さらに、「語りべ」・「下僕」と言うことから「べ=人」であり、他にも、人の意味を表す古語として、「ち」があるといいます。とすると、「オロチ」は大勢の人となります。「オチ=エチ」「アイチ」も類似します。
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砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。
このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。
なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。
吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。
スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。
出雲大社の摂社は「素が社」です。蘇我氏と出雲は強く結ばれていたのではないかと思えます。その理由の一つが、蘇我氏も砂鉄と強く結ばれていたからです。スサノオ同様、蘇我が関与したのは「鉄鉱石」ではなく「砂鉄」です。「ソガ」のもともとは「スガ」からきているようで、「スガ」は湿地帯を意味していて、なぜスサノオがじめじめしたところを好んで宮に選んだかというと、やはり「鉄」が関係してくる疑いがあります。砂鉄は鉄穴流しをするために大量の水を必要とします。スサノオがヒボコ同様に湿地帯を選んだのも、このためだろう。
[*1]生口(せいこう)…弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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[wc_tab title=”時代”] [/wc_tab] [wc_tab title=”ジャンル”]古墳 遺跡・遺物 神社 お寺 城 近代化遺産 地名地誌 交通・乗りもの
[/wc_tab] [/wc_tabgroup]■はじめに
18世紀になると、偶然に発見された遺跡や遺物が注目されるようになり、また、ギリシャ・ローマへの関心が高まるなかで、ローマ時代遺跡の発掘が始まりました。火山噴火で埋没したポンペイが偶然発見されたのを契機に、大規模な発掘が行われるようになりましたが、当初は、領主による美術品の蒐集が目的の略奪でした。18世紀末から19世紀初めになると、いわゆる未開地への探検が流行し、そこから収集された考古学的遺物や民族資料が公開されて注目を浴びるようになりました。19世紀半ばになると、科学的発掘調査が成立してきました。まず、地質学の分野で、地層の順番を決め、出土する化石の年代順序を明らかにして、地球の歴史を明らかにする層位学的研究法が確立しました。
一方、聖書の故郷として注目を集めていたメソポタミアでは、発掘競争を続け、今でもルーブル美術館や大英博物館の主要な展示物である膨大な石彫類を発掘しました。1871年、シュリーマンがホメロスの詩に書かれていたトロイと信じ、トルコのトロイの遺跡を発掘しました。現在では、この遺跡をトロイと断定することは出来ないというのが定説となっていますが、このように最初の発掘は聖書や神話をもとに行われていました。日本でも江戸時代にはすでに記紀や風土記による発掘が行われていたことはヨーロッパと大差はありません。
しかし、明治以降は、皇国史観によって日本神話の記述が神聖視され、神話研究はそれ以前よりも後退することとなりました。大正時代に津田左右吉が『神代史の新しい研究』ほかを発表し、日本神話に科学的な観点から批評を行い、神代記は政治的な意図で作られた創作であると結論づけました。戦後になってもしばらくの間、津田の説が日本神話研究の中心となりました。
現在では津田説が細部まで正しいとは必ずしも考えられてはいませんが、日本神話を考古学などの証拠なく、弥生・古墳時代の史的事実の反映と考える説は基本的に退けられています。
ただし、より正確であるといわれている中国など外国の史料や遺跡・遺物は、断片的であるために、全体の流れをつかむことができにくく、複数の解釈を生じます。信憑性に疑問があるとしても、最も詳しいのは古史・神社由来・民話などの国内資料であり、そうした国内資料を無視した状態では、複数の解釈が可能となり、正解を得ることはまず不可能と考えられます。全体の流れをつかむには、残された日本国内の資料に頼るしかないと判断し、正確である可能性の高いものを基に、その内容を、外国史料や遺跡遺物と照合することによって確認し、矛盾を生じるものはその伝承が正しくないと判断するという方法で論を進めたいと思います。
今日では、意図的な改変や創作がかなり加えられてはいるものの、そのようなものの見方をする古代の人たちがいたことに注目する文化的背景を考察する考え方が主流となっています。
いまグローバル社会といわれています。しかし、あえていうまでもないことですが、かつて地球上に人類が誕生したころは国境などありませんでした。人々は自由に獲物を求めて移動をくりかえしていたのです。
■歴史の時代区分
日本の歴史における時代区分には様々なものがあります。しかしながら、一応のところ、文字の発生と記録を残すことが行われる以前を先史、それ以降を古代・中世・近世・近代・現代とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられています。この場合でも、各時代の画期をいつにおくかは論者によって大きく異なっていますが、単純に分かりやすくするためにこの時代区分によっています。
さらに、それぞれは次の通りとします。
一般に学校で習うようなよく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分です
単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分であるといえますが、文献史料がなく発掘による考古史料のみが残る先史時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分します。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と区分していますが、これだけでは必ずしも十分でないため、鎌倉時代と室町時代の間に南北朝時代、1467年の応仁の乱頃から1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの時代を戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用です。
江戸時代の次は政治センターの所在地に従うなら、「東京時代」と呼称すべきでしょうが、明治以降から天皇の在位に従って明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と呼ばれています。
また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、統治範囲が時代によって上記区分に及ばないため、これらとは異なる時代区分が用いられています。
また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化?などとする区分もあります。
■記載について
あくまでも、自分が生まれた地域に関心がわいたのがきっかけで郷土を中心に展開しています。「すべての歴史は現代史である」という偉大な歴史哲学者(ベネデット・クローチェ)。過去の史料を評価・検証する過程を通して新しい歴史的事実、及びそれらの関連を探り、異なった見方や意見も併記するようにしました。絶えず更新しております。ご助言がございましたらこちらまでお寄せ下さい。