『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏
8 日本人南方起源説の根拠:DNA研究のように2つと黒曜石
宝来聡氏(1946~2004、総合研究大学院大学教授)のミトコンドリアDNAの研究によると、数は少ないものの、埼玉県さいたま(浦和)市内から出土した約5700年前の縄文人骨が、東南アジア人(マレーシアとインドネシア)の塩基配列とまったく同じであったといいます。
塩基配列がまったく同じになることは、偶然では起きないといわれることから、縄文人のある人々は東南アジアから来たといえます。
(中略)
「南島諸島語」は、西はアフリカのマダガスカル島から、東は南アメリカに近いイースター島まで、広大な地域で用いられ、言語学的に共通性があり、「マライ・ポリネシア語族」に属します。
マライ・ポリネシアの民は、史上最大の航海民で、今から1万2000~6000年前頃に、中国南部・東南アジアから出発して、現在の広大な地域に拡がったものと考えられています。その一部の人々が、気候温暖化などに伴い、小笠原諸島を北上するなどして、日本列島にも来た可能性があります。
黒曜石中のウラン濃度の違いから、今から約2万2000年前の南関東の縄文遺跡で、神津島産のものとされる黒曜石が発見されています。この神津島産の黒曜石は、縄文時代の遺跡から数多く出土し、また、南の八丈島からも出土しています。このことから、大平洋を南北に行き来する海上の交通路があったことが伺えます。
沖縄県具志川志港川採石場で発見された湊川人は、供伴資料の放射性炭素などから、約2万年前のものとされており、南方系と考えられています。
水田稲作と渡来系路
すでに以前に調べたことがあるので、佐藤裕一氏のなかでダブらない箇所を取り上げます。
和佐野喜久雄氏(1937~、佐賀大学名誉教授)は、種子の大きさと形の分析から、稲の渡来には、次の三つの波があったといっています。
第一波は、縄文晩期(紀元前8~7世紀、春秋戦国時代)で、朝鮮半島から壱岐を経由して来た粒のごく丸い品種であるといいます。
第二波は、縄文晩期から弥生初期(紀元前4、5世紀頃)に中国から北部九州に直接渡来したもので、やはり短粒のものであったということです。
第三波は、弥生前期から中期頃(紀元前2、3世紀頃)、長粒の品種を中心として、様々な品種が、有明海に入ったと和佐野氏は言っています。
17 倭人の文化・墓制・伝承・風俗
弥生時代に入って、水田稲作とともに普及した各種の高床建築は、中国南部から東南アジアにかけての民族の住居や倉庫として、現在でもなお生き続けていますが、一方、朝鮮半島で高床建築遺構は発見されていません。
また、歌垣と妻問い婚は、弥生時代以来のものと思われますが、中国南部からインドシナ北部にかけて、最近まで広く行われていました。
弥生時代の墳丘墓も、古墳時代の古墳も、遺体を墳丘の比較的高い所に埋葬しますが、これらの墓制は、江南の呉越の土敦墓に類似しています。
倭は、「江南の呉から来た」という伝承をもっていました。
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。