親中派・中国文化崇拝者の近視眼的歴史観

/ 7月 23, 2013/ オピニオン/ 0 comments

宮崎正弘の国際ニュース・早読み

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
   平成25(2013)年7月23日(火曜日)
        通巻第3988号

このグロテスク・リアリズム、中国史の本質は人肉グルメ
  菅原道真はなぜ遣隋、遣唐使の中止を進言したのか?
   ♪
黄文雄『食人文化で読み説く中国人の正体』(ヒカルランド)

 中国人作家でノーベル賞を獲得した莫言より、鄭義のほうが一時期は有名だった。天安門事件の指導者のひとりとして手配され、中国各地に潜伏したのち、1993年に米国に亡命した小説家である。
その鄭義のもっとも評判を取った作品は、ある村の百年の歴史を描いたもので、要するに飢饉のたびに村人は人を食った。大江健三郎は、鄭義の作品群を「グロテスク・リアリズム」と評した。
 黄文雄さんの新作は、まさに人を食ってきた中国の歴史の本質をえぐり出したグロテスク・リアリズムの文明論である。
 中国の歴史は平均すると、十八年ごとに戦争、内乱による飢饉が発生したため、共食いが起こった。
 人肉市場があり、それは闇市ではなく公認市場だった。人肉の値段は豚や犬肉より安く、また人間を食肉として飼育し、屠殺する養人場があった。処刑された罪人の肉も払い下げられたうえ、平穏な時代でも食人の習慣は絶えなかった。味方同士の共食いもあり、最大の好物は子供の肉だった。軍隊は補食として人肉を食べた。
 三国志演義でも劉備玄徳を厚くもてなすため、山奥に潜伏していた嘗ての部下が妻を殺して馳走する場面がある。日本人は卒倒するか、吐瀉するかだろうが、しかし劉備玄徳は部下のその忠節ぶりに感傷に浸るのである。
 水滸伝には人肉饅頭がでてくる。数え上げればきりがないのでこの辺で止めるが、最近も胎児のスープをグルメで味わう闇のレストランが広東省にあることを写真入りで多くのメディアが暴露した。

 菅原道真はなぜ遣唐使の中止を進言したのか?
 水運路が安定せず、海上交通に難があり、コストがかかりすぎた等とする理由付けが戦後の解釈の主流である。本当のことをなぜ言わないのか? 
第一は隋唐から学ぶべきことがなくなり、遣唐使は意味を失ったからである。たしかに遣唐・隋使によって、日本にもたらされたのは唐風文化。建築から彫刻、絵画、仏典などが影響をあたえたことは事実だろう。平安京は唐の長安そっくりである。ところが隋の衰退により文化は荒廃を極めていた。しかも日本が礼を尽くしての外交使節も、中国側は「朝貢」に来たくらいにしか認識していなかった。
第二は遣唐使、遣隋使より遣日使のほうが人数が多く、かれらが日本に来て驚いたのは日本文化のすばらしさ、要するに帰国したくなくなったというポイントが見逃されてきた。
日本では国風文化がひろまり、やがて平かな、カタカナが発達し、源氏物語など世界一級の文学が完成した。もはや隋唐から輸入するべき政治システムも文化文明も尽きていた。
第三の理由は人肉文化にほとほと嫌気がさしたからである。

 そして本書は次のようなことを教えてくれる
 遣唐使停止の決定を菅原道真がしたころ、長安を訪れたアラビア商人は『シナ・インド物語』を書いて、役人どもが地方に派遣されると「その地域の人間をことごとく食い尽くした」と書き残した。
 『唐書』には「城内で逃げ遅れて人質になった者は万に達し、餓死者は日に数人ずつ出た(中略)。そのうちに殺し合い、人肉を食べるようになった」、「城内ではたがいに子供を取りけえて食用にした」とある。
 宋代の『鶏肋編』には「米価が暴騰した。カネがあっても食料が手に入らなくなったため、盗賊や兵隊ばかりか一般民衆までもが殺し合い、人肉を食べるようになった。そして街中で販売されるようになった。人肉は犬や豚よりも安く、肥えたものでも一体が十五貫(コメ三丈分)にすぎなかった」と書かれた。
 『資治通鑑』にも「(902年)唐の西京である鳳翔城の人肉市場では、一斤(600グラム)が百銭に値し、犬の肉は五百銭に値した」と記されている。
 菅原道真の決定は正しかったのだ。

中国4千年の歴史ととかくNHKはシルクロードから現在に至るまで相変わらず中国崇拝者のごとく宣伝してきた。
たしかに日本は随・唐から文字(漢字)や唐風文化である建築から彫刻、絵画、仏典などが影響をあたえたことは事実だろう。

しかし、現在の中華人民共和国(以下、中国とは略さずChina=支那)が誕生したのは1949年、まだ戦後百年にも満たない新興国なのだ。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、大韓民国(韓国)も同様である。なぜ中華人民共和国を中国と略すのは正しくないか、日本の中国地方と紛らわしいということもある。日本において中国とは、『古事記』にある葦原中国(あしはらのなかつくに)、中つ国(なかつくに)であり、中津国、中国とも書く。日本神話における地上世界、高天原と黄泉の国の間。転じて日本の国土のことで、中間の国、中央の国を意味する。
つまり、現在では中国地方4県(島根・鳥取・岡山・広島)のことである。

まず、日本は中国・朝鮮からそれらの文化がもたらされたのだから、仲良くしなければならないという尊敬心が左翼学者やそのもとで学んだ一見インテリ知識人がマスメディア内に大手を振って占めている。例えば仏教伝来の出発点が随・唐・百済からだとし、支那・朝鮮半島しかみていないことだ。

まず。今の支那という大きな国家はなかったのである。漢字の元となった文字は殷(イン)とされ、殷は紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。誰が漢字と読んだのかは知らないが、正確には「殷字」とすべきであろう。一小国の文字を中国から伝わったとするのは乱暴だ。

次に仏教についてであるが、仏教はインドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、あるいはガウタマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた東大寺の大仏と知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)完成の天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。

華厳経は西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。前者は5世紀、東晋の仏陀跋陀羅訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の実叉難陀訳で「新訳」、「八十華厳」という。盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。六十華厳では「盧舎那仏」、八十華厳では「毘盧遮那仏」と表記されるが、これらの原語はサンスクリットの「Vairocanaヴァイローチャナ」であり、密教における大日如来(Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)と語源を等しくする。

中国大陸・朝鮮半島はその通過点にすぎないということ。仏教はそれらの国では廃れ、日本列島で大成したのだ。
世界最古の天皇一系の民主国家・日本と、世界でも70年弱の新興国である支那・南北朝鮮はいまだに儒教が根強いまったく文化・価値観が異なる民族だということを知るべしであろう。

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