トヨタ支持の米ミシガン大学工学教授が証すトヨタリコールの真相

/ 5月 5, 2010/ トピックス/ 1 comments

アメリカで起きたトヨタのリコール問題はなんだったのだろうか。日本のマスコミ報道を信じていない国民が多いが、米国大メディアの煽りと捏造ぶりも呆れたものだった。大メディアが伝えないアメリカの良識人から見たトヨタに対する印象として参考になると思うのでまとめてみた。

特別寄稿 「それでも米国民はトヨタを愛している」

米ミシガン大学教授ジェフェリー・K・ライカー「ザ・トヨタウェイ」著者 訳・国際ジャーナリスト 大野 和基 『正論6月号』

自動車研究の中心であるミシガン大学インダストリアル・オペレーション工学教授
2004年に出版した『ザ・トヨタウェイ』(邦訳・日経BP社)が世界的ベストセラーとなり、他にも『トヨタ経営大全』『トヨタ製品開発システム』など著書多数。

「トヨタに何が起こったのか?トヨタは『安全』を捨てたのか?あるいは『安全』が、トヨタの企業文化の一部であったことは今まで一度もなかったのか-」

これほど直接的な質問を、とりわけエドガー・シャインのような経営学の象徴的人物から受けるのは非常に興味深いことだ。彼は現在MIT(マサチューセッツ工科大学)スローンスクールの経営学名誉教授であり、この質問の裏には私がいかなる返答をしようとも、トヨタは「安全」について関心がないという意味が含まれているのではないか。

揺らぐ信頼

現在起きているトヨタの危機において、確かにメディアが伝える情報は、トヨタは安全テストの結果を隠蔽していた傲慢な企業だ-という印象を与えている。(中略)

ガタ落ちする評判

アメリカは急加速の苦情が非常に多い国である。この問題で私は、トヨタの車両リコール・グループの部長と何時間も話し合った。そのとき彼は、意図しない急加速の来歴について説明してくれた。彼によると、最初に大雑把な情報が入ってくる。そして、問題がある車をディーラーに持っていくと、その問題に対して漠然とした分類がされる。あるいは苦情をNHTSA(米運輸省道路交通安全局)に送ると、さらにあいまいな分類がなされ、ときには名前も連絡先も書かれないこともある。

結局、トヨタが実際に見るのは問題のあるほんの一部だが、それでも十年間にわたって丹念に調査した車両には、特に認められる問題も、カーペットの問題もなかった。このことはNHTSAもトヨタのエンジニアも同意している。

問題となっているカーペットとは、分厚いゴム製のマットのことで、水や泥には強いものの、きちんとクリップで留めておかないと滑ってアクセルペダルに引っかかる。そして世界中でアメリカ人だけが、かなりの割合でこのマットを使っている。このためトヨタの最初の対応は、元のフロアマットを取り出してフィットするゴム製のフロアマットを置き、それをクリップで留めるようにと顧客に注意喚起するものであった。それで安全は確保されると判断したのだ。

一方、NHTSAは外部からのプレッシャーを受けていた。そのプレッシャーのため、トヨタにさらに要求するようになる。カーペットの問題という単純なものではなく、電子コンピューターシステムに問題を見つけなければならなかった。トヨタは、あの悪名高い「決定的証拠」のメモに「NHTSAはテクニカルになってきたのではなく、ポリティカル(政治の、政治学)になってきた」と書いている。当初は協力的だったエンジニア同士の話し合いは、プレッシャーが増すにつれて、NHTSAによる上からの警告に変わっていった。

NHTSAは自動車部品メーカーの間で、その厳格な安全要求事項と、“test to fail”検査(故障するまで行う検査)でよく知られており、どの部品も厳密にテストをする。しかし、彼らは発電所の磁気妨害に電子スロットルシステムをさらしても、トヨタ車を故障させることができなかった。だからトヨタは、急加速の原因についての説明で、カーペットの問題か運転手のエラーだとくり返したのである。ここで言う運転手のエラーとは、ブレーキを踏むつもりでアクセルペダルを踏むという意味である。

そしてサンディエゴで起きた悲劇の事故により、危機は頂点に達した。レクサスのディーラーが、元々つけてあった普通のマットの上に大きなゴム製のマットをクリップで留めないで置いていた。そのマットにペダルが引っかかって戻らなくなり、レクサスを運転していた地元警察官の家族全員が亡くなった。クラッシュした後、車は炎上し、ゴムマットの右上の端がペダルにくっついていた。

この事故のあと、トヨタはついに降参し、ただちにカーペットを取り除くよう公示した。それから430万台ものリコールに踏み切った。ほとんどの処置は、元々設置されていたカーペットの上にゴム製マットを置いても十分な隙間ができるよう、ペダルを短く切るというものであった。それは勧められるものではなかったが、それしか方法がなかった。

ところがこのことでマスコミの報道合戦が始まり、トヨタは道に迷ったという憶測まで呼んだ。11月にトヨタがsticky(くっつく)ペダルの不具合のあるカローラを発見すると、さらに報道合戦は過熱した。stickyペダルとは、アクセルペダルの溝が湿気にさらされて複合物質が蓄積され、くっつきやすくなる状態だ。この状態の車両が見つかったのは15台に満たないが、さらに220万台がリコールされ、メディアにおけるトヨタの評判はガタ落ちになった。

ディペートの敗北

先日、私はイエール大学の教授とTVショーに出演した。その教授が反トヨタの視点を持っていたので、討論相手として招待されたわけだ。(中略)
彼の考えは、トヨタは隠蔽したり顧客のせいにしたりすることでしくじったというもので、今やもう名誉を挽回するには遅すぎると主張した。私を長々と攻撃する使命感に燃えており、隠しておくべき都合の悪い事実をすべて知っているようだった。(中略)

この教授は確かに私よりも回転が早く、明瞭だった。私がトヨタを支持するために提示した事実の一つ一つに対して、自分の主張を支持するために三つの事実を出してきた。彼はこうしてディペートに勝ったのである。
このディベートは敗者の私に、もう一つのシーンを思い起こさせた。昔よく講義中に使っていた練習で、高齢の女性労働者についてプラスの事実とマイナスの事実を書いた紙を混ぜ合わせて学生たちに与え、半分は批判する役割、残りの半分は支持する役割を与える。批判側は否定的な事実を入手する。事実はものの見方を変えないが、我々が事実をどのように認識するかは、ものの見方によって形成される。

このことを熟考すると、私はトヨタの車両は安全で、トヨタは不当に悪者にされているという、自分の見方を支持する「事実」を積極的に取り入れていることを正直に認めなければならない。「事実」によって形成される否定的な主張を読むと、私は気持ちが高ぶる。

だが、これは誰にも当てはまることではないのか。私はイエール大学の教授の他に、トヨタに対して過剰な敵対心を持っている人達ともディベートをしたが、彼らがトヨタに対して偏見を持っていたと十分確信している。

「偏見」か「信頼」か

このことをさらに深く考えてみると、トヨタについて私が信じていることから来る偏見が自分にあるという、自己発見について気を悪くすべきか疑問に思う。この場合、その偏見に対する別の言葉は「信頼」である。

私は父親と彼の倫理観を深く信じて育ってきた。それと同様、25年間もトヨタを研究し、その役員、経営者、その企業文化に信頼が置けるようになった。私はトヨタを信頼しているし、トヨタウェイに従おうとする彼らがいかに懸命に働いているかに感服している。(中略)

25年間の経験で蓄積された基本的なことは、トヨタの経営者、特に役員は、「正しいことをする」という強い気持ちで一貫しているということだ。トヨタに身を置いたことがある私の知っているどのアメリカ人も、正しいことをするようにアドバイスを受けたことについて、身の引き締まるような話を持っている。299台まで何の問題もなかったが、一台の車両に品質上の問題が見つかったために、向上の組み立て工程を止めて300台の車を検査することや、誰かに実際に害を与えた証拠もないのに、潜在的な安全の問題解決のためにお金を使うことなど、いろいろな話を聞かされた。

私はトヨタを1983年から知っているが、その企業文化において、既知の安全問題を精査して、それを生かさないことが想像できない。それはトヨタの企業文化にとって、基本的な前提を破ることになるからだ。トヨタに安全がなければ、他のことがどんなに優れていても何にもならない。残念ながら、同じような経験のない人や、何らかの理由でトヨタは悪質な企業だと決めつけている人を説得することができない。事実だけでは不十分である。

トヨタは現代企業に対する私の考え方に、決定的な影響を及ぼしたという思いもする。トヨタを研究する前であれば、このイエール大学の教授に喜んで賛同しただろう。(中略)私が思うに、彼は公共機関として機能している「会社」と親密な関係を築いたことがないのだろう。トヨタに入るとその組織に溶け込む。そうして人はトヨタの一部になり、トヨタはその人の一部になる。

確実に言えることは、イエール大学の教授がいかにトヨタを批判しようと、いかにメディアがバッシング報道をくり返そうと、米国民の多くは、揺るぎなくトヨタを信頼しているということだ。それは、ライス大学が実施した厳密なアンケート調査でも証明されたし、今年三月のトヨタ車の売上げが米国内で大幅に改善されたことでも浮き彫りになった。

気高い信条

15%のマーケットシェアという「グローバル・ビジョン2010」の目標が、北米トヨタに意味することは、「「アメリカ人は成長しなければならない」ということである。何十年もの間、彼らは日本から来た年長のベテランによってトヨタ文化にソーシャライズされる子どものように扱われていた。会社が成長するにつれ、その子どもも大人になって日本からの監視をかなり減らして正しく生きなければならなかった。グローバル・ビジョン2010は北米の自立という意味になった。それは、より積極的に人を開発する必要性に置き換えられる。すなわちトヨタの価値観を生きるリーダーを、もっと意図的に育てていくことがそれに含まれる。
(中略)

トヨタに入るアメリカ人は、最初はアウトサイダーであるが、時間の経過とともにインサイダーになり、お互いに密接な繋がりを享受する。彼らは特別な組織の中の特別な存在である。彼らは、トヨタは最終的に正しいことをすると思っている。それはトヨタがやることだからである。

この思いは集合意識に類似しており、生活し、成長し、貢献するという気高い信条を繁栄する。だからといってそれはトヨタが完璧であるということを意味しない。実際、基本的な哲学は、いかなる企業も完璧な企業はありえないということだ。だから継続的な向上を必要とするのだ。(中略)
トヨタの中にいる誰かがしくじると、トヨタという有機体を損なうが、他の人がその問題を理解し、修正し、さらに将来同じような問題を避ける方法を学習することで、助け船を出してくれる。

最終的な勝利

(中略)

長い目で見ると、善玉が勝利を得ると個人的に希望している。トヨタは善玉だ。トヨタは善行をしようとするユニークな事業体だ。みんな一丸となって学ぼうとする、強い絆で結ばれた人たちの集合体だ。すでにトヨタのDNAをもっているメンバーもいるし、これからまだインターナライズ(自分の内に取り込む)しなければならない人もいるが、そのDNAを持っているリーダーの割合は、卒倒してしまうほど高いし、絆の強度は石の中にある結合分子のようだ。

それほどまでにユニークで優れたものは、首尾一貫した文化がない、分裂した組織に対する模範として、存続し、繁栄するに値する。効率を求める社会で、トヨタは教えるべき重要なことがあるという、何がしらの希望を我々に与えてくれる。福音伝道者であることは決して楽な生活ではないものだ。

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  1. 衰退する米国と日本の自立 青山繁晴

    昨日、鳩山首相は沖縄を訪問し、米軍普天間基地の移設問題で「最低でも県外」との自らの約束を撤回した。

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