安易に「地域主権」と「地方分権」を混同してはならない

民主党は、「地域主権」をうたっている。
自民党の地方分権改革によって地方交付税が減り、市町村合併が進み地方格差が広がった。そこで、民主党が行きすぎた地域格差の是正をかかげるのは大いに賛成だ。中央政府から権限や財源を地域に委譲しようとする趣旨は理解できる。
 しかし、マニフェストに「地域主権」と、「主権」という用語を平易に使うことが間違いだということを何度も書いてきた。実にそれは危険だからである。
 「主権」と同様に、「国家戦略(局)」とか「外交」「防衛」なども同様で、少しでも知識があれば、これらの用語の使用には本来の意味と異なって利用していることに気づく問題点だ。
 民主党の閣僚が無知なのか、あえて分かって使っているのか、いつか取り返しのつかない混乱やミスを生む。その前に、誰も注意する側近がいないのなら、専門家は国益のために忠言しないといけないのではないか。
そのことを指摘した青山繁治氏のような専門家もいたが、いまでも無視して使われている。

『政治学入門』 阿倍 斎/久保文明/山岡 龍一 放送大学
山岡 龍一 P164-P167
国家とは何か
 国家の特性を考える上で、マックス・ウェーバーによる「国家」とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である」という定義が参考になる。国家はある領域を支配する団体であり、その支配の背後には暴力がある。もちろん、常に直接的な暴力行使によってなされるのではなく、むしろ法律等のルールの制定を通じて遂行されるのが普通である。
(中略)
 かくして、ホッブスは「背後に剣(swords)のない契約は、単なる言葉(words)にすぎない」と主張し、国家には方を実効する強制力が不可欠と述べていた。ただし、ウェーバーがいうように、この暴力は「正当な」ものでなければならない。ある集団が暴力装置を手に入れ、一定の領域で実力で支配しているとしても、そのことで自動的に国家となるわけではない。
 では正当性とは何か。少なくとも二つの視点がありえる。一つは被冶者からみた支配の正当性であり、もう一つは他の国家からみた国家の正当性である。前者に関してウェーバーは、伝統的、カリスマ的、合法的、という三つの理念型をあげている。つまり支配は、(1)慣習や伝統に基づいている場合、(2)大衆を圧倒的に魅了する超人的資質が認められる個人や団体によって行使されている場合、(3)合理的・抽象的で、一般的な適用性が認められるルール(法)に基づいている場合、正当だとされる。
(中略)
 これとは別に、被冶者が国家支配の正当性を規範的に認めるべきだという哲学的説明もある。最も有名なのはホッブスの社会契約論であり、「人々は国家が存在しない状態(戦争状態)の悲惨さを考えれば、自らの自然権を放棄し、国家に自己保存の権利を譲渡することが合理的だ」、というものである。つまり、こうした授権行為により正当化された国家が、平和の守護者となって、国民の安全を保障するとされる。
 これとは別に、現代において国家の正当性は、国家による国家の承認という形態をとることが多い。つまり、ある政治的共同体が正当な国家であるかどうかを判断するという問題は、すでに国家として承認されている他の国家による承認という、国際関係のよって解決される。
主権の概念
 国家は、一定領域内において他に並ばれることのない正当的暴力を所有する。国家がもつ最高権力は「主権」(sovereignty)と呼ばれ、国家を規定する中心的な特性だとされている。16世紀フランスの思想家ボダンは、主権を「国家の絶対的で永続的な権力」と規定し、それを国民の同意なしに法律を与える権力に認めた。主権の概念が、近代以降、国家規定の主要な要素となっていった。主権とは一定領域内における最高権力であり、あらゆる権力のなかで究極的なものである。それは特定の人や集団の属性ではなく、時間を超えた非人格的で一般的な権力である。そして主権によって国家は、他の国家から独立性を認められる。
 だが、現代の民主主義国家では、統治の主体である政府の正当性は、選挙等を通じて国民より付与されているのだから、主権は国民に帰属するといえるし、実際、そのような憲法の規定が存在する。とはいえ、日常の場面において、個々の国民は政府の権力に服属している。また、政府の内部でも、どこに最高権力が実際に帰属しているのかは明確ではない。立憲主義や権力分立主義が発達した国家では、権力は様々な期間に分散しており、主権を集約的に行使する主体を特定するのは困難である。さらに、アメリカ、カナダ、インド等の連邦国家では、連邦政府と州政府の間で主権が分有されるともいえる。このように現代国家には、主権の分立とも呼べる状況がみられる。
 このように主権の行使者は多様だといえるが、主権の及ぶ範囲は比較的明確である。国家の範囲を表す基準が二つある。その一つが空間に基づく基準であり、主権の管轄権の及ぶ空間的領域を示すのが「国境」である。さまざまな地理的、歴史的要因によって国家間の空間的境界線が定められ、それが主権の限界を示している。国境は決して確定的なものでなく、しばしば戦争が生じてきた。次第に条約等の国際的な取り決めが行われるようになる。1648年のウェストファリア条約が、こうした試みの最初であり、それ以降国際法による国境の確定の努力が成されている。だが、現代においても、政治・軍事上の実力行使が国境の確定に及ぼす影響は無視できない。
 
 もう一つの基準が、成員に基づくものであり、主権の管轄権の及ぶ人員的範囲を示すのが「国民」である。特定の国民と政府との間には、特定の相互的な権利・義務関係があり、それは一般に法律で明文化されている。かくして、国家主権は、外国(国境の外)にいる国民に対して、その外国の主権との調停が図られる範囲で、特定の権利・義務関係を結ぶのである。したがって、国家の主要な三要素は、しばしば主権、領土、国民だといわれることになる。

地方分権と地方自治
阿倍 斎 -P95
 中央政府の権限をできるだけ地方政府に委譲し、中央政府と地方政府との間に適切なバランスを作り出すことで、権力の集中を阻もうとするのが地方分権である。地方分権の最も高度な形態は連邦制である。とくに広大な地域のまたがる国家、あるいは異なった民族・文化・歴史をもつ地域から成る国家においては、各地域にその地域に関わる問題についての高度な自治権を認め、中央政府はそれに干渉しないことが望ましいであろう。たとえば、アメリカ合衆国、ドイツ連邦共和国をはじめ、国によって地方分権の程度は異なるが、いずれも連邦制の形式をとっている。
 また地方分権は、権力の集中と濫用を防ぐという消極的機能の他に、各地域の政治問題をそれぞれの地域の住民自身の手で処理するという積極的機能をもっている。これが一般に地方自治と呼ばれている側面である。
(中略)
 現代の地方自治にみみられる問題の一つは、行政サービスの地域的な格差をなくすために、中央政府による画一的なサービスを要求されることが少なくないこと、また多くの問題が各地域にとってではなく、国全体にも関わりをもつために、中央政府による処理を必要とすることであろう。

 以上のように、これまで長年使われてきた「地方分権」が定着しているが、最近の「地域主権」といういわれ方は、いったいどう違いがあるのかが不明確である。このように連邦国家でも主権の分立であり、州の主権は国家の主権の範囲内に限られる。連邦国家ではない日本が、地方主権でもない「地域主権」というと、都道府県が地方文献であり、地域とはさらに細かい単位の市町村になるから、各市町村が独自の法が与えられる意味になる。
 連邦制国家でさえもあくまでも国家主権の州への分立であり、都道府県なら「地方主権」というべきで、それは政府と法を設定できることなのだ。しかも「地域主権」なら、もっと狭い市町村が独立した法や政府をもつことを意味することになる。道州制が行われれば、それは道州に主権を分立するというべきであり、「主権」を政治的に安易に使用すると、道州が法を制定し政府機能を持つ。国家として存続基盤がぐらつき、収拾がつかないとんでもないことなのだ。日本国憲法第1条が国民主権を定めている。国民主権のもとでは、主権は国民に由来し、国民は選挙を通じて代表機関である議会、もしくは国民投票などを通じて主権を行使する。その責任も国民に帰趨する。地域主権とはどういう意味なのだろうか。要するに自民党時代から進めている地方分権の委譲を進めるのと大きく変わらないなら、安易に地域主権という造語を使用して国民を欺いているだけなのではないだろうか。
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1 Comment

  1. 自衛隊の国際貢献への主体的判断可能な法整備を

    25日、菅副総理は、鳩山首相の代理として相模湾での自衛隊観艦式に出席し、護衛艦「くらま」の艦上で訓示した。そしてその訓示で、『わが国の主体的判断と民主的統制の下で、(自衛隊を海外に派遣し、) 国際社会の平和と安定に(積極的に)貢献していくことを望む』と述べたそうである。

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