但州湯嶋道中独案内と筑紫紀行巻九(城崎道中記)

豊岡市立歴史博物館主催のとよおか市民学芸員養成講座応用編で、昨年から「候文に慣れる」「くずし字に慣れる」「古文書の整理方法」を学び、今月は同じシリーズで「古文書の解読」が2月27日から始まった。

「但州湯嶋道中ひょう案内」は、江戸時代の城崎温泉ガイドブックのような携帯用に小さな冊子である。

温泉効能の概略、城崎温泉の行き方・温泉繁盛の由来・五つの湯の紹介・付近の観光地がまとめられている。江戸時代後期、お伊勢参りをはじめ庶民はまだ御講での旅が広まったのであるが、これは観光ガイドブックのはしりとして面白い。今も昔も大して人々の文化度は変わりないばかりか、江戸期の文化度の高さは、同じ発音でも微妙に字を使い分ける仮名遣いが、現代のひらがなより豊かであったし、心や想像は豊かであったと思うのだ。

ちょうど数年前にネット検索で出会った「筑紫紀行」を再度養父神社や気多郡以外すべてを解読していた。同じ早稲田大学図書館蔵である。
難解なくずし字は解釈が間違っているかもしれないが、大きくは違ってはいないと思う。

それをさらに村々の当時の様子を克明に記したのが、以下の紀行文である。

筑紫紀行巻九より

市民学芸員講座 第6回 古文書の整理方法①

一年間、講座を聴いたり、宵田城山縄張り作図、豊岡近代化遺産見学等を体験してきたが、今回からは実際に古文書の整理を手伝う作業に。

この講座では、気多郡知見村(いまの豊岡市日高町知見)の谷垣家に残る村の古文書を主に活用しながら、くずし文字の読み方を学んできた。今回からは、実際に史料の整理を手伝う作業。

江戸時代の検地で田畑の所有者、面積などを克明に記録された古文書や銀の借用書等、筆でしかもくずし文字や右衛門などはつながって一文字のように書かれているので、なかなか苦労する。数を経験して慣れるしかないようだ。

とよおか市民学芸員養成講座 最終回を終えて

とよおか市民学芸員講座
場所:豊岡市立歴史博物館-但馬国府・国分寺館小ホール

3.15(日)昨年より平成26年度 とよおか市民学芸員養成講座も、13回目。本日で最終回となりました。
3回めから参加でしたが、有意義な講座でした。

講師は、近大姫路大学 人文学・人権教育研究所講師の松下正和 先生でした。

とよおか市民講座 「豊岡を歩いた伊能忠敬」

とよおか市民学芸員 養成講座 第12回 「豊岡を歩いた伊能忠敬」

平成27年2月8日
講師:但馬国府・国分寺館館長 加賀見 省一氏

江戸時代に日本で初めて測量地図を作ったことで有名な伊能忠敬。地図好きな私には興味の高い人である。
伊能の一行は、但馬国分寺礎石を訪ねているのでわが町にも歩いて測量していたことは知っていました。

いただいた資料によると、第一次測量は、寛政12年(1800)、東北から蝦夷(北海道)西別にはじまっているが、その時に伊能は55歳でそれから第10次測量の1815、16年には70、71歳まで15年間かかっているが、その年令に驚く。
延享2年(1745)、上総国(現千葉県)の九十九里町に生まれた。幼名は三治郎。
宝暦12年(1702)、佐原村(現佐原市)の伊能家の婿養子になり、忠敬に改名。
寛政7年(1795)、49歳で隠居をし、家督を長男に譲る。
翌年江戸に出て、幕府天文方の高橋至時(よしとき)に弟子入り。
寛政12年(1800)、初めて奥州街道と蝦夷の東沿岸部までを測量した。
第5次測量からは、正式に幕府の事業として行われた。
第9次測量は、70歳を超えた忠敬を心配する周囲の反対により不参加。

くわしくは こちら

豊岡の近代化遺産・城下町界隈

とよおか市民学芸員養成講座第九回 「豊岡の近代化遺産」
講師:松井敬代さん(豊岡市教育委員会主幹)
日時:平成26年11月16日10:00-12:00

とよおか市民学芸員養成講座第9回に参加してきました。
ポカポカした陽気に恵まれ、近代化遺産と京町の城下町界隈に残る遺産を歩いてまわりました。

10年ぶりに宵田城跡を登る

  2014-10-19-10.26.36

豊岡市日高町岩中区の宵田城跡へ約10年ぶりに登った。FBに30年ぶりと書いたけど、10年ほど前に一人で旧道から登ったことを思い出した。新しい広い道からははじめて。
毎年、地元消防団で竹だんじりを製作していた頃は、この城山の麓まで真竹を採りに登っていたので、よく知っているし、城跡では最も回数が多い。しかし60歳近くなって広い道なのに息切れがして老化を痛感した。神社の長い石段には慣れているものの、城山としては156mと低いのに、なかなか着かない。


宵田城中枢部縄張図 西尾孝昌氏

講師は但馬では城郭研究の第一人者である西尾孝昌先生。指導を受けながらメジャーで本丸、二の丸や各郭の実寸を測り方眼紙にスケッチする。

宵田城については、すでに書いているので概要のみ記すと、中世から戦国時代前記まで山名四天王といわれた重臣の一人で気多郡西気谷(現在の豊岡市日高町と竹野町南部)と阿瀬金銀山、竹野鉱山を押さえていた垣屋氏の居城のひとつ。道場区と佐田区の西南にあった楽々前城(ささのくまじょう)を本拠として垣屋隆国の長男、垣屋熙続(熙忠長男:越前守)が楽々前城、次男の垣屋熙知(次男:越中守)がここ宵田城、三男・垣屋豊茂(熙忠三男:駿河守)が竹野の轟城主となった。兄弟三人は、越前守家が楽々前城、越中守家が宵田城、駿河守家が轟城と、それぞれ城を分かち持ち垣屋氏の勢力はおおいに伸張したのある。

山名四天王のうち、竹田城の太田垣氏は生野銀山と朝来郡を配下に置き、中瀬金山と八木城を築き養父郡を配下に置いた八木氏は、丹波道主命の末裔で但馬国造日下部一族の流れをくむ但馬の国人衆、田結庄(たいのしょう)氏は桓武天皇の皇子葛原親王の後裔で、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、その子の盛長が一命をとりとめて田結庄に住み田井庄氏を名乗ったという。鶴ケ城(豊岡市山本)と城崎郡を配下に置いていた。垣屋氏はこの3人と異なリ但馬国人ではなく、山名氏の重臣の一人として群馬県山名庄から起こった山名氏に従って但馬へ移り住んだ。もとは土屋姓で、相模国大住郡土屋邑を本貫地とする関東の武門の名門の一つ土屋党で、垣屋氏は土屋氏分流のひとつである。

いまNHK大河「軍師官兵衛」では秀吉の但馬・因幡侵攻で竹田城が登場するかもと期待してみていたら、織田軍羽柴秀吉の備中松山城水攻めに重点が置かれて、羽柴秀長率いる豊臣軍の竹田城を始め但馬や鳥取城攻めまで、ものの見事にカットされてしまっていたが、宵田城のすぐ南の浅倉の岩山城では毛利方についた山名一門の激烈な防御戦により秀長軍は気多郡からの侵攻は諦め、出石へルートを変更したのである。

Scroll to top