豊岡の近代化遺産・城下町界隈

Kojiyama/ 11月 16, 2014/ ライフ・文化/ 0 comments

とよおか市民学芸員養成講座第九回 「豊岡の近代化遺産」 講師:松井敬代さん(豊岡市教育委員会主幹) 日時:平成26年11月16日10:00-12:00 とよおか市民学芸員養成講座第9回に参加してきました。 ポカポカした陽気に恵まれ、近代化遺産と京町の城下町界隈に残る遺産を歩いてまわりました。 ふだん見慣れた中でも、歩きながら説明を聞くと知らないことを再発見しました。 豊岡は神武山の城崎城(木崎とも書く)を中心に円山川の旧河川沿いの大磯から小田井神社前を南北に通る湯島(今の城崎温泉)街道沿いに城下町として発達しました。 1909年(明治42年)に山陰鉄道豊岡駅建設に伴い、駅はその円山川沿い市街地から遠い現在地に建設された。当時、蒸気機関車だったので煙を吐きながら走る鉄道はどこの町でも敬遠され、町外れに駅が造られた。 1918年(大正7年)、豊岡町長となった由利三左衛門と助役は由利智三郎右衛門は、大豊岡建設の夢を抱いた。第一は丹後鉄道を延長して豊岡駅で合流させること、第二は円山川治水の完全整備であった。 その頃は大開通以北は低湿の水田地帯で人家が立つような環境ではなかった。当時の地図を見ると、今の大開通西半分から豊岡駅まではほとんど人家は立っていない田園地帯であった事がわかる。 市区の改良拡張に重点を置き、寿公園(今のロータリー)を中心とする一条の斜線と14の路線を作る計画であった。この整理は大正八年(1919)にはじまり、昭和七年(1932)までの14年間にわたる。 この事業が進行中に、思わぬ出来事が起こる。大正14年(1925)、北但大震災が起こり、豊岡町の密集地帯が焼け野原になる。不幸な出来事であったが、以後は道路拡幅に伴う家屋移転の手間が省けた。 近代化遺産とされる鉄筋コンクリートの建物群はその頃に火災の延焼を食い止める防火に重点を置き、耐火鉄筋構造の店舗を建築し、旧豊岡町役場や銀行の建物と並んで現在の町並みを形成させたものである。

参考:「見て歩きMAP」ー豊岡駅商店街振興組合

中江種蔵氏座像とロータリー ここを起点とし、豊岡駅と小田井神社を結ぶ寿通りと東西南北に大通りが建設されていった。

中江種蔵 豊岡市京町(きょうまち)の武家屋敷に生まれた。豊岡の上水道建設費を寄付し、奨学金制度も築いた鉱山王。豊岡市街地にある寿公園には、種造の像が建てられ、毎年5月11日には水道まつりが行われている。

  
ふれあい公設市場

   タイムスリップしたようなノスタルジーな風情が残る。南北に流れる川沿いに市場が設けられた。 市内3カ所に木造で公衆トイレが造られた。当時は川を利用したもの。

  
豊岡稽古堂(旧豊岡市役所)                  豊岡1925(旧豊岡市役所南庁舎別館)

  
昭和9年兵庫県商工銀行として建てられた。ルネッサンススタイルの高い天井

  
平成26年、駅舎に見立て、お菓子をテーマにカフェやBAR、宿泊施設を併設する施設に生まれ変わった。

  
BOB・谷山人形店周辺 大開通り歩道橋から         鈴木邸 5戸1棟の共同建築とみられるRC造下駄履住宅

  
リモージュ・ストーク                        十松屋・カワミ 元町通・宵田通

  
高石医院(元は銀行 木造だが洋風の意匠が取り入れられている)  衣川クリーニング

現 ㈱サルード 単独3階建

  

旧城崎街道跡               宵田町の石垣跡 この道にすぐ下は旧円山川

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