東構区と宵田城南構

東構区と宵田城南構

私の生まれ育ち、現在も暮らす区は東構(ひがしかまえ)区という。大正12年に舂米(つきよねとも言うが、正確にはつくよね)神社を建立したとあるので、その数年前である。来年、平成27年(2015年)区創立百周年を迎えることとなる。

1985(昭和60)年の70周年記念誌『ひがしかまえ区誌』によれば、

「大正の初期には、祢布区から出て来た者の他、他地区からの居住者もあり、約三十戸に達し、暫らく独立の機運が高まってきた。(中略)

大正四年四月、日高村議会に新区設立を申請し、承認を受けたことにより、祢布区から分区し東構区として独立した。

議会申請第拾七号議案

西気県道筋 岩中村所属 祢布村所属ヲ合ワセ行政上便宣の為一ノ
行政区ヲ設置其ノ名称ヲ
東構ト定ム

大正四年四月二十五日
日高村長 藤本俊郎 印
認可ス 印

以下、沿革

明治2年、祢布村の住人田里順三郎氏が、祢布字北構に出村して住居を構えたのが最初とされる。
〃 6年、長谷川周治氏、古川徳兵衛氏がこの地に移り住む。
〃 7年、岩中字東柳に日高村立東柳小学校設立(現在の日高小学校の前身)。
〃 7年以降、前記先住者の外に、4名が相協力して部落への来住を各所で勧誘し、建築資金不足者には頼母子講を以って建築資金を融通する等、大正13年までの約四十年間にわたり鋭意住民の増加に努力して、区形成の基盤を固めていった。
大正2年、阿瀬水力発電所完成。供給開始。
〃 3年1月、独立を前提として集会所(寄付台帳では倶楽部となっている)新築を計画。ニカ年にわたって寄付金を募る。
〃 4年8月、平屋建面積(15坪)の集会所及び、一部消防器具庫を兼ねた火の見櫓を建設。(今の4組小林盛夫氏宅)
〃 7年、藤本俊郎村長が県に運動して、兵庫県蚕種製造所を誘致。東構に開設。東構住民の良き働き場所として大変歓迎された。
〃 10年、日高、宿南、三方、清滝各村の伝染病隔離病舎計画が起こり、建設地を日高村の中央に位置する東構区(現在の日高医療センター)に決定する。
〃 区民は、祢布の楯石神社に参拝していたが、他地区から転入する区民が増加するに従い、祢布村出身者以外の者の神社参拝を遠慮されたしという通達が祢布村よりあり、これを機に大正12年、自区内に神社を建てようという機運が盛り上がる。
〃 12年頃、バイパス案を作成、新県道建設
〃 13年4月、日高上水道株式会社が設立。7月20日給水開始。

〃 15年1月、社殿建築決定。用地取得と社殿の建築には巨額の費用が必要としたので、総予算額を各戸の経済事情に応じて割り当てし、四年間の分割徴収を行った。
境内登記(十六坪 長谷川丈エ門寄贈) 岩中東柳56 152坪2合 3月18日登記
〃    6月23日、社殿落成。区民の意見を取りまとめた結果、明治神宮の遥拝所に決定。長谷川利雄氏が区を代表して東京へ行き、明治神宮の遥拝所としての認可を受ける。祭事には明治神宮ののぼり旗を立てていた。
昭和2年、三方村荒川の吉田神官が舂米(つくよね)神社の御神霊を奉持されていることを聞き、それを勧請し、県の神社庁にも登録され、正式に舂米神社となった。なお、祭神の本社は、鳥取県若桜町の舂米神社である。
〃 8年、火葬場の建設については、確かな時期は不明であるが、昭和八年四月の日付で村議会議事録に「東構火葬場に達する道路改良工事施行の件」と上程されているので、この時以前に建設されていたと思われる。
〃 36年には区の戸数は90戸に達し、舂米神社の地続き岩中字東柳(現在地)に新築。
〃 37年、町立の養護老人ホーム「ことぶき苑」完成
〃 42年、区長、副区長、会計の他に事務長を置き、従来の老人会・青年団・婦人会等外郭団体への財政補助を廃止。また区独自の区民運動会を計画実施する。

区名の由来

新区は、大字祢布と大字岩中から成り、区名の「東」は岩中字東柳から、「構」は祢布字北構から取り、「東構」と名付けられた。

区粋はすべて祢布の地番ではなく、下の地図をみるとお分かりいただけるように、面積の約半分は岩中地番であり、神社と公民館も祢布地番に近いが正確には岩中地番にある。

ところで、構や西構もないのになぜ東構なのかと思う。これは区名となった東構のいわれは、区域の西端にあたる祢布字「北構」の「構」と、区域の東端にあたる岩中字「東柳」の「東」と「構」を合わせ東構としたものである。
明治に旧気多(けた)郡日高村という村名が発足したいわれも、『郷土誌 日高村』には、「日高村ハ往時、日置・高生・高田・気多・太田・楽前ノ六郷ニ分属シタリシガ、近古、日置・高田二郷の頭文字を取リテ日高村ト改称セルナリ」とあるが、それに倣ったのかもしれない。

『但馬の中世』p251 宿南保氏に、南構について触れられている。

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『但馬の中世史』宿南保氏著より

垣屋氏の本拠地は、しばしば述べてきたように、三方庄・楽々前庄であった。ここは円山川支流の稲葉川の中・下流域である。垣屋氏の居城はこの庄域に集中している。東西に伸びるこの谷の入口部を制する位置の南側の山上に宵田城、その真向かいの北側に祢布城があって、その両域を結ぶ平地部の直線上には、「南構」「北構」の小字名が橋渡しのように接続して並んでいる。明確に入口部に防衛線が構築されていたことを物語っていよう。南構と北構の境界線上には街道があって、それが西方向へと伸びていたのだろう。南構の西に細長い「市場」字名の存在することは、街道沿いに市場の形成されていたことが読み取れる。

(現在の東構区に隣接する久斗区東部)


赤点線域 祢布


赤点線域 岩中

上図のように、国道312号線城山トンネルの真ん中あたりに宵田城跡がある。その北構と南構の境界線は、西の下道(西気道)とすると、現在の旧県道にあたり、その旧県道に離接する北側で、おそらく北構は中川までだろう。東は祢布区に北に伸びる道までが祢布。道から東は岩中だが、宿南保氏の図によれば、北構は、中川から旧県道までの間に岩中地番までだろうか。その旧県道に隣接する南側から稲葉川までが南構である。祢布区につながる道の西までが祢布、東からは岩中になる。旧県道はJR山陰本線をまたぎ、江原本町で旧国道312号と合流する。岩中字東柳は、現在の日高小学校の前進、東柳小学校があった。旧県道の日高小学校入口あたりである。

現在の行政区域は、本籍上は上記の祢布と岩中であるが、西北部が祢布であるが、その他の大部分は岩中となっている。ちなみに明治までは祢布は高田郷、岩中は高生郷と異なる郷であるように、祢布と岩中の田畑地域で、何時頃から居住者があったかは定かではないが、大正期に東構発足時、十数軒と記されている。

「市場」について考察

ここで、別に東構区の西にある久斗区の小字名、「市場」に触れておきたい。気多郡の中心部を東西につなぐ西の下街道をはさんで宵田城の北構と南構が構築され、その街道上に市場があった。既出の宿南保氏『但馬の中世』の「市場村と諸街道」に、『兵庫県小字名集』但馬編にある中世に成立した但馬の市場のなかで、豊岡市日高町の市場は、道場、久斗の2カ所が記されている。南北朝期の山城跡で、垣屋氏の居城楽々前(ささのくま)城が遺存している道場の小字に市場があった。室町後期、垣屋氏は明徳の乱以後、垣屋隆国の孫三人に別れ、楽々前城、宵田城、轟城を受け持った。山名家の筆頭家老の座につき、久斗の字市場は、祢布との境の村の入口部で、「構」の要害に接する位置である。おそらく南北朝から室町期に宵田城築城により、道場から久斗へ移ったのだろう。

室町期に創築ともられる山城のところでも、城主居館地に接して市場字名地が残っている例のあることはわかっているのであるが、だいたいのところは、小字名として残っている市場のところは、南北朝期に始まった市場の地とみてよいのではなかろうか。

集落名となっている市場は室町期成立

これに対し室町期になると、一集落名全体が市場となったことを表す集落名が現れてくる。一日市とか出合市場(いずれも豊岡市)などである。それは市場維持の要因が、地方権力の保護よりは、農民流通の便利な場所に重点が移ったことによると考えられる。したがって、その出現地は地域の中心地で、自然発生的な姿である。同時に、南北朝期の市場のなかには廃れるものも現れてくるはず。

宵田城址は正しくは岩中地番であり、現在、岩中区が城山公園の管理をされている。円山川沿いの旧国道312号線が宵田区で、なぜ岩中なのに宵田城なのかと思う。垣屋氏の殿屋敷(居館)が宵田にあったのだろう。山名氏の趨勢が衰えて但馬守護代の筆頭となった垣屋氏は、木崎城(豊岡城)代となり、屋敷を置いたことから豊岡市の豊岡城東に宵田町という地名や出石町にも宵田町が残っている。垣屋氏は宵田殿と呼ばれていたと考えられる。

集落名としては但馬では旧朝来郡伊由市場、加都市場、糸井市場、旧養父郡の養父市場、大屋市場、旧出石郡の出合市場、久畑市場、城崎郡の九日市、一日市、穴見市場、美含郡の市場(現豊岡市竹野町森本・坊岡、七日市、一日市(現美方郡香美町)、旧美方郡の菟束市場(現香美町村岡区福岡)、二日市(新温泉町、旧浜坂町)

気多郡には府市場が今でも残っているが、これはもっと古く、国府があったことによるとみられている。しかし、太田文には国府(こふの・こうの)市場・手辺とされるところで、府中とも称されていた。府市場となったのはまだ新しい

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