辛光洙(シン グァンス)釈放に署名した2人の閣僚 菅、千葉
7/8【頑張れ日本】6.9『救国』全国国民総決起集会[桜H22/6/14] SakuraSoTV
西岡力 増元照明 荒木和博 石平 (敬称略)
首相、拉致実行犯の釈放嘆願署名「反省している」
産経新聞 2010/06/14菅直人首相は14日の衆院本会議で、過去に北朝鮮による拉致事件の実行犯、辛光洙(シンガンス)元死刑囚の釈放嘆願書に署名したことについて「対象の中に辛光洙が入っていたことを十二分に確かめずに署名したことは間違いだった。従来から反省している」と述べた。首相が就任後に嘆願書への署名を謝罪したのは初めて。菅原一秀氏(自民)への答弁。
首相、方針転換「国旗大好き。国歌も嫌いではない」
産経新聞 2010/06/14
国旗は大好きだし、国歌も決して嫌いなわけではない-。
菅直人首相は14日、衆院本会議の代表質問で、平成11年成立の国旗国歌法に反対した当時から方針転換した“心境”を語った。
首相は「もっと元気のいい国歌でもいいかなという意見があった」と、同法の採決で対応が割れた民主党内の情勢を説明したが、自身が反対した理由は触れずじまい。その上で「今は常に国旗があるところではきちんと敬意を表し、国歌斉唱もしている」との弁明も忘れなかった。
新左翼の市民社会運動家が、勢力を批判するパフォーマンスと空気を読むリアリズムの権力志向でのし上がった平民政治家がついに総理大臣になってしまった。戦後初めての共産党よりもっと左翼の国家解体社会主義内閣だ。「外国人地方参政権」「夫婦別姓」「人権擁護法案」など、まったく日本の国家観、国民意識がない在日中心の保障のための政権です。それでも民主党を支持するのですか。
シン グァンスとは
辛光洙(シン グァンス、1929年6月27日 – )は在日北朝鮮人で大韓民国(韓国)の政治犯。日本人拉致に関わった北朝鮮のスパイだった。
人物
静岡県浜名郡新居町出身。日本名は「立山富蔵」(たてやまとみぞう)。太平洋戦争終結後に北朝鮮に移住。1950年に北朝鮮義勇軍に志願入隊。1954年にブカレスト工業大学予科入学、その後機械学部を卒業、技師資格を取得。日本語、英語、朝鮮語、ロシア語など4ヶ国語を話す。その後、朝鮮労働党の命により工作員になる。
1973年に能登半島から日本国内に侵入。東京の在日朝鮮人朴春仙の家で生活している。この時の辛の生活は石高健次が1994年頃、朴から聞いている。朴によると辛は2階の1室を借りて住みこんだ。しかし来客を嫌い、2階の部屋に閉じこもるほど、工作活動の漏洩には注意していた。外出して書籍を買ってくる時は決まって政府の白書(主に防衛、軍事関係)だった。北朝鮮への郵送物は自分では行かず、朴が代わりに行くことが多かったが、絶対に「東京国際郵便局に行ってくれ。近所の郵便局ではだめだ」と話していたという。石高が朴からこれらのことを聞くことができたのは、朴からの依頼であり、「私がかつてスパイ(=辛)と暮らしていたから」と話を切り出したという。辛は朴に自分が工作員である旨を話している。以後東京、京都や大阪に居住、また拠点とし対南工作を行うことが増え、朴の家に住み着くことはなく、時折戻ってくる程度になった。そして、1980年6月に宮崎県青島海岸で大阪府に住んでいた日本人調理師を拉致、同人になりすまして海外渡航を繰り返していたが、1985年にソウル特別市内で韓国当局に逮捕された。[1]当初は死刑判決を受けたが後に無期懲役に減刑。1999年12月31日、金大中大統領によるミレニアム恩赦で釈放され、2000年9月2日、「非転向長期囚」として北朝鮮に送還された。
2005年12月30日、先に述べた調理師以外にも、現在帰国している一部の被害者や、新潟県新潟市で拉致された13歳の女子中学生等の拉致に、辛光洙と「朴」と名乗っていたチェ・スンチョルが実行犯として関わっていたことが明らかにされた。日本の警察は2006年2月23日、国外移送目的略取と国外移送の疑いで再度逮捕状を取得、同3月3日、重ねて辛光洙を国際指名手配し、北朝鮮に身柄の引き渡しを求めている。
在日韓国人政治犯釈放の要望書について
1989年7月、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人の政治犯29名について、韓国当局に対して釈放を求めるという趣旨の要望書が、当時の日本社会党、社会民主連合、公明党、無所属の議員有志ら133名の署名とともに韓国政府に提出された。このとき釈放要望対象となった政治犯29名の中に辛光洙の名が含まれていたため、金正日が北朝鮮による日本人拉致問題を認めた2002年9月以降、署名した国会議員は、土井たか子・菅直人らが2002年10月19日に当時官房副長官であった安倍晋三から名指しで「極めてマヌケな議員」と評されるなど、保守派政治家や日本共産党から非難された。
これに対し公明党や社民党などから下記のような反論・指摘がある。
当時の日本国内での政治犯釈放要求運動の対象はもっぱら、徐勝・徐俊植兄弟の救援であった。当時の日本国内における北朝鮮による日本人拉致問題の認識は「北朝鮮による拉致の疑いがある」という程度のものであり、警察の捜査も進展していなかった。辛光洙をはじめとする実行犯の氏名や具体的な犯行内容については、国会議員だけでなく一般社会でも全く認知されておらず[2]、当時は辛光洙が拉致事件に関与していたことは明らかにはなっていなかった。
一方、共産党は主に公明党に対して以下のような反駁を行っている。
要望書が提出される1年前、1988年3月26日の参議院予算委員会において、日本共産党議員が辛光洙事件について質問・追及しており、公明党からも署名者2名が出席していた。国会議員が事実を知らなかったこと自体おかしな話。
また、共産党は自民党議員がこの件を取り上げると自民党議員に対して下記の反論をすることが多い。
自公連立の友党である公明党の議員が署名していたことについて、何の言及もしないのは二重基準だ[6]。
なお、1984年4月25日、衆院外務委員会において、日本社会党の土井たか子議員が、韓国の在日韓国人政治犯の釈放に向け日本政府の尽力を求めたことに対し、前述の安倍晋三の父である安倍晋太郎外務大臣(当時)は、「私も外務大臣となって2年近く、韓国の外務大臣や要人と会うたびに、この政治犯の取り扱いについて人道的な配慮を加えてほしいということをしばしば申し入れて、今日に至っている」と述べ、「内政干渉にわたらない範囲内で人道的配慮を韓国政府に絶えず求めていきたい」「この7月に行われる外相会談でも、(土井)委員の要請を十分踏まえて対応する」と答弁している。
要望書に署名した国会議員 (太字現職)
日本社会党(現民主党・社民党)
衆議院
阿部未喜男、五十嵐広三、池端清一、石橋大吉、石橋政嗣、伊藤茂、伊藤忠治、稲葉誠一、井上泉、井上一成、井上普方、岩垂寿喜男、上田哲、上田利正、上原康助、大原亨、大出俊、緒方克陽、岡田利春、小川国彦、奥野一雄、小澤克介、加藤万吉、角田堅次郎、河上民雄、河野正、川崎寛治、川俣健二郎、木間章、上坂昇、小林恒人、左近正男、佐藤観樹、佐藤敬治、佐藤徳雄、沢田広、沢藤礼次郎、渋沢利久、嶋崎譲、清水勇、城地豊司、新村勝雄、新盛辰雄、関山信之、高沢寅男、田口健二、竹内猛、田中恒利、田邊誠、田並胤明、辻一彦、土井たか子、戸田菊雄、永井孝信、中沢健次、中西績介、中村茂、中村正男、野口幸一、野坂浩賢、馬場昇、早川勝、広瀬秀吉、細谷治通、堀昌雄、前島秀行、松前仰、水田稔、三野優美、武藤山治、村山喜一、村山富市、安田雄三、山口鶴男、山下八洲夫、山花貞夫、吉原栄治、渡部行雄
参議院
青木薪次、赤桐操、穐山篤、秋山長造、一井淳治、糸久八重子、稲村稔夫、及川一夫、大木正吾、大森昭、小川仁一、小野明、梶原敬義、粕谷照美、久保亘、久保田早苗、小山一平、佐藤三吾、志苫裕、菅野久光、鈴木和美、高杉延恵、千葉景子(法務大臣)、対馬孝且、中村哲、野田哲、浜本万三、福間知之、渕上貞雄、松前達郎、松本英一、丸谷金保、村沢牧、本岡昭次、八百板正、安恒良一、安永英雄、矢田部理、山口哲夫、山本正和、渡辺四郎
公明党
衆議院
小川新一郎、鳥居一雄、西中清
参議院
猪熊重二、塩出啓典、和田教美
社会民主連合(現民主党)
衆議院
江田五月(参議院議長)、菅直人(内閣総理大臣)
参議院
田英夫
無所属
衆議院
安井吉典(社会党系)
参議院
青島幸男、宇都宮徳馬、喜屋武真栄、山田耕三郎
要望書の内容
私どもは貴国における最近の民主化の発展、とりわけ相当数の政治犯が自由を享受できるようになりつつあることを多とし、さらに残された政治犯の釈放のために貴下が一層の主導権を発揮されることを期待しています。在日関係のすべての「政治犯」とその家族が希望に満ちた報せを受け、彼らが韓国での社会生活におけるすぐれた人材として、また日韓両国民の友好のきづなとして働くことができる機会を与えて下さるよう、ここに心からお願いするものであります。
1989年
大韓民国盧泰愚大統領貴下
日本国国会議員一同
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