【たんごる】 奥宮 真名井神社と雄略天皇

比治の真名井は峰山の比沼麻奈爲神社か宮津市大垣の籠神社奥宮 真名井神社か?

日本三景天橋立の西の付け根にある元伊勢籠神社本社の北東約400mの所に、当社の元の鎮座地である奥宮真名井神社(まないじんじゃ)がある。

丹後国一宮・元伊勢籠(この)神社は何度か訪れたことがあり、真名井神社にも一度訪れてみたかったが、観光客が多く、車では真名井神社には行きにくく、東に細い道があったことが分かったのではじめて訪れた。

社伝によれば、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」という。

養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めた。真名井原の元の鎮座地は摂社・奥宮真名井神社とされた。後に海神・天水分神が配祀された。祭神が籠に乗って雪の中に現れたから「籠宮」という社名になったという伝承がある。

伊勢神宮に内宮・外宮があるが真名井神社は外宮と同じ豊受大神。元伊勢籠神社は、豊受大神が伊勢に移る前に祀られていたところから「元伊勢」と称されている。

御霊水・天真名井の水

関裕二氏によると、こう著している。

浦島太郎は丹後半島に濃厚な伝承を残しているが、この地域でもうひとつ有名なのが「天の羽衣伝承」。『丹後国風土記』逸文によれば、丹波国丹波(京丹後市弥栄町丹波)(昔は丹波・丹後は一つの国で中心はこの辺りだったとされる)比冶の里を見下ろす比治山の山頂に井戸があって、あるとき、ここに八人の天女が舞い降り、真井(真名井)で水浴び(沐浴)をしていた。

この様子を見ていた老翁が天の羽衣を奪い取り、ひとりの天女が天に戻ることが出来なくなってしまった。これが豊受大神である。老翁の家を豊かにしたにもかかわらず、後に増長した老翁に裏切られるという話し。

また、『国司文書・但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記(一部他の郡を補足)には、

天火明命(あめのほあかりのみこと)*1は天照大神(あまてらすおおみかみ)の勅(皇の命令書)をたまわり、外祖、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)より、十種の瑞宝(澳津鏡一、辺津鏡一、八握剣一、生玉一、死去玉一、道反玉一、足玉一、蛇比禮一、蜂比禮一、品物比禮一)を授かり、そして、妃の天道姫命と与(とも)に、
坂戸天物部命 二田(ふたたの)天物部命
嶋戸(しまへの)天物部命 両槻(なみつきの)天物部命
垂樋(たるひ)天物部命 天磐船命
天船山命   天揖取部命
稲年(いきしに)饒穂命  長饒穂(たけにぎほ)命
佐久津彦命  佐々宇良毘売命
佐々宇良毘古命 佐伎津彦命
らを率いて、天磐船(あまのいわふね)に乗り、高天原より田庭(丹波)の真名井ヶ原に降り、

(天火明命は、)豊受姫(とようけひめ)命より五穀蚕桑の種子を得て、
射狭那子嶽(いさなごだけ)に就き、真名井を掘り、稲の水種や麦・豆・黍(きび)・粟(あわ)の陸種を作るべく、これを大小の田に植え、昼も夜も水を潅(そそ)ぐ。

まもなく、その秋には瑞穂の良い稲が野一帯に所狭しと豊かに実りました。
豊受姫命はこれを見て「阿那爾愛志(あなにえやし)。命これをさらに田庭に植えよ」と、大いに賞め、教えました。

しかるのち、豊受姫命は、天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの事業の補佐させました。しかしてのちに、高天原に上り給う。
故にこの地を田庭と云う。丹波の号ここに始まる。
(以下、朝来郡故事記は)
ゆえにこの地を名付けて、比地の真名井原と云う。(比地は奇霊地の義)

『国司文書・但馬故事記』第六巻・美含郡故事記
のち豊受姫命(大神)を、丹波国余謝郡真名井原に斎き祀り、豊受太神宮と称え奉る。
人皇22代雄略期の22年に、大佐古命を丹波に遣わし、豊受太神宮を迎え祀り、これを伊勢国度会郡山田に祀り、外宮と号(な)づけ祀る。

*1 天火明命…気多郡・養父郡・城崎郡故事記は、天照国照彦櫛玉饒速日天火明命

(註:式内 比沼麻奈爲神社(ひぬままない):京都府京丹後市峰山町次久、または丹後一宮籠神社 奥宮真名井神社:京都府宮津市大垣)

籠神社の籠とは

丹後半島の付け根に鎮座する籠神社には、豊受大神を巡るいくつかの伝承がある。豊受大神は最初「籠」に乗って現れたといい、また、籠神社の祭神が、竹で編んだ籠船に乗って降臨したことから、この一帯に浦島伝説が残ったのだという。

問題は、浦島太郎伝説と豊受大神が、同じ地域で語り継がれていることだ。また豊受大神は、伊勢神宮の外宮に連れて行かれ、内宮の天照大神に食べ物を供献する神となっていくのだが、なぜか『日本書紀』に無視された謎の神である。

注目すべきは、山幸彦の妻が「豊玉姫」であったこと、浦島太郎伝説の地・丹後に残された悲劇の女神の主人公が「豊受大神」だったことで、浦島や塩土老翁と関わりのある女神が、どちらも「トヨ」の名を冠していることである。

豊受大神は天の羽衣を着ることで空を飛ぶことが出来るが、その本質は、「海(水)の祟る神」であり、一方で「水野女神」は、人びとに豊饒をもたらす女神でもある。だからその名に「豊」の名を冠したのである。

「トヨ」の名を冠する女神たちが「海の女神」でもあるのはこのためだ。
「羽衣」は古代の重要な呪具である。豊受大神は「羽衣」を奪われ自由を失った。かぐや姫は月の都に帰るとき、「羽衣」を着ることで人間ではなくなるといっている。人間でないものとは、要するに神のような存在であり、事実、天皇は即位後の大嘗祭(だいじょうさい)で、「羽衣」を着込んだ瞬間に、人間ではなくなる。

つまり、「羽衣」は「人」が「神」になるための呪具であり、王権のシンボルでもあったのだ。持統天皇は天香具山の歌のなかで、天香具山のほとりで女神が沐浴(水浴び)し、羽衣が乾かしてあること、それを奪ってしまおうと、歌ったということだ。

要するに政権交替のチャンスが到来したことを言い表していたわけである。そして問題は、天の羽衣の持ち主が豊受大神(トヨ)であったこと、天橋立と羽衣伝承と真名井神社の祭神・豊受大神、天香具山でトヨが沐浴していた持統天皇の歌と、どうやら偶然ではないようだ。
というのも、天香具山の周辺には「トヨ」が満ちあふれているからである。

たとえば神武東征だ。
東征に際し、ヤマト土着の抵抗勢力の反発に困惑した神武であったが、神託を得て、天香具山の呪術を執り行った。天香具山の土を取って平瓦(ひらか)を造り、天神地祇を祀ったところ、敵を倒すことができた、というのである。

天香具山の豊受大神は、一方で、丹後半島の籠神社で祀られている豊受大神であり、ここでは、濃厚な浦島太郎伝説に彩られているが、この神社を守り続けてきたのは大海氏で、この一族は尾張系である。尾張氏の祖と同じ名をもつ天香具山が「トヨ」の山だった。とするならば、尾張氏はヤマトを代表する聖なる一族であった疑いが出てくる。その証拠に、天香具山の「カグ」は「カゴ」とも読み、神聖な「籠」を意味しているからである。

「カゴ=籠」は、古来大切な呪具として珍重されてきたからであり、天香具山が「天の籠山」であればこそ、神聖な山として尊ばれた理由がストレートに伝わってくるのである。しかもそれは、王権の行方を左右するほどの力を持った霊山である。「カゴ」はやはり、この上なく神聖な器=籠が相応しい。
それ以上に、『日本書紀』がこの一族の正体を抹殺したところに問題がある。なぜ八世紀、「籠の一族」の活躍を歴史から抹殺し、闇に葬ってしまったというのだろう。

尾張氏を巡っては、おおまかに言って二つの系譜が存在する。
ひとつは『日本書紀』の言う、皇祖神から枝分かれした尾張氏であり、もうひとつは『先代旧辞本紀』の、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)から天香語具山命(天香具山命)、そして尾張氏に続く系譜である。

ここでは『先代旧辞本紀』の記述に注目してみよう。尾張氏が饒速日尊から続いているという記述は、大きな問題をはらんでいる。というのも、ニギハヤヒは出雲の出身であり、大物主神と同一だからであり、つまり『先代旧辞本紀』の系譜は、尾張氏が「出雲」であった可能性を示しているのである。

継体天皇の謎解きに、尾張や出雲という要素は欠かすことができない。なぜならば、次第に明らかになっていくように、ヤマト建国後の東国は、「出雲」の強い影響をうけるからなのだ。そして継体天皇は、このような「東国の出雲」を背負ってヤマトに登場するのである。

尾張系の氏族の特徴は、籠神社の海部氏や大海氏というように、「海」の名を冠していることで、これは尾張氏が海上交通に秀でていたからに他なるまい。尾張氏は「海の豪族」で、尾張氏の祖神は「海の神」であるから、ともかうキーワードは「海」である。そこでもう少し、「海の民の生態」にこだわっておきたい。

「海の民」のテリトリーは、「海」に限定されていない。彼らはさかんに陸に上がり、野を開拓し、山を登った。だから「海の神」はいたりところで「開拓神」として祀られている。(中略)

神功皇后が実在し、しかもトヨであったという私見からは、邪馬台国よりも早く魏(中国)から「金印」を獲得した「倭の奴国」は、三世紀にはしきりに中国に朝貢していた「倭」が、ばったりと外交活動を停止してしまう。

この間、何をしていたかというと、もっぱら内政の充実に心血をそそいでいた気配がある。とくに東国を政権の枠組みに引き入れることに腐心していたようで、結果として五世紀に入ると東国の兵力を朝鮮半島に振り向ける体力を身につけることができるようになった。

それはおそらく、朝鮮半島南部の小国家群「伽耶(任那)」と利害を共有していたからだろう。弥生時代の北部九州は、この伽耶と同一の文化圏に属し、伽耶は島嶼部を利用した交易小国家群で、また鉄の生産でも群を抜いていた。

朝鮮半島は、北方騎馬民族の高句麗の南下に苦しんでいて、ヤマト朝廷は、高句麗から伽耶を守るために、さかんに出兵したのだろう。つまりは鉄資源の確保のための戦争といえる。

このような五世紀のヤマト朝廷の活発な動きは、中国大陸の王朝にも都合のいいことだった。というのも、万里の長城が騎馬民族の脅威が生んだ遺跡であるように、彼らにとって、高句麗に代表される騎馬民族国家は頭の痛い存在だったのだ。ヤマト朝廷が南側から圧迫してくれるとなれば、願ったりかなったり、ということになる。

このため、ヤマト(倭)の五世紀の大王は、ある程度の知名度を上げ、中国(この時代は宋)から、しきりに「称号」を出させるように運動した。これがいわゆる「倭の五王」と呼ばれる人びとで、『宋書』倭国伝には、讃・珍・済・興・武として現れ、これはそれぞれ、仁徳・反正・允恭・安康・雄略天皇のことではないかと考えられている。

彼らが獲得した称号は、じつに長々しく威厳に満ちたものだった。初めは安東大将軍・倭国王。そして倭の五王最後の武王=雄略天皇にいたっては、使持節都督倭・新羅・任那・加羅(伽耶)・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)六国諸軍安東大将軍と、いかにも日本列島から朝鮮半島までをも支配していたかのような響がある。

ただし、これを言葉通りに受け止めてはいけない。高句麗の南下を食い止めているヤマトの王権に対する、宋側からのご褒美であり、一種の名誉職といった方がいいかも知れない。しかし、実験を伴わなかったヤマトの王家が、宋から認められたことによって(もっとも実際に活躍していたのは物部氏を中心とする周囲の豪族層だっただろうが)増長していった疑いが強い。

そして五世紀後半、ついに独裁権力を握ろうとする雄略天皇という暴君が生まれたのだった。

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